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虎と呪いと月の花  作者: riki
3/4

後編

 異世界に来て早や3週間、森の生活も楽しめるようになってきた。


 住めば都って本当ねぇ。

 昼のヴァイは知性がないといっても3歳児並の知恵はあるようで、あいかわらず言葉は通じてないけれど身振り手振りで意思疎通ができている気がする。夜のヴァイが食事を抜いたらお腹が空いたらしく、食べられる果実やきのこ、野草を教えてくれたし。……夜の記憶もかなりあるんじゃないかしら?


 果実以外生の食材に泣きついたら、夜のヴァイが頑張れば魔力で火を出せると言ったのであぶり焼きと蒸し焼きが可能になった。次いで大きくて固い木の実をお鍋がわりに熱した石を入れて煮物の技も会得しました。ああっすばらしき文明の夜明け!

 ナイフがわりの尖った石の扱いも上達し、予想通りメニューに載っていた鹿の角を削って作った釣針で魚釣りもできるようになった。小川の太公望とは私のことよ! 餌のミミズをつかまえるのはヴァイの役目だけど。


 火の始末もあり、もっぱら日が暮れてから調理することが多くなる私のディナー相手は、当然夜のヴァイ。

 「野菜も食べないと病気になるわよ!」『俺に草は必要ない。やめろっフーグは嫌いなんだ!』「子どもみたいなこと言わないの!」と、パセリとセロリのハーフ(味はピーマン)というオコサマが泣いて喜ぶ香草のスープを飲ませた時は昼のヴァイもツンケンしてたし、やっぱり覚えてるのねー。虎の髭をうにっと引っぱり、一緒にめくれ上がった唇の隙間にスープを流し込んだのを恨んでいるみたい。

 まあ、猫舌を忘れて熱いスープを入れたのは私が悪かったわ、謝ります。でも味に関しては我ながら「さすがシェフ桜様っ、かぎられた食材でよくぞここまで!」という出来だったのよ?


 お風呂がないのには参ったけど、暖かい日中に水浴びをして清潔にしている。

 水浴びの間はヴァイに目隠しをしてもらっているわ。あとスウェットを洗濯した時ね。一着しかないから乾くまで素っ裸になるのよね。

 目隠しなんてイケナイプレイみたいで複雑なんだけど、一回ヴァイの前で水浴びをしたら夜になって洞窟を出たまま中に入ってこなかったのよ……恥ずかしがるのは普通私の方じゃない?

 そうそう、腰布を外して洗濯してあげた日も洞窟を飛び出していったわ。オトコノコって難しいわねぇ。




 ++++++++++




 麗らかな昼下がり。

 野苺をつむ手を休めて見ると、隣で蝶々と戯れていた青年は草地に寝転がっていた。

 あらまあ、お昼寝タイム突入ね。

 平和な光景を眺め、不意に思いつきが頭をよぎった。


 ――物語の定番と言ったら、アレよね? 眠れる森の美女が目を覚ましたのも、カエルの王子様が人間に戻ったのも、共通する行為はひとつ。


「……ヴァイ、寝てるの?」


 返事はなかった。

 ……起きているのかしら? 寝ているのかしら?

 近寄り、こぼれ落ちる髪を手で押さえて上から覗き込む。

 陽射しが眩しかったのか、私を庇に眉間のシワをゆるめた寝顔。瞼は開かない。

 そよそよと微風に紫紺の髪がなびいている。意気揚々とトカゲを掴まえてきたりしなければ、本来精悍な顔立ちなのよね。凛々しい眉毛は手を入れる必要もないぐらい整っていて、羨ましいほど長い睫が眼元に濃い影を落としている。……睫は黒いんだわ、と至近距離で発見した。


 ――これで呪いがとけるといいのに。


 二度試して、曲げていた腕を伸ばした。

 見下ろす寝顔に変化はない。

 押さえていた手を下ろしたら、こっちの世界に来てから伸びた黒髪が風に攫われ宙に散った。


「私じゃあなたのお姫様になれないみたいね」


 べつになにかを期待していたわけじゃないわよ。卒業したと思っていた乙女チックが暴走しただけなんだから。……それだけのはずが、妙に切なく悔しかった。




 今夜はいやに落ち着きがないわねー。

 紫紺の虎はウロウロと洞窟内を歩き回り、私を気にしていた。虎がどちらを向いても耳は必ずこっちに向けられており、物言いたげな視線を送ってくるのに、眼が合うと逸らされる。……今日は水浴びも腰布の洗濯もしてないわよ?

