前編
べろべろと顔を舐めるのは、飼犬のジンだと思っていた。
私いつ実家に帰ってきたのかしら?
思いっきり押しやった犬の顔には毛がなく、ごつごつした触り心地を不審に思いながらも、今度は指を舐めてくるので躾のつもりで軽くはたいたら――男の呻き声が上がった。
ジンはオスだけど、人間じゃないわよ?
「……あなただれ?」
紫紺の髪を揺らし、涙目の青年がじっと私を見返していた。
……えっと、本当にどちら様でしょうね……?
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ここは私が住んでた街じゃない、そう認めるのに大した時間はかからなかった。
見渡すかぎりは山、森、崖。
山の上に送電線の鉄塔もないし、人工物らしきものがない。日本の秘境かしら。
青年は側の地面に座り込み、私が頬をつねったり、かかとを鳴らしたり、「神様ーどうぞワタクシをお助け下さいー」と創作神楽(断じて奇怪なダンスじゃないわよ)を奉納する様子をじっと見つめていた。
もちろん私だって、最初は彼に事情を話して助けを求めようとしたのよ。
「ここはどこ!? 昼寝から目が覚めたらこの状況って、ああっもうどうなってるのよ!? 久しぶりに家事に精出したから槍が降るのは一万歩譲って納得してもいいけど、私のアパートじゃないのはどうしてよ!? だれが連れて来たのか知らないけど、ふざけるのもいい加減にしてほしいわ! 布団干しっ放しだし洗濯機止まってるから干さなきゃならないし、買い物行かないと晩御飯がないのに! きゃあっ今日の特売間に合わないじゃないの! 1円を笑う者は1円に泣く、これひとり暮らしの心得第一条よっ、冷蔵庫にも貼ってあるんだから! そんなわけで私は家に帰りたいの、どうしたら帰れるかあなた知らない!?」
慌てるあまりの早口で。
――ちょっと深呼吸して丁寧語で。
……下手くそながら英語で。
お願い、呆れててもいいからなにかしゃべってよプリーズ。
「ヘローヘロー、マイネームイズ桜、さくらですわかります?」などと言っても彼は表情を変えず、ただ瞬きしてじっと私の顔を見つめた。………金褐色の瞳に理解の色は微塵も窺えない。
オーマイガー! 言葉がさっぱり通じてない!
瞳の色アーンド彫りの深い顔。日本人じゃないことは200パーセント確信してたからこの落胆は私の英語力によ、英語含め地球語が通じてない可能性は一瞬たりとも考えてはいけないわ。紫の髪が地毛みたいに見えるのは眼精疲労からくる錯覚幻覚。
旅の恥は掻き捨てならぬ外人の前での恥は掻き捨て。彼がお国で話すだろうぶんには羞恥に身悶えしようもないから、ちょっぴり錯乱してあれこれ試してみたんだけど。
秘境からの帰還ならず。
うふ。人の手が入っていない森っていいわぁ心が洗われるわぁ……360度パノラマで広がる雄大な自然! 人間ってちっぽけな存在よね。だから人は支え合って生きるのね。おいしいお米もお野菜もパック詰めされたお肉も生産者の皆さんのおかげ。
今夜は久しぶりに料理に手間暇かけて、現代的な食事をしようかしら。まかりまちがっても、そこらの雑草を「食べられるのかしら?」とむしってみたりしなくてもいいはずよね!
頭を抱え込んで絶望するこちらをきょとんとした顔で見てくる青年を視界の隅に追いやり、「わかった! 夢ねこれは悪夢なのね。目覚めたら私の部屋だわ間違いない!」と自己暗示をかける。
夢から覚めるのはどうしたらいい? 起きればいいのよ。
では起きている場合は? それは夢じゃなくて現じ……じゃないっこれは夢! 眠ればいいのよ、簡単なことね。
私はすみやかに寝転がって目をつむった。
…………こら、せっかく人が寝ようとしてるってのに、髪を引っぱらないで。
顔近づけるのもやめてくれる? 今日は休日、OLの武装は解いてるの。すっぴんなの。
服も引っぱっちゃ駄目。伸びるでしょうが。上下1500円のスウェット、着心地良くて気に入ってるんだから。
「~~やめんかセクハラ野郎ぉぉおおぉぉっっ!!」
飛び起きざま、渾身の右ストレートで青年を打ち倒した。
ウイン! 桜選手やりました! 部長のヅラを飛ばした伝説の右です!!
