14
好きだと告げたのは、別れのつもりだったのかもしれない。
玲二はそう考えるようになっていた。
フキエが消えて三日が過ぎた。 捜索願いを出そうにも、本当のところどこの誰かもわからない。 最初の夜は帰らないフキエを心配して夜も眠れなかったが、夕べあたりはもう諦めた。
愛想をつかされるような過去が露呈したんだ。 逃げられたって当然だ。
誰彼構わず寝ていた過去。 改心したとはいえ、それは消えない玲二自身の一面だ。 忘れてほしいなん言えるはずもない。
『好きだったけど、幻滅しました』って言う意味だったんだろう。 もう、顔も見たくないくらいに。
残されたすべての荷物、ちぎったレタス、部屋の片隅においてあった2つのクリスマスプレゼント。 あれは玲二とあかりのために用意していたのか。
鮮やかな痕跡を残して消えたのはフキエの傷を見せつけているのだろうか。
「そんなわけないじゃん、玲二くんのバカ」
バカ、アホ、はげ。 自分の考えを聞かせるとあかりはのべつまくなしそう言った。 はげてはいないぞと否定したいが何を言われるかわからないのでおとなしく聞いている。
昨日起こったことを、玲二はあかりに話した。 一生誰にも話さずに抱えていくつもりだったことを、意外なほどあっさりと打ち明けた。 あかりは驚いていたものの、最後まで玲二の話を聞くと、キレた。
「フキエさんはきっとなにか事情があったんだと思うよ、じゃなきゃ、お腹すいてるあたしをそのままにしてどっか行ったりしない!」
「それはお前、わからないだろう」
「だって、昨日はちゃんと『ご飯は各自で何とかしてください』って言ったんでしょ?昨日の方がフキエさんにとってはショックだったはずなんだから!」
「……」
確かに、そうかもしれない。
きのうの時点でフキエには玲二のしてきたこと、事件のこと、志帆を好きだったことは知れていた。 今夜は彼女にとってそれらの答えあわせのような作業だったはずだ。
だとしたらあかりの言う通り、彼女を傷つけたのは玲二の告白のはずだ。
「だから、事故とか事件かもしれないよ?フキエさんに何かあったんだ。志帆さんのことだってあるんだから、テレビの中だけの話じゃないんだからね!」
「そうはいっても……」
* * * * * * * * * * * * * * *
「チーフー、フキエさんどうしたんでしょうね?具合悪いんですかね」
「あーー、山本。お前のところに連絡いってないよな?」
「チーフにないのに俺にあるわけないじゃないですか」
「いや、仲いいから」
「そうでもないですけどね?」
仲よかったじゃないか、玲二は一人毒づく。 一緒に出掛ける約束をしたり、二人で仲良く喋ったりしてたじゃないか。
「フキエさんとオレは姉弟みたいな感じなんですよ。前に怒られたって言うかガツンと言われたことがあって、それから色々相談に乗ってもらうようになったんです。フキエさんはどっちかって言うとチーフみたいな人の方がタイプだと思いますよ?」
……少し嬉しい。 自分に告白するより前から、自分を好きなようなそぶりを他の人にも見せていたことが、嬉しい。 まともな恋愛をしてこなかった玲二は、ここに来てそういうわずかなことで心が動くことを初めて経験していた。
相談してみようか、この、お調子者だけどフキエの気持ちをなんとなく読んでいた後輩に。
「俺さ、フキエと一緒に住んでたんだよ」
「どどどどどどど」
「落ち着け」
「同棲ですかっ!」
「同居ね。」
同棲から想像できる色っぽいことなどひとつもなかったのだから同居だ。 あかりもいたし。
「これ、他のやつには言うなよ」
玲二はかいつまんでフキエが自分の家に来るまでの説明をした。 飛び降り自殺を未遂で防いだあたりは、さすがに言えなかったが。
「はあーー、フキエさん、大変だったんですね……。それで、出ていっちゃってそれきりですか」
「うん、妹にはなにか事件とかに巻き込まれたんじゃじゃないかって言われたんだけど、わかんねえし……」
ふてくされる玲二を笑顔の山本が見つめる。
「……なんだよ」
「チーフは、いっつも厳しいんだけど優しくて、でもクールで弱いところなんて見せること絶対ないじゃないですか。そういうところ、俺憧れるし、いつかそういう男になりたいとも思うんですけど。
そんな風に、困ったり、慌てたりもするんだなーって、俺だけ知ってるみたいで、なんか嬉しいっす」
「……うっせ」
それにしても、フキエである。
金は、財布をもっていただろうから多少はあるだろう。 しかし、あとで残された荷物を見たら大方はタンス預金として残されていたらしい。 あかりが発見した。 住まうところもその他のものもみな始末してここにたどり着いたといっていた。
それならば、どこにいるのだろう。 寒い思いをしてないだろうか。 飯は食えているだろうか。
やはり事件や事故に巻き込まれてしまったのだろうか……
不安が顔に出たのだろうか、山本がやけに明るい声をだした。
「チーフは、あれですよね。フキエさんのお友だちの結婚式に列席されたんですよね?連絡先交換されたりとかしなかったんですか?」
「今思うとなー、誰かと交換しとけばよかったって。式場から教えてもらうこともできないよなー。くっそ、あと、どこに聞いたら……」
「そうですね……」
「……」
あれ
なにか、大事なことを忘れているような気がする。
もっと簡単に、フキエに繋がる人……
玲二も山本も、なにかが引っ掛かって出てこない。
二人で顔を合わせて見つめあう。
「チーフ!ご予約のお客様見えました。」
「はーい……」
予約、よやく?