 鳥の巣ベッドに腰をおろして見守っていたけれど、いい加減眠たくなってきたわ。

 寝る時に寄り添う毛皮で暖をとっていた私は、虎に水をむけた。


「ヴァイ、言いたいことがあるなら言ってもいいのよ?」


 そしてはやく寝ましょう、と後半は飲み込む。

 虎は躊躇うようにその場で足踏みをし、そろりと正面にやって来た。

 ふっふっと早い息づかい。金色の瞳がじっと見つめてくる。なにかしら、と見返していると、虎が出しぬけに焦点を結べないほど頭を寄せた。

 しゅっと伸びた長い髭が頬をかすめ、それより短い髭と毛が、軽く唇に押しつけられた。

 続けてもう一度。


『――これに意味はあるか?』


 ~~タヌキ寝入りしてたわねっ……!!

 いたたまれない。

 顔から火が出そうっ、水浴びを見られるより恥ずかしいわ!

 魔がさしたとしか言いようがない。あれはお姫様がやるからさまになる、25のOLが挑んでも痛々しいだけのシチュエーションだった。過去に戻れたら乙女チックに酔っていた自分の横面を張って正気に戻すのにっ……!


「……いっ、意味なんてないわ」


 意思に反して声が上ずる。

 それは洞窟内が暑くて喉がカラカラだし、身体が火照って汗をかいちゃうほどだからよ。顔が真っ赤なのも異常な気温上昇のせい。あ、ちょっと外の空気を吸いに行ってこようかしらっ? 月にむかって大声で叫びたい気分なの。


『……人間の考えることはわからん』


 ぼそりと呟き、虎はふいっと横を向いて洞窟を出ていった。


 入口に消える後ろ姿を見送り、ホッと息をつく。

 胸に当てた掌の下、まだ心臓がドクドクと激しく鼓動している。

 巣材をわしゃわしゃと混ぜ崩し、乱れた葉の上に突っ伏した。熱の冷めやらぬ肌を枯れ葉がつっつく。

 うう……年がいもなく青春しそうになってしまったわ……。




 ++++++++++




 ヴァイと二人、並んで夜空を見上げるのは日課だった。

 空に昇る月は丸く太って日は近いと囁き、隣で月光を浴びる月の花は蕾をふくらませていた。月の花は呪いの大本なのか、日光に当てたり水やりをしなくても枯れない不思議な花だった。植木鉢にはだれが入れたの?と気になっていたことを尋ねたら、すでにそのままの状態で禁域の滝にあったらしい。鉢植えのまま神様に捧げる王様ってどうなのかしら……。

 創作料理でお腹もいっぱい、寝るには早い午後8時。

 私は手持無沙汰になり、虎の背中によじのぼろうとしてヨイショと手をかけた。


『乗るな』

「ケチケチしない。私ひとりなんて軽いものでしょうが」

『軽い? それはないな』

「上で飛びはねるわよ」


 女性に対して年齢と体重とシワの話題はタブーよ、覚えておきなさい。

 掴んだ毛を引っぱったら、たるみのある毛皮はぐにーっと伸びてダメージを与えられなかった。しかたなく滑らかな毛並みをひたすら逆向きになでていると、『それはやめてくれ、ぞわぞわする』と身震いした虎が白旗を上げた。