「一体だれの断わりを得てチチを揉んでるのよっええ!? そりゃぴっちぴちの10代には負けますけど気安く触ってもらっちゃ困るわ商品なんだから! 売り出し中だしまだ買い手は現れてないけどねっ、お迎えが王子様付きの玉の輿じゃなかったら絶壁からダイブしないのよっ、高嶺の花もとい春野桜様はねっ!!」
ぜえはあと一息でまくし立てれば、目をまんまるに見開いた青年がくしゃりと顔を歪めた。
しわの寄った眉間、温水ポンプフル稼働の瞳、彼は真っ赤な顔でスーッと大きく息を吸い込んだ。
「うっうっ、うわぁぁあんっ! うわぁぁああんっ……!」
キリリと渋いおじさまがふと見せる少年っぽい無邪気さ、クールな美人が頬を染めてのはにかみ笑い。ようするに意外なギャップにときめくのよね。
……ないわぁ。このギャップ萌えはないわぁ。
いくつなのよ彼。私より歳下だとは思うけど、20代に入ったところかしら? 少年のラインと青年の色気も感じさせる顔を見下ろし、外人は老けて見えるからもっと下かもしれないわねと推測する。
それにしたってこの歳で、3歳児並にわーわー泣く?
声変わりもとっくにすんだ低い男の泣き声があたりに響く。胸キュン路線をかすめもしない状況に途方に暮れた。手放しで泣く青年を見ていると小さい子をいじめてるようで背中がムズムズする。子どもと動物は嫌いじゃないのよねぇ……。
「あーよしよし。泣かないのよ、いい子だから」
ぐしゃぐしゃと頭をなで、ハンドタオルで涙と鼻水を拭ってあげる。
はいはい、ちーん。あとで洗濯して返してちょうだいよ。
あら。よく見れば彼、かなり格好良いじゃないの。鍛えた身体はところどころ傷跡があるものの、それも男の勲章ってやつね。泣き腫らして真っ赤な目元もウルウルしてなきゃ涼しげだわ。
青年は腰に一枚ボロ布を巻いただけで服は着ていなかった。
……これが私の夢なら、欲求不満なのかしら? たしかに最近彼氏いなかったけど、年下は趣味じゃないわよ?
ひっくひっくとしゃくりあげる青年はもう3歳児にしか見えなくなっていた。しゃがみこんで目線を合わせる。
「ねえあなた、お家どこ? おねーさんが送ってあげるからね、パパとママによろしく言って今夜私を泊めてもらえるようにしてくれるかなぁ? ついでに夕食もお相伴に預かりたいんだけど」
頭をなでなでしながらやさし~い微笑みを浮かべて言った。今のところ頼れるのはこの青年しかいない。手放す気はないわよ命綱くん。
言葉はわからなくても私の笑顔からあふれ出る強制オーラが伝わったのか、彼はズズッと鼻をすすって立ち上がった。格好良さ9割減よ。
青年はこちらの手を取り、おもむろに森の中へと歩きだした。はたして頼っていいのかどうかわからない背中を前に、私は特大の溜息をついた。
はぁ……どうやらこの悪夢はもう少し続くらしいわ。
靴下で山歩きはきっついわねこりゃ。登山靴なんて贅沢言わないけど、スニーカーでも履いてくればよかったわ。
対象的に青年の足取りは慣れたものだ。くねくねと続く道は彼が踏み固めたのか獣道なのか、延々と森の奥へ続いていた。
ギブギブ! デスクワークのOLに体力を求めないで!
言動は3歳児並みだけど力は成人男性らしく、なかば引きずられるようにして歩いていく。
ようやく彼の足が止まった時には、私はひぃひぃ息を切らして汗だくになっていた。
「うー!」
「…………ここが、あなたのお家?」
いやぁね、腰布一枚だったときから薄々そんな気がしてたけど、ログハウスぐらいの期待はしてたのよ?
木々が開けたそこには、期待を木端微塵に打ち砕いた洞窟があった。
……アパートに帰りたいわぁ。探検したいお年頃はとうの昔に過ぎ去ったんだから。……しばし遠い目をして風に吹かれた後、幻のランドセルを背負いなおし、変身ステッキがわりの小枝を手にして洞窟に足を踏み入れた。
「お邪魔しまーす……」
暗っ! ――見た目通りの洞穴というか崖の裂け目というか。腰をかがめなくても大丈夫なぐらい高さがあるのはいいんだけど、洞窟の奥は光が届かないせいで地獄に続いているのかと錯覚しそう。
青年はここで寝起きしているらしい。ゴツゴツの地面には木切れを敷き、枯れ草と落ち葉で鳥の巣?もどきが作ってあった。食べ物のたぐいは見当たらないわね、最重要事項なのに。
ぐるりと洞窟を見回した。
……まっっったく人の気配がしないんだけど、コウモリと同居なんて言わないでよ?