「チーフ……」
「山本……」
その姿勢のままガバッと抱き合った。
玲二を呼びに来たスタッフはビクッとしてそそくさと出ていった。 ここのところすっかり聞こえなくなった玲二のゲイ疑惑がこのあと再燃するのだが、そんなことに構ってはいられない。
いた、いたのだ。
「「宇野さまーーーー!!」」
フキエの元同僚、宇野奈津子だ。
「え、実家に戻られてるみたいですよー?」
「実家……」
「ええ、私秘書課なんですけどー、先日副社長がそう言ってましたね」
即日連絡をつけた宇野奈津子は、会社上がりにサロンに立ち寄ってくれた。 最初にここでフキエと顔を合わせたときは何やらよくない雰囲気で、玲二も会社での黒い噂を聞かされたりしたものだが、すっかり和解したらしい。 急に姿を消して心配していると言うと、耳にしたことを教えてくれた。
「ご実家とは折り合い悪いんじゃなかったですか?」
「あー……、私はその辺の事情はあんまりー。でも、やっと見合いをさせられるって、喜んでらしたみたいですよー?」
「……見合い」
憎らしげに玲二の目が細められる。 親も親だがフキエだってなんだ。 そうなるとわかっていたのに帰ったっていうのか?
俺を、好きだと言ったのに
「宇野さま……フキエの実家を、教えていただくわけにはいきませんか?」
「それはーー、個人情報の観点からもちょっと……。」
「そうですよね」
それでもなんとか、とお願いしようと口を開こうとした。その前に、奈津子がこう言った。
「でも、お見合いはうちでするそうなのでー、そちらに行ったら必ず中川さん捕まると思いますよ?」
「うち?」
「はい、ナカガワで」
なにそれ?と額に浮かばせた玲二を見て、奈津子はあれ?という顔をする。
「え、もしかしてご存じないー?うちの会社ー」
聞いたことはない。 フキエからも、そういえば奈津子との会話でも、どこに勤めているかなんて聞いたこともなかった。
「申し遅れました、私こういうものです」
『Hotel Grand Nakagawa Tokyo
秘書課 主任 宇野奈津子』
奈津子の差し出した名刺にはそう記されていた。
「グランド ナカガワ……って」
「はい、世界に12支店を構えるホテルチェーンです。中川富貴恵は2代目社長の長女です。今のところ、後継者候補一位ですね。ごぞんじありませんでした?」
知らねえーよ! いや、そのホテルは知ってますけどね?ていうか、知らない人探す方が難しいよ!どこかの会社の社長令嬢だってことは知ってたよ?知ってたけどさあー、そんなでけえ会社だとは思わないじゃん!!