 広い背にのぼる。

 空にはわずかに円を欠く、どちらの世界でも変わらない月。見上げていると居ても立ってもいられない衝動が湧いてきた。


「ヴァイ、散歩に連れていってくれない?」

『……俺に乗るのに躊躇はないのか』

「発想がエロい。ハンッ、これだからティーンエイジャーは」

『……よし、散歩だな? しっかり掴まっていろ』


 虎がスッと身を起こした。急な動きと高さの変動にバランスを崩しかけ、慌てて毛皮を握りしめ、膝と内股にグッと力を入れて揺らぐ身体を固定した。


「あ、危ないじゃないのっ。ひと声かけてよっ」

『――行くぞサクラ!』


 咆哮が響き渡る。

 洞窟を出るまでのしなやかな肢運びは、草地を蹴ったと同時に疾風へ変化した。

 まるでジェットコースターだわ。

 肌を切る風に髪が真横になびく。風の抵抗をなくすため上体を倒して虎の背に寄り添った。胸やお腹や脚に触れる毛皮の下で、筋肉がめまぐるしく収縮と弛緩を繰り返しているのを感じる。

 ザンッと蹴散らされた草むらが騒いだ音も林立する木々の影も、またたく間に後ろへ流れていく。

 一瞬の恐怖が過ぎ去ったら、爽快感に頬がゆるんできた。


「ヴァイっ……もう少しゆっくり、走ってっ……」


 風にちぎれ飛ぶ声は虎の耳に届いたらしい。ふわりと肩を叩く髪を払い、大きく深呼吸した。

 月光に浮かび上がる森。闇にとけそうな色合いでありながら、艶やかさで一線を画す紫紺。大地を踏みしめる四肢に音はなく、周囲の生きものは森の王者を前に息を殺している。風だけがやわらかな手で頬をなでていった。


「あぁ……とてもいい気持ち。連れてきてくれてありがとう、ヴァイ」

『またいくらでも連れて来てやるさ。…………痩せたな、サクラ。あと三日だ。満月になれば月の花が咲く。呪いがとけたら人里へ送る』

「ヴァイ……」


 ――ダイエットができてちょうどよかったわ。

 痩せたのはヴァイのせいじゃない。森でとれる栄養には限界があるもの。

 ――また連れてきてね。

 呪いがとけたらさよならなのに?


 どれも言葉にならない。

 背中にまたがったまま、ぺたりと上半身を倒して虎にしがみついた。『どうした、明日は遠出するのか?』と背後を覗きこもうとする視線を避けて、ふかふかの毛皮に顔をうずめる。獣くさい。

 けれどこのひと月で馴染んでしまった。昼と夜のヴァイ、彼が身近にいることに。


「…………私、本当はこの世界の人間じゃないの」


 ヴァイの昔話より信じられないことかもしれない。

 ぽつりぽつりと話す言葉を虎は黙って聞いていた。


「自分の世界以外に別の世界があるなんて、お話の中だけだと思っていたわ。私の世界は魔力とか呪いの存在しないところよ。そこの日本って国に住んでたの。生まれも育ちもごく普通の家。仕事に就いてからは親元を離れて、アパートを借りてひとり暮らしをしてたの。仕事は大変な時もあるけど、気の合う同僚や先輩がいたから楽しかった。休みの日にはもう別れたけど、彼や友達と遊びに出かけていたわ。――あの日は昼寝していたの。目が覚めたらこの森で、あなたがいた」


 前兆なんてなにもなかった。

 いつも通りの休日だった。いつもと違ったのは溜まっていた家事を片づけようとしていたぐらい。


「どうしてここにいるのかわからなかったわ。どうして帰ればいいのかも」


 もしヴァイに逢えなかったら、遠からず飢えて死ぬか、獣に襲われていたことだろう。

 彼を助けるよりもずっと多く、私の方が助けられている。食事や寝る場所だけじゃない、もっと根底の部分で救われている。

 牙も毛皮もない私は森で生きていけない……孤独ひとりでは、生きていけない。


「でも、ヴァイが助けてくれた。食べるものも寝るところも用意してくれたわ。本当にありがとう。……今まで世話をしてもらったお礼には当底ならないけど、今度の満月には絶対呪いをといてあげるわ」