「ねえあなた、ここで独り暮らし? ご両親は? 奥さんは……いそうにないわね。お仲間はいないの?」
「うあー?」
「通じてないわよねー……どうしたらいいのかしら、ご飯は」
腕時計を見ると5時。日があるうちに食糧を捜そうかしら。
私は座り込んであくびをする青年を置いて森へ向かった。
……結論から言うと、無駄に体力を消費しただけだったわ。
木の実ってどうしてあんなに高い所になってるのよ! 鳥なの? 鳥専用なの? 手が届くわけないじゃないっ。真っ赤な傘に黄色の斑点があるキノコって生食用なの? むしろ食べられるの!?
陽が傾くとねぐらに帰る鳥たちが騒々しく鳴き交わしながら頭上を横切っていく。
肌寒さを感じさせる風に肩を抱き、足早に来た道を引き返した。
洞窟に戻ると、青年は地面に座り石をつんでいた。
……賽ノ河原? ミニストーンサークル? そんなわけないわよねぇ。
私は脱力しながら小石で遊ぶ彼に近づき、「喉が渇いたんだけど、お水ってあるかしら?」と問いかけ、思いつく限りのジェスチャーで訴えた。きたる忘年会に備えて習得したどじょうすくいが功を奏したのか、青年は洞窟からそう離れていない小川へと連れて行ってくれた。岸は土が踏み固められ草が生えていないことから、青年もここで喉を潤しているらしい。
清水を手ですくい、ごくごくと飲む、飲む、飲む。
……独り暮らしを始めたころを思い出すわぁ。金欠で家計は火の車、お腹が空いては水道水で気をまぎらわせたものよ。
げっふぅともどしそうなほど胃に水を詰めこんで顔を上げる。
私は全身の血が音を立てて引いたのを感じた。隣の青年にしがみついて目の前の木を指差した。
「あああぁっあれアレっあれ! くっ熊じゃないのぉっ!?」
太い幹にがりがりと、なにかがつけた爪痕がくっきり残っていた。爪痕は白い木の肌が覗く真新しいものと茶色くなった古いものが入り混じっており、位置は私の頭より高く、そうとう大きな動物とみて間違いない。
「あれって肉食獣のマーキングじゃないっ!? なわばり主張してるんじゃないの!? ねえねえなんとか言いなさいよ!!」
ガクガクとシェイクした青年から返答はなく、私は彼の首根っこをつかまえすっ飛んで帰った。
恐ろしい! 大自然を侮るなかれ!
震え上がった私は広い入り口にバリケードを築こうとしたけれど、道具も材料もない。茜色に染まり出した空に、今は下手に物音をさせない方がいいと考えなおした。
鳥の巣ベッドをなるべく洞窟の奥へ移動させた。
「……あなた、ここに住んでるのよね? 実は強かったりするの? いざとなったら私を守ってくれる?」
「あー」
「うんって言ってくれてるのよねありがとうありがとうだからこっそり盾にしても許してね? なにしろ私はかよわいOLのオンナノコ、いくら美人で有能でナイスバディでおまけに笑顔が輝くばかりといってもさすがに熊は誑しこめないから」
感謝の証に青年の手をガシッと握り上下に振る。彼はそれが面白かったのかぶんぶんと振り続けた。……これは双方合意ということにしちゃってもよろしいですね神様。
ちゃぽんちゃぽんの水っ腹をかかえて青年と二人、眠りにつく。
ふかふかのお布団が恋しいわ。目が覚めたら愛しい我が家でありますように……。
++++++++++
ハァッと湿った息が頬に当たる。
……何時だと思ってるのジンったら、ハウスハウス。
ふんふんと匂いを嗅いでいるらしく、鼻息がうなじや手にかかる。
「ぅん……もうっ、ジン……?」
ぴかっと光る金色の目玉がこっちを覗き込んでいた。
闇に慣れた目に映るシルエットは猫科のそれだけど、サイズが尋常じゃない。
ごくりと息を呑み、フォーリンラブできそうな時間見つめ合ったあと、私はそっと目を閉じた。
秘儀、死んだふり。
完璧な演技に騙されたのか気配が遠ざかった。
私はおそるおそる薄目を開けて、それの正体を見た。
…………ものすごくでっかい虎だわ。
広い洞窟内を音もなく歩き回る巨体。長い尾を含めると全長6メートル以上ありそうだ。入口から煌々と射し込む月光に尾が触れた時、黒いと思っていた体毛が紫紺だと気づいた。紫紺を下地に黒毛が太く細く、虎独特の横縞を描いている。頬から胸、腹にかけては白っぽい毛だ。
一緒に寝ていた青年は姿を消していた。逃げ出したのなら、薄情者、と思うけれどもまだマシよ。この虎に喰われてしまったというオチに比べれば。
じわりと全身に冷たい汗が噴き出す。
……私、逃げ出せるかしら? 少なくとも相手はすぐに食事を始める気はないようだった。
虎は洞窟の奥に入って行くと、しばらくして何かを銜えて戻ってきた。
薄目で見守る私は、おかしな光景に内心首を傾げた。
……なんで鉢植えを銜えてるの?