あまりの衝撃に絶句してしまった玲二を見て、奈津子は話を続けた。
「中川さんー、ここにいるときと会社にいた頃って別人みたいなんですう。あの頃は、全然笑ったりしないしー、友達とかもいないしー、いっつも一人で?それでも、全然寂しそうにしないから、誰も声かけたりしなくってー。ここにいる中川さんは、楽しそうににこにこ笑って、いっつも忙しそうで、楽しそうで?こっちの中川さんの方があたしは好きだったなあー。」
課が隣だったので、と奈津子が笑った。 その頃のフキエを思い出したのだろうか。苦笑いをしている。
「見合いって……いつ?」
「押し迫ってからやるんですよう。12月26日の金曜日。クリスマスも終わって新年の前にやっつけようとする気満々ですよねー?」
「明後日……」
「……松谷さん、略奪しちゃうー?」
玲二は自分の出方を決めかねていた。 過去の自分、おかした過ち、傷つけた人たち。 それらに対するフキエの気持ちは聞けずじまいだった。 どう思っていたのか、許してくれるのか、好きだという言葉に続きはあるのか。
────心だけは、決まっているじゃないか。
フキエが好きだ。
アイツがどこの誰でも、何をしてきた人でも。
それなら、もう一度会って、まず自分の気持ちを伝えなきゃ。 そうしなくちゃ、始まらない。
でも、もうひとつ、気になることが……
「……宇野さま、役付きだったんですね?」
「うふふ。バカっぽいけどー、仕事はできるんですー」
* * * * * * * * * * * * * * * *
「佐野さん。本当に一人でできますから」
「存じておりますが、また逃げられましてもわたくしが社長に叱られますので」
「……」
富貴恵、という名前が死ぬほど嫌いだった。
身分に相応しい富に恵まれるよう────両親のホテルに対する願望を当て込まれたような名前は、書くたび耳にするたび苛立ちを覚えた。
それを、いい名前だ、と言って一瞬で宝物に変えてくれた人がいた。
フキエの父親は先代から引き継いだグランド ナカガワを発展させようとそれだけに心血を注いできた仕事人間だった。
ワンマンで、傲慢で、強引。
そして、そういう男の家庭がアットホームな訳はない。 よくも、子供を三人も作ることができたなと思わず感心するほど夫婦には会話はなく、双方にはそれぞれ公認の愛人もいる。 まあ、公認というのはあくまで暗黙の、ではあるが。
そんな家庭に育ち、フキエが全うに他人と関係を築けるわけがない。 子供の頃から友達は少なく、会社に入ってからは社長の娘という冠もついてさらに孤立した。 近寄ってくるのは父に媚びたい上司たちばかり。せめて仕事には文句をつけさせないと力をいれれば、どんどん回りが引いていく有り様。
兄が生きていてくれればと、何度思ったか知れない。 無理矢理未来を断たれた兄のためではなく、フキエは自分のエゴだけでそう願っていた。
6歳上の兄は、あんな家に育ったとは思えないほど明るく活発で友人も多かった。 父親とは違うベクトルの求心力を持ち、彼の部下たちも兄の存在には一目置いていた。
兄が亡くなったあと父に呼ばれたフキエは婿をとり中川を継ぐようにと言いつけられた。 やっと自由になれると思ったのに結局逃げられない。 絶望した。
父の言いなりの人生を覚悟したフキエの前に石原──フキエの元婚約者──が現れたのだ。
フキエが彼を認識したのは些細なきっかけだった。 コピー機が詰まったとか、段箱が重かったとか。 フキエもそれまで困らなかったわけではない。 誰にも頼れない雰囲気だったからマニュアルや台車にその度お世話になっていただけなのだ。
石原はシンガポール支店からの移動してきたばかりでフキエのことを知らなかった。 一人で困っている女子社員がいれば助けるのは普通。 でも、その普通を、いかなる普通も知らなかったフキエは、一瞬で恋に落ちた。 そして、すぐに失恋した。 彼は日本に恋人を残していた。 同じホテルのフロントにいた彼女と帰ってきてやっとその距離が近くなったのだ。 もう誰も入る隙間などない。
それでも、好きな人がいる生活はいないのとは全く違う。 すれ違えば嬉しい。挨拶ができたらさらに嬉しい、返してくれたらもっと嬉しい。
そんな淡い恋を抱えて数ヵ月。 ある日父親に呼ばれ社長室に行くと見合いをしろと告げられた。 そして、相手が石原であることも。
石原には彼女がいるが、社長直々の命令で断れなかったのであろう。 フキエにしても相手が誰であろうとNOを言えるわけはない。
もしかしたら、今までの夢のような気持ちが壊れてしまうかもしれない。 憎まれて、嫌われてしまうかもしれない。
それでも。
初めてフキエは、圧力を自分のために利用した。 たとえ心が寄り添えなくても、必要とされなくても、たった一人初めて好きになった人と結婚できる。 それは、幸せなことなんじゃないだろうか。
でも、フキエは間違えた。そして、ズタズタに傷ついた。
夏風に吹かれてビルの屋上に立ったとき、これで自由になれると思った。 父からも母からも解放されて、鳥みたいに、花みたいに自由に。
子供の頃から物質的には何一つ苦労はしなかった。 でも心はいつも縛られていて、不自由だった。 あと一歩、たった一歩で翔べたのに。
玲二が教えてくれたのは、逃げ出して手に入る自由じゃない。 家族の優しさあたたかさ、夢を見て実現させる努力や勇気。 何気ない会話で笑うこと。 ご飯を美味しいと思うこと、それをわけあうこと。そして、恋する喜び、痛みや苦しみ。
一方的に教えてもらった訳じゃない。 一緒に探して見つけた、大切な想いや記憶。
────あそこに帰らなくちゃ。自分の足で帰らなくちゃ。それには、どうしたらいい?────