 いつの間にか歩みを止めていた紫紺の虎は、長い沈黙をおいて言った。


『……物の名も神の名も知らないのはおかしいと思っていたが、世界が違うのでは知りようもないな。――この呪いは女神が下した罰だ。俺は同じ年頃の皆より身体も大きく、魔力も強かった。殴り合いでも剣の腕でも、負けたことはなかった。……禁を破るというのが愉快だった。誰も怖気づいてやらないのなら俺がやってやろう、俺ならできる、と。愚かな思い上がりはすぐに正された』


 私は背中を滑りおりた。金色の目はじっと足元に注がれていた。

 自嘲と悔恨のまじる、傷ついた声だった。


『蔑みの眼がつらかった。村に災いをもたらしたと罵られ、昼の俺は無数の礫に逃げ惑った。夜の俺は昼よりもなお恐怖と憎しみの眼を向けられた。木偶と小突かれるか、剣で追い払われるか。姿を隠した藪の中に矢が飛んでくることもあった。――森は静かだった。蔑みの眼も罵る声も武器も追ってこなかった』


 私は太い首に腕を回し、顔を寄せた。応えるように眼を細める虎の喉をなでる。


『ある日、森で人間を見つけた。久しぶりに見た人間だった。何も知らずに眠った横で、起こそうかどうしようか随分迷った。女だから余計に、俺の姿を見たら怯えるだろうと思った。だが、昼の俺の涙を拭ってくれた人間と話をしてみたかった。……この人間なら俺の呪いをといてくれるんじゃないかと思ったんだ』

「そういえば起こされたの夜中だったわね。呪いをとくって、私に協力を仰ぐような態度じゃなかったわよ?」

『…………どうせ怯えられるなら、最初からの方が気が楽だろう』


 ぶっきらぼうに呟くのが愛おしい。傷つけられて臆病になった虎。

 自衛のつもりで協力者を逃していること、気づいているのかしら?


『サクラが来てから俺の生活は変わった。あの夜、呪いがとけなくてよかったと思った。ひとりが寂しいと気づかせたのはサクラだ。ずっと忘れていた、誰かと過ごすことが楽しいという感情を思い出させてくれたのもサクラだ』


 虎の目が私を捉えた。普段縦に細い瞳孔は丸く開いて、小さな金のリングをふたつ並べたようだった。


『離れたくない。呪いなどとけなければいいと思う。早く呪いをといて本当の俺で会いたいと思う。……サクラは、いいにおいがする。話は面白いし、話す声が心地いい。黒い髪が綺麗だ。瞳に俺が映っているのを見るのが嬉しい。怖がらずに触れてくれる手にたまらなくなる――』


 ……そんな台詞を聞いて手を動かせる人なんているかしら。

 硬直した私の腕からするりと頭を抜いた虎が、真正面からとどめをさしてくれた。


『俺はサクラが好きだ』


 呑み込まれるかと錯覚をおぼえる金の目には、爛々と熱情が燃えていた。圧倒され、視線をそらすこともできない。若さってストレートだわ。変化球になれた大人にかまえる隙を与えてくれない。


『サクラは元の世界に帰りたいのか?』

「…………え、ええ。帰れるなら……」

『俺は帰したくない。だがサクラの願いは叶えてやりたい。呪いをといてくれたら、今度は俺が元の世界に帰る方法を探すと約束する。けれどもし見つからなかったら、俺と共に生きよう。――俺のものになってくれ、サクラ』


 呪いがとけたらさよならだと思っていた。

 ヴァイにはヴァイの人生がある。ひとりで生きていく自信はなかったけれど、いくらなんでもこれ以上面倒を見てもらうのは気が引けた。森で暮らしているからこそあまり目立たない差異も、人にまぎれれば自然と目につくようになる。迷惑だから離れようと思っていたのにっ……!!