虎は大事そうに鉢植えを地面に置いた。
ちょうど月の光を浴びる位置だったから、鉢植えの驚くべき変化がよく見えた。
緑の葉の間に一輪白い蕾をつけていたその植物は、白い花弁を震わせたかと思うと、映像を早送りしているようにみるみる蕾を開花させた。途端に甘い芳香が洞窟に満ちる。
『おい、女』
――いいにおい。
涼やかな花の香りが全身を抱きしめるように包み込んでくる。
『女、聞いているのか?』
夢見心地の香りを堪能していた私は、てしっと手を踏みつけたものにぼんやり目をやった。指先がぐにぐにと肉球に踏みにじられている。
ぬっと頭を寄せた虎は大口を開き、がぶりとスウェットの肩に噛みついた。……食べられるかと思ったわ。
虎は恐怖で硬直する私をズルズルと引きずりだした。
『来い』
「……いっやあぁぁぁっっ!! やっぱり食べる気ね!? 食べる気なんでしょう!? 私なんか食べたっておいしくないわよ!」
『誰が喰うか。人間は不味い』
「実感こめて言わないでよ! 食べたことあるんじゃないの!」
『煩い。黙らないと齧るぞ』
うぐっと口を噤む。
ほら黙ったわよっ。だから一口の試食も許さないから! ……って、私だれと会話してるの?
疑問は口から出る前に悲鳴に変わった。でこぼこの地面に頭をぶつけさせられたのだ!
「いっ……! いったいわね! 目から火花が散ったわよ今っ! 引きずらないでよ馬鹿!」
『ならば歩け』
ペッと服を吐き出された。
穴が開いた服への文句も忘れ、私は茫然と紫紺の虎を見上げていた。
虎の口が発声に向いているとは思えないけれど、たしかに人の声が聞こえる。
「……今しゃべったの、あなた?」
『他に居るか?』
馬鹿にしたような言い草にカチンときた。洞窟には私と虎以外だれもいないけれど!
「~~普通虎が日本語を話すなんて思わないでしょうが! むしろ虎は口をきいたりしないわよっ! 非常識なのはそっちよそっち!」
『ニホン語? 俺は魔力で言葉を通じるようにしているだけだ』
まりょく? マァ緑? 緑大好きってことかしら。
これって私の夢なのよね?
