狂御子の最果て
灰銀の髪に蒼穹の如き瞳。男とも女とも判断及ばぬ容貌のその人物は、錆付いたかのように赤く濡れた漆黒の剣を手にし、血だまりと死骸の山の中で、幽鬼の如く立ち止まり――それを見た。
「獣か……人の子か……判断に迷うな、そなたは」
獣を思わせる四肢に耳。そして鬣――まるで四肢のようでありながら、しかしその容姿はまだ年端のいかぬ少女にも見える存在。
それは幽鬼と同じように血だまりと死骸の山の中にいた。その四肢と口元を、幽鬼の剣と同じように血に塗れさせ、猛獣を彷彿させる眼光を向けてくる。
「……何者か?」
獣が問う。
幽鬼が答えた。
「我は〈狂御子〉という。人が魔力呼ぶ力――この世界に満ちる界素を司りし御柱」
「唯一神に反旗する者たち……」
「是」
獣の言葉を肯定する。
――御柱。
それはかつてこの世界を生み出した唯一の存在、俗に神と称される存在によって、この世界の理を司り、世界を守るために生み出された一〇八の守護者たちである。
そして今、彼らはこの世界を生み出した存在と相対していた。
それは彼らの存在理由に基づく行動。
すべては――この世界を傲慢なる神から守るため。
身勝手な神による終焉から、この世界に生きるすべての命を守るため。
そしてこれが、この世界における最初の神話にして――戦争だった。
〈凶御子〉は問う。
「汝は何か?」
獣が答えた。
「……吾、〈忌生〉なり」
「禁断の命か……」
「然り」
〈忌生〉が首を縦に振った。
それは、この世界に本来存在するはずのない命の象徴。
いずれ必ず生じる、人の過ちと愚かさによって生まれ落ちることを確約された、禁断の生命たちの祖だった。
「何をしている?」
「分からない」
〈凶御子〉の問いに、〈忌生〉は途方に暮れた様子でかぶりを振った。
「この者たちは、吾を見て襲ってきた。故に、吾は吾の爪と牙で抗っただけ」
「それ以外の意味はない」とでも言わんばかりに、〈忌生〉は自分の手を見て、そして地にできた大きな血だまりを見て、積み重なった遺骸の山を見て、そして最後に〈凶御子〉を見た。
「何故、吾は忌まれるのか? 何故、吾は『忌む生命』なのか。吾は――望まれることはないのか?」
まるで禅問答を繰り広げるかのように、〈忌生〉は呆然とした様子で朗々と言葉を語る。
その姿を見て、不覚にも〈凶御子〉は口の端を吊り上げた。
実に――興味深い。
そう思った。
元来、〈凶御子〉は他の御柱と異なる部分があった。
好奇心。
圧倒的な好奇心と探究心が、〈凶御子〉の中には根付いている。
昔から――それこそ創造神によってこの世界の守護者として造られたその日から、〈狂御子〉の興味というものは尽きたことがない。
他の御柱が不干渉を決め込んで見守ることに徹する原初の時代から、〈凶御子〉だけは人の世に降りて彼らと共にあった。
共にあり、時に彼らの力となった。
それこそが、唯一『知る』ことだと疑わなかった。
そして今――自分は人を守るために――神へと反旗を翻している。
その最中で再び、自分は興味深いものに出会った。
ああ、だからこの世界は面白い。
ああ、だからこの世界は愛しい。
「――『忌むべき生命』。望まれぬ命……か」
〈忌生〉の言葉を反芻しながら、〈凶御子〉はくつくつと笑った。笑う〈凶御子〉の様子に、〈忌生〉は目を見開き、恫喝する。
「何が可笑しい?」
その言葉に、〈凶御子〉は「否」とかぶりを振った。
そして剣を握らぬ手をそっと〈忌生〉へと差出し、言った。
「ならば――我が望もう。汝の命あることを、吾が望もう。我が傍にて、我と共にあれ。さすれば汝、最早望まれぬ命ではなくなろう?」
それがすべての始まり。
魂に刻まれた、最初の契り。
◇◇◇
神話の時代から幾星霜を経て。
とある大陸のとある場所に、その男はいた。
灰銀の髪に蒼穹の瞳を持つ青年という風貌の人物――しかしその実数千年に及ぶ歳月を生き、世界を放浪した生ける伝説の魔剣鍛冶師。
名を、ルヴィス・ファーレスという。
神話の時代の存在――〈凶御子〉を母から継承し、その魂を永劫に引き受けることを選択し、人の身でありながら神に等しい存在へと昇華した魔人だった。