 ざらりと頬を舐められた。

 虎の舌はやすりのようで、犬ほどやわらかくはない。


『……泣くな。俺は振られたのかと心配になる』


 私はこみあげてくる嗚咽に返事もできず、自信なさげに耳を伏せた紫紺の虎に力いっぱい抱きついた。




 ++++++++++




 朝から降っていた霧雨は、日暮れとともに雨足が激しくなった。

 月も星も黒雲の彼方だ。


「月が隠れてるから、花は咲かないんじゃないかしら?」

『いや。月の花は曇りの日も雨の日も、満月の夜には必ず咲く』

「……この姿とお別れなのは寂しいわねぇ」

『サクラは変わっているな。四足の獣がいいなどと、人間は皆俺を恐れていたぞ』

「四つ足だから乗れるんじゃないの。おんぶでは情緒がないでしょう?」


 などと言い合っているうちに、月の花に変化がおとずれた。

 白い蕾が震えるようにほころんで開き、中心からしゅるしゅると光る蔓が伸びてきた。前回ぶっちぎった痕跡はどこにもないようで安心したわ。


『蔓は繊細だ。慎重にな』

「プレッシャーをかけないでって言ったでしょうが!」


 無言の虎をギャラリーに、私はパンッと両手で頬を叩き、気合を入れた。

 玉結び? やってあげようじゃないの!!



 ……精根尽き果てた私の横で、蔓は先っぽの方にギリギリで結び目を作っていた。

 どんなにいびつでも玉結びは玉結び。私にかかれば蔓の一本や二本、ちょろいものよ! 途中で半分ちぎれかけた時は冷や汗をかいたけど。

 ヴァイのお腹を枕に仮眠をとることにして、目を瞑る。この毛皮ともお別れなのよね、記念にちょっとだけ刈っておこうかしら……。




 瞼の上に光を感じ、バリカンの夢が遠退いた。

 見ると山の端から空がうっすらと白みはじめていた。雨は未明に止んだようで、今は雲ひとつない。

 月は色を失い、夜の神秘は掃きやられるように物影に隠れ、次の夜を待って息をひそめている。

 残った神秘は伏して朝日を待つ虎と、月の花。


『――サクラ、夜が明けるぞ』


 目覚めの気配をただよわせて震える森へ、太陽が一筋の矢を射込んだ。紫紺の虎は同色の髪をもつ青年へと姿を変える。

 眠る青年の横で、私は植木鉢を回してよく日が当たるように調整した。

 月の花は朝になっても花弁を閉じることなく、中心の蔓はくるんと努力の結晶である結び目を保ったまま伸びている。


 月の花の変化は、ゆるやかにおきていた。

 朝日の下、まず結び目がとけ合うようにコブを作った。ゆっくりゆっくり光を吸い込んで成長しているようにコブは実となり、大きくふくらんでいく。

 私の隣に目が覚めたらしいヴァイが目をこすりながらやってきた。並んで座り、一緒に見守る。

 実は小豆粒からアーモンド、クルミのサイズへと育つ。

 そこで成長の止まった実は、ひとりでにポロリと落ちた。実を手にとってしげしげと観察する。桃のように細かく生えた産毛がきらきらと陽射しを反射していた。……美味しそうなものではないわね。


「いい? これを食べたら、ようやくあなたの呪いがとけるわよ」

「うー!」


 ヴァイは目を輝かせて私の指先を凝視していた。

 もう、わかっているのかしら? たぶん食べものよ、食べものだけどね……ひな鳥が餌を待つ姿に酷似していると思うのはどうしてかしら。

 なかなか実をくれない私にこらえきれなくなったのか、金褐色の瞳にぶわっと涙があふれた。……マズイわ、これは低音サイレンと化す兆候よ。泣かせると夜のヴァイが落ち込むのよね、自分が情けないとか言って。


「ごめんね、イジワルしてたわけじゃないのよっ? ちゃんとあげるから泣かない、泣かない! ほら、あ~んして?」


 グスンと鼻を鳴らし、ヴァイは大きく口を開けた。

 洗ってないけどいいのかしら? ためらった背中を「ふえっ……」と泣きだす寸前の声に蹴られて、実を放り込んだ。ぱくんと閉まった口の中で噛み砕かれているらしく、カリカリ梅を食べているのとそっくりな音が聞こえる。


「ヴァイ……?」


 ……ま、不味かったのかしら?