私ったら数々の美点に飽き足らず、エコロジストで想像力も豊かなのね。魅力を再発見よ。
あら、眠りの妖精さん。うふふ、私を夢の国に連れて行ってくれるの? そうね、一緒に行きましょう――。
『何を寝ている。歩け、女』
「……腰が抜けて立てないわ……」
虎がくわっと牙を剥いた。
「なっなによ! あなたがそうやって脅かすからじゃないのっ!」
不機嫌そうに唸った虎は私の背後にまわり、腰のあたりでスウェットの上下ウエスト部分をまとめて銜えると頭を上げた。……身体が浮きました。
ぶらぶらと銜えて運ばれたのは鉢植えの側だった。
『“月の花”だ。じきに蔓が出る』
白い花は握りこぶし程度の大きさで、薔薇に似てフリルのような花びらが幾重にも重なっていた。月光を浴びて花自体が淡く発光しているようにも見える。
その中心がキラリと光った。じっと目を凝らしていると中心からしゅるしゅると光る蔓が伸びてきた。5センチほど伸びたところで止まった蔓は、緑ではなく花びらと同じ白だった。
『女、蔓を結べ』
「は?」
不思議な光景に見入っていた私は、どんっと地面に突き倒された。肩を押さえるのは虎の前肢だった。太い肢と巨体。体重をかけられたら一瞬で骨が粉々になっちゃうわ。
『いいか女。蔓が出たのを見たな? あれを結べ。一回でいい』
「な、なんで?」
『喰われたくなかったら黙って言われたことだけをしろ』
じりっと圧力を増すのにぶんぶんと首を縦に振る。虎は真意を確かめるようにこちらを覗きこみ、ひどく人間くさい仕草でフンっと鼻を鳴らしてようやく私の上から退いた。
「むっ結ぶって、私不器用だから凝ったことできないわよ……た、玉結びなら……」
月の花と虎が呼んだ鉢植えに向かい、一応断わりを入れておく。放課後居残って泣きながら雑巾を縫ったのは忘れたい思い出よ……。
『それでいい』と頷いた虎を横目で窺いつつ、そろそろと白い蔓に指を伸ばした。
『蔓は繊細だ。慎重にしろよ』
「あまりプレッシャーかけないでよっ、あがり症なんだから失敗するわよ!」
ブルブルと激しく震える指に察するものがあったのか、虎は静かになった。
蔓はひんやりと冷たくて、全体が極細の繊毛に覆われていた。やわらかな蔓は曲げてもポキッと折れることはなさそうだ。
ただ、ただね……。
『………………………………まだか女』
しびれを切らしたように虎が言う。
「――見てるんだからわかるでしょうが! 結べないのよ! だぁ~短い! この蔓短いわ! 不器用女をなめるんじゃないわよ!? いい? 玉結びは高難度な技なのよっ。私は玉結びならできるって言ったんじゃないからねっ。玉結びならなんとかできそうな気がしなくもないかもって言いたかったんだから、勘違いしないでよね! 昔から手先の細かい作業ってだいっっきらいなの! そんなに言うならあなたがやりなさいよ!」
もたもた蔓と格闘していた私は、苛立ちにまかせて虎を怒鳴りつけた。ほらっと鉢植えを押しやって睨むと、虎はひくりと髭を揺らした。
『できるならやっているさ』
虎は頭を花に寄せると真っ赤な舌を出し、ぱくんと花を銜えた。諦めて食べる気なのかと思って眺めていると、もぐもぐと口を動かしている。
もぐもぐ、もごもご、むぐむぐ、べっ。
吐き出された花は涎にまみれてぺしょりとしおれていた。蔓もひょろんと垂れ下っている。……結び目のないまま。
あぁー……うん、やりたいことはなんとなくわかったわ。
チェリーの茎ね。その前肢で玉結びは不可能よね。
「……ひとつ言わせてもらうわ。あなた、キスの練習した方がいいわよ」
黙ってしまった虎の前から鉢植えを回収し、さて、と気持ちも新たに腕まくりをした。
「結んだらいいんでしょ、結んだら! やってできないことはないはずよっ」
――それからの戦いは長く過酷だったことを記しておくわ。
涎で蔓が滑るようになったと虎に文句をぶつけつつ、右に左に、上に下に。さらに斜めから。
こめかみを汗がつたうほど奮闘した私は、ようやく輪の中に先端を通すことができた。ここで油断しちゃ駄目よ、わずかに指の力を緩めようものならくるんと蔓が元に戻るんだから。
少しずつ少しずつ引っぱって…………私はぴたりと動きを止めた。
『おい』
「……ご、ごめん」
『ちぎったな?』
喰い殺されるっ……!!
首をすくめて身を固くした私に、怒りの牙が突き刺さることはなかった。
紫紺の虎は脱力した様子で地面に伏せていた。
『……まあいい。次の満月にまた花は咲く。ひと月待つさ』
今夜は満月だったのね。
見上げた空には丸いお月様。
明るい月光の下で、金色に光っていた虎の目が金褐色であることを知った。
目の色も毛の色も、姿を消した青年と同じ。
「……あなたはだれ? 彼はどこに行ったの?」
『昼にも会ったな、女。――もう気づいてるんだろう? あれは俺だ』
長い尾をゆるく振りながら、『昔話を聞かせてやろう』と虎が言った。