その魔人――当代の〈凶御子〉ルヴィスは、傍らに横たわる桜色の髪を持つ人物を見下して微苦笑する。
風貌は一五歳前後の少女。しかしその実態はルヴィスより一〇〇〇歳は年上の異形の存在――キメラ。人外の化生だった。
名を、クラフティ・アッシュという。
数千年前。ルヴィスがまだ人の身であり、一介の学生の身であった頃に出会った異形の存在。しかしどうしようもなく心惹かれた存在。
一度は分かれてしまったが、千年の放浪を経てようやく再会を果たし、それ以降ずっと傍らで同道してきた生涯の番。
そして、長い長い放浪を続け、数千年という時を過ごし――ようやくその命は眠りについたのだ。
此処が、旅の終着点。
「おやすみ、ティー」
そっと囁き、その額に一度口づけを落とす。
すると――世闇の中に眩い炎が立ち上がり――クラフティの身体を呑み込んでいく。
蒼い蒼い――蒼穹の如き炎がその身を包み、熔けていく。
「……待っててくれよ? すぐに行くからさ」
死者の魂を視認する力はルヴィスにはない。ただ、なんとなく「面倒臭いです」とこいつなら言いそうだ、と思った。
「さて……あとは――」
自分の始末をつけるだけ……そう思ってふと、何気なく周囲を見回して、ルヴィスはふと違和感を覚える。
否。違和感――ではなく、錯覚。あるいは既視感。そう呼ばれる感覚。
何故だろうか。随分と懐かしい感覚に苛まれ、ルヴィスは周囲を注視しながら、自分の記憶を掘り起こす。
果たしてこんな辺鄙な、荒れ果て風化した、もうほとんど形も残っていない建物の残滓に郷愁を覚えるのはどういうわけか……そう考えて、ふと、気付く。
記憶の奥底。
数千年に及ぶ記憶と思い出の蓄積の――その深い深い深淵に埋没していた遥か昔の記憶。
「おい……そんな……まさか……!」
驚愕に、蒼穹の双眸が見開かれる。記憶を掘り返し、思い出の景色と今目の前にある気色を重ね合わせる。
こんな偶然があるだろうか。こんなことが起こり得るのだろうか。
巡り巡って……こんな場所に辿り着いたのは、運命の皮肉だろうか。
「此処は……そうか、此処は――」
――騎士学校……か。
かつて、ルヴィスが進むべき道に迷った幼い頃。迷い、諦めようとして――それでも手放せなかった一つの夢。それを目指すために門を潜った、ただ一度の学び舎の地。
建物などほとんど残っていない。時の流れがこの地からかつての校舎を消し去り、崩れ風化させていったのだ。
だけど、間違いはなかった。
此処は――このなにもない丘は、かつて好んで昼寝をした場所の一つだ。
遠くに見える湖に、妙に人懐っこく、人に好かれた友人を蹴落とした。
何処からか流れてきたという友人と、剣と拳を交えた中庭はあの辺りだろうか。
何もかもが懐かしく、不意にあの頃に回帰しそうになる。頬が緩み、胸が熱い。何かが身体の奥から込み上げてくるような感覚に、ルヴィスは思わず涙する。
感謝しよう。居もしない神に。
この場所にもう一度足を運べたことを。
今しがた眠りについた連れ合いと、初めて出会った場所にいれることを。
「人生の最後にしては……上々だな」
いや、そもそもすでに人ではないが。しかし、此処にいる時だけは――そう己を称することを許されてもいいだろう。
「歴史と文明は進退を繰り返した。結局――万年かけて一回り……か」
出会いは此処で、分かれも此処ならば文句はない。
己の人生を終わらせるのがこの場であることを嬉しく思う。
だから、
「――終わりにしようぜ。〈凶御子〉よ」
かつて神話に語り継がれた御柱の――最後の一柱よ。
「お前はもう、世界に必要ないよ。かつてお前らが神を退けたように。お前たちもまた、この世界から退場しよう――世界はもう、一人で歩き始めたんだ」
人と共に。
だから、見守る者は不要。
かつて御柱が唯一神を離れたように。
今、世界は御柱の手を離れだした。
最早世界に、唯一神や御柱は、必要ない。
もし、〈凶御子〉の力を必要とする存在がいるのだとすれば、それはこの世界の存在ではない。
そしてルヴィスは知っている。人を超え、超越存在となったが故に得てしまった、人智が及ばぬ叡智を。