 壮絶に歪んだ表情に慌てていると、ヴァイは呻いて身体を激しく震わせた。


 こちらの変化は劇的だった。

 紫紺の霧が渦をまいてヴァイを包み込む。ゴウッと瞬間的な突風が吹き荒れた後、私は目にした光景に唖然としてしまった。



 ――二つに分けたって、そっちかぁぁぁっっ!!


 ぴんと立った耳。

 2メートル以上ある身体を被うのは、「あなたって毛深いのね」と言うには無理がありすぎる毛皮そのものだ。眩い朝日にツヤツヤと輝く毛並みは紫紺に黒い横縞が走っていた。

 金褐色の瞳は縦に長い瞳孔を持ち、風の匂いを嗅いでいるのかひくひくと髭を揺らし鼻がうごめく。

 すらりと伸びた手足はよく鍛えられているものの、少年の域を抜けきらない線の青さもある。胸を飾るのは豊かな被毛だけど、腹部にかけて徐々に短く色も淡くなり、割れた腹筋が見えた。他に比べおヘソまわりから下の毛はやわらかそうで「恥じらいを持てと言っただろう!」……高速で巻かれた腰布の下も(誤解しないで、見えちゃったのよ)人間と同じだけれど、やっぱり薄く毛に被われていた。背後には長い尻尾が見える。


 呪いがとけて元の姿に戻るなら、漠然とヴァイは人間だって信じていたわ。だって仕草が人間くさいし、思考も人そのものだし、第一動物は裸を恥ずかしがったりしないじゃないの!

 ……それが虎獣人とか、なんのオチ?

 二つに分けたって、人間と知性に分けたんじゃなくて、虎と人間に分けたのね……予想の斜め上をかっ飛ばしてくれるわ女神様。


 私の前に立った獣人は、あの夜と変わらない情熱を瞳にちらつかせて言った。


「呪いをといてくれて感謝する。約束は守る。サクラが帰る方法を探そう。……だが帰れなかったら、俺と共に生きてくれ」


 ――昼のヴァイの声で、夜のヴァイとの約束を口にする。

 広げられた腕に飛びこんだ。

 揺るぎもせず抱き止めてくれた胸に顔を埋める。

 息苦しいのはもふもふの毛皮のせいだわ。目頭が熱いのも、鼻がツンとするのもみんなそう。


「……すき。あなたが好きよ、ヴァイ」

「俺も好きだ。――ようやく言ってくれたな」


 「焦らしてくれる」と溜息を吐き、ヴァイは私に頭を擦り寄せた。首のあたりでひよひよと髭が動く。

 くすぐったいわと肩をすくめた動きをカモフラージュに、にじんだ涙をこっそり拭った。


「……ふふんっ。焦らしも大人の恋愛テクのひとつってコトよ。押すばかりじゃ能がないわ、時には引かなくちゃ。引いて引いて引いて、相手が追ってきたところですかさず押し倒す! おわかり?」

「引いても相手が追ってこなかったらどうする? そこで終わりか?」

「過程は省略もできるのよ。相手の出方を見て臨機応変に対応するの。応用をきかせなくっちゃ、勝負に勝てないわよ! お勉強になったかしら?」

「――なったとも。だからこれからも、サクラが色々と教えてくれるんだろう?」


 持論を披露して得意になっていた私は、空気が変わったことにようやく気づいた。

 ……猫科の猛獣は機嫌がいい証拠にゴロゴロと喉を鳴らしている。でもその音が不吉な雷鳴に聞こえるのはどうしてかしら。ぱったぱったと楽しそうに振られた尻尾は、獲物を前にして飛びかかるタイミングを見計らっているみたいじゃない……?


「……た、たとえばなにを?」

「手始めに、俺に練習しろと言ったものからご教授願おうか」


 クッと私の顎をすくい上げ、紫紺の虎が目を細めて舌なめずりをした。

 ……引きの極意を教えたつもりだったんだけど、これはヴァイの応用編なのかしらぁ……?




 お父さんお母さん、お元気ですか? 桜は元気です。

 ええと、少しびっくりさせてしまうかもしれない報告があります。

 本日めでたく異世界で恋人ができました。

 彼は年下でやさしくて、でもちょっと抜けてて、学習意欲の旺盛な――虎の獣人です。

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