魂は流転する。さまざまな世界を渡り歩き、転生を繰り返していつかこの世界に帰ってくることを。そしてそれは、自分とて例外ではないことを。
「最早この世界にファーレスの力は不要。だけど、こんな俺の魂を引き継ぐことになったら、きっとそいつは面倒事の星の下に生まれるだろうな」
それはきっと過酷な運命だろう。
それは酷く、殺伐とした人生だろう。
きっとそれは、長い時を経て魂に刻まれてしまった習性であり、宿命だ。
ならば逃れることはできないし、きっと望んでその道へ踏み出していくだろう。
ただ一人で、無明の荒野を歩くに等しい行為。
「だからこれは、転生のおれへの手向けだ」
そう言って、ルヴィスはおもむろに腰に帯びたそれを抜いた。瞬間、漆黒の剣身が姿を現す。
まるで血がこびりついたような漆黒の剣。
魔剣鍛冶師ファーレスの処女作にして最高傑作。
ルヴィスの愛剣――魔剣〈血塗れの聖人〉。
「長い付き合いだったが――悪いが、この先も付き合ってくれよ?」
意地の悪い笑みを浮かべ、ルヴィスはその剣を手にし、それを目の前に翳す。
「我が名はルヴィス・ファーレス。
我はファーレス家が第三子にして、当代にして最後の〈凶御子〉を継承せし者。騎士が国に生まれ、騎士として生きた者。数多の魔剣を世界に散りばめ、己が我欲が為にとこしえを生きた者」
それがルヴィスのすべてだった。
騎士に憧れ、一度は騎士の道を諦めた。しかし一度掲げた夢はくすぶり続け、やはり自分は騎士を目指した。
そして騎士となる最中に知った己の宿命。母の血脈より受け継いだ忌むべき力。しかし気づけばそれを望んでいた。
永劫を生きた異形の者と共にあるために――ルヴィスは〈凶御子〉となることを受け入れた。
すべては我執だった。
己の望みへの固執だった。
しかし、それが間違いだとは思ったことはない。
自由気ままに。思うが儘に。
誰に導かれるでもない。すべてはただ、自分の心に従った結果だ。
「我は〈凶御子〉。古の時代よりありし御柱なり――」
それはかつて、ルヴィスが〈凶御子〉を継承する際に口にした言葉。契約の文句。
だがしかし、今は違う。
確かにルヴィスは〈凶御子〉を継承した。
しかし、一度として〈凶御子〉であったことはない。
「――……〈凶御子〉? 違うな――〈凶御子〉だ!」
瞬間、ルヴィスの内で何かが――魂を縛っていた鎖のようなものがはじけ飛んだような気がした。
それはまるで祈りだ。
それはまるで呪いだ。
彼のその言葉は、今まさに、未来永劫魂に刻まれる名前となった。
たとえどれだけの輪廻を渡り、転生を繰り返そうと、その魂の根底には常にファーレスの名が存在するということだ。
ファーレスとは――〈凶御子〉だ。
〈凶御子〉とは――ファーレスだ。
「騎士であれ。勇者であれ。魔王であれ。鍛冶師であれ。凶御子であれ――ファーレスの名よ!」
楽しそうに堂々と胸を張り、嬉しそうに揚々と声を上げ、誇らしげな笑みを浮かべ、ルヴィスは手にする長年の愛剣――魔剣《血塗れの聖人》を逆手に取り、叫ぶ。
「そして汝は――〈凶御子〉の魔剣であれ!」
瞬間、ルヴィスは己の胸に魔剣を突き立てた。
血は流れない。服も破けない。傷も――ない。
ただ、この時を持って魔剣《血塗れの聖人》は、ルヴィスの魔剣ではなくなった。かつて〈凶御子〉であった『魂』であり、現ルヴィス・ファーレスの『魂』であるものに刻み込まれ、封ぜられたのだ。
この『魂』を持つ者のみが扱える魔剣。
この『魂』を持つ者だけが呼び出せる魔剣。
〈凶御子〉の魔剣――《血塗れの聖人》。
否。
魔剣――《凶御子の継承者》。
「共にあってくれ――きっと、お前以外は鈍らにしかならんだろう」
この魂を継承するということは、そういうこと。あらゆる武器が物足りなくなる。かつてルヴィスがそうであったように。〈凶御子〉がそうであったように。
すべてが完了した。
そう思った瞬間、ルヴィスの爪先が――足元から蒼い炎が生じ、全身を呑み込んでいく。
蒼炎とは――葬炎だ。
人ならざる者。いや、この世のすべて、神すら葬ることのできる唯一の火。それが全身を包んでいく。呑み込んでいく。
熱くもなく、痛みもなかった。
「老兵は退くのみ……現役から。そして、世界から……な」
長くとどまっても所詮の老害。
古き神様は退場すべし。
「どっちかというと、魔王のほうが相応しい気もするなぁ……」
そう呟きながら頭上を仰いだ。
夜の帳を裂くように、空が黎明に染まり出す。
夜が明ける。
それは新しい一日の始まり。
そして新しい世界の始まり。
願わくば、良き日々が続くように。
そう願いながら、ルヴィスは目を伏せ――やがてその姿は蒼に呑まれ――消え去っていく。
◇◇◇
そこがどこなのか、すぐに分かった。
真っ白な真っ白な、何もない世界。
その真ん中に一人立つ影。それを見て、ルヴィスはにぃと口角を吊り上げた。
「よう。お待たせ」
「あれ? もう来たんですか?」
影が――クラフティが不思議そうに小首を傾げる。
「すぐ行くって言ったろ?」
「それにしたは随分、遅かったようですが」
「悪い」
悪びれもせず、ルヴィスは言った。
死出の旅路。その出迎えがこいつってのは悪くない。そう思って一歩進み――ふと、気付く。
クラフティ――だけではない。
白い白いその空間。クラフティのその背後に一人。また一人と誰かが姿を見せてくる。
誰だ? そう思って目を凝らし――目を凝らして、驚愕する。
そんな。
こんなことがあり得るのか。
驚き、言葉を失っているルヴィスに、クラフティが言う。
「みーんな、待ちくたびれたそうですよ?」
「は……はは」
なんてこった。
ああ、なんてことだ!
やってくれたな! とでもいう風にかぶりを振るルヴィスに向けて、誰かが声を上げる。
不協和音のように次々次々と声が重なっているにも拘らず、ルヴィスにはその一人一人の声がはっきりと聞こえ、また、はっきりと姿が見えていた。
――お疲れさん、親友!
栗色の髪に青い瞳の青年が、にぱっと笑ってそう労った。
――また会ったな
白銀の髪に金色の瞳の青年が、無表情にそう言った。
その後ろにも、見知った顔ばかりが立っている。数は数えるのすら面倒臭いほど。でも、誰一人として、名前も顔も忘れたことのない――長い長い時の中で出会った皆だ。
白髪に紅い瞳の青年が一礼してきた。
藍色の髪の青年が呆れたように肩を竦めている。
空色の髪に左右異なる色の少年が困ったような笑みを浮かべているし、その隣では銀髪の少女が憮然とした表情をしている。
長かった。
それこそ気が遠くなるほど。記憶が風化するほど。歴史が埋没するほどの時間。
だけど、それは決して無駄ではなかった。そう思える。
「ほら。行きますよ」
隣でに立ったクラフティが手を取った。
言われるがまま、ルヴィスはその手に引かれるまま、歩いていく。
思わず、頭上を仰いだ。
いろいろな感情がまとめて渦を巻いていて、そうしていないと、声を上げて泣いてしまいそうな気がして。
「どうしたんです?」
隣で、クラフティが意地悪そうな笑みを浮かべて問うてきた。
ああ、本当に意地が悪いぞ。お前。
「なんでもねーよ」
――ただ、人生の終わりとして、これほど嬉しいことがないって思っただけだ。
友がいた。仲間がいた。不出来な弟子もいたし、バカで間抜けな教え子もいた。
時に誇らしく、時に疎ましいことだってあった。
でも――その出会いがあったからこそ、自分は最後まで自分でいれた。
すべての出会いに感謝するしかない。
最早この場に皮肉は不要。
携える言葉はただ一つ。
「……ありがとう」
ただ小さくそう漏らした。
まっさらで真っ白な、ルヴィス・ファーレスの純粋な本音。
クラフティを始め、皆が笑った気がした。
ああ、クソッ。
またすぐ胸中で毒づき、だけど最早零れ落ちる涙を隠そうともせず、ルヴィスは皆に向けて、大きく叫んだ。
――万感の、思いを込めて。
――自分らしさのすべてを込めて。
「最高だよ、お前ら――このクソッタレ!」
悔いはない。未練もない。
胸を張るに相応しい。それの証明が今、此処にある。
この瞬間のために――自分は生き続けていたのだと確信する。
ならばきっと、次だってまた――笑って迎えられるはずだ。
「だから負けるなよ――勇者殿」
それが誰に向けた言葉なのか。きっと、次の生ではっきりするだろう。
――次なる〈凶御子〉の魂に、幸あれ。