幼馴染に都合の良い関係を持ちかけられたのだがいつの間にか好きになってた……
俺――宮瀬涼太と伊吹葵が付き合い始めた理由は、ごく単純で、どこか汚かった。
「お互い、都合がいいからでしょ?」
駅前のファミレスで、彼女はそう言って笑った。ちや、笑ってるのに、目はほとんど笑っていなかった。
スプーンでアイスを崩しながら、淡々と続ける。
「私も、あなたも、今は恋愛に深入りする余裕がない。でも、完全に一人でいるのも少し面倒。周りから『彼女いないの?』って聞かれるたびに、説明が億劫になる。だから、条件付きで付き合えばいい」
俺は彼女の話を黙って聞いていた。彼女の言うことは、ひどく合理的で、俺の内情を言い当てていた。
伊吹葵。隣のクラスの女子。長く伸びた銀色の髪と、大空のような青の瞳を持つ少女。成績は安定して上位、友人はそこそこいるけど、特定の誰かと深い関係を持っている様子はなく常に少し距離を置いていて、感情を表に出しすぎない。俺と似たようなものだった。
彼女が欲しいわけでも、誰かを好きになりたいわけでもない。ただ、一人でいることの『説明』が、最近わずらわしくなっていただけ。それに加えて周囲からの恋愛話に嫌気が差しつつある。
「条件はシンプル。学校では普通のカップルに見えること。深入りしないこと。将来の話はしないこと。感情的にならないこと。体の関係もなし。期間は三ヶ月。それまでに自然に終わらせる。お互い、傷つかないように」
彼女は指を折りながら並べた。一つひとつが、まるで契約書の条項のようだった。
「わかった」
異議申し立てをすることなく承諾したのを聞き入れた彼女は少しだけ肩の力を抜いて、コーヒーに口をつけた。それから白銀の髪の毛を弄りながら言う。
「じゃあ、これからよろしく。宮瀬くん」
「ああ。伊吹」
苗字で呼び合うことだけは、最初から決めていた。あだ名や下の名前で呼び合うのは、深入りに近いと判断したからだ。
ジッと彼女を見てみる。水晶のように透き通っているはずの目には虚無が宿っていた。何を考えているのか見えてきそうで見えてこない、不思議な瞳だった。
「何」
「なんでもない」
「言っておくけど、本当に好きになったらだめだから」
当然だ、と切り捨てる。俺と伊吹は小学校からの幼馴染である。だがしかし、ラブコメのような甘酸っぱい幼少期を過ごしていた訳ではない。
顔見知り程度、たまに良く遊んで、話すくらいの関係だった。だから俺にこの話を持ち掛けたのだろう。
「昔から変わってないんだな」
「早瀬くんもね、友達が少ないのはお互い様ね」
こちらに目を向けることなく機械のように返答をする。そこから四方山話をと思ったが結局会話が弾むことはなく解散となった。
それから俺たちは、都合のいい関係を始めた。
教室までの距離を一緒に歩き、休み時間には隣の席にいるような素振りを見せる。放課後は週に一度、どこかで軽く食事をして帰る。手は繋ぐが、指を絡めることはしない。彼女が「今日はここまで」と言えば、俺は素直に従う。
俺が「今日は早めに帰る」と言えば、彼女も特に引き止めなかった。
そんな俺たちを見た周囲の生徒たちもすぐに関係性の変化を察知し、付き合っているのだと理解した。
だが普通と違うのは俺たちはビジネスカップルに近く、『好き』という感情が全く無いことだ。互いのために利用し合う、普通ならば考えられない異常。だがそれでも自分にとって利益になるのであればそれで良かった。
「今日はどこ行く」
「いつも通りの店」
「はいよ」
契約を交わした飲食店で今日も行く。俺たち二人の様子を見れば周囲の生徒は仲が良いと言い、口に出さなくても事情を理解してくれるようになった。
「見てー! 手を繋いでるー!」
「ほんとだ。ラブラブだね」
だが実際はそうではない。手を繋いでいるように見せかけてギリギリで触れないようにしているだけだ。生徒たちの視界から外れた瞬間、俺たちは距離を取る。
「正直早瀬くんがもっとイケメンになってくれてたら有難かったんだけどね」
「こっちのセリフだ」
互いを幼い頃から知る俺たちならではの会話だ。といっても昔の早瀬は今と変わらぬ容姿からモテモテだったらしいが、俺はそうとは思わない。
つい先日、互いの両親に付き合ったことを報告すると俺の母は「やっとなのね」という様子だった。これが三ヶ月で終わるとも知らずにと内心哀れに思ったが……。
時々葵と互いの母を連れてどこかに行くこともあったがその都度、母達は会話が弾んでいた。その傍ら俺たちは肩身狭く、機械のように話していた。
最初の一ヶ月は、本当に都合がよかった。
「一人でいるときの、あの感じ。説明しにくいけど。『彼女いるから』って一言で済むのが、思ったより楽」
俺は「そうだな」とだけ返した。それ以上の話はしなかった。深入りしない、というのがルールだったからだ。
利用しているという自覚は、はっきりあった。
彼女は俺を「彼女がいる男」に見せるための道具として使い、俺は彼女を「彼氏がいる女」に見せるための道具として使っていた。手を繋ぐときも、肩が触れるときも、そこに温もりを求めようとはしなかった。ただ、周囲の目を意識して、適切な距離を保つだけだった。
①
ある日、友人に「伊吹とどうなの?」と聞かれたとき、俺はこう答えた。
「まあ、普通に付き合ってるよ」
嘘ではなかった。普通に付き合っていた。彼女も同じことを言っているのだろうと思った。お互いがそう理解しているなら、それでいい。傷つく必要もないし、期待する必要もない。
そう思っていたのだが二ヶ月目に入った頃から、少しずつおかしくなり始めた。
最初の異変は、些細なことだった。
雨の日、彼女が傘を忘れてきたため俺は自分の傘を差し出した。彼女は一瞬ためらってから隣に入ってきた。肩が触れる距離。以前ならすぐに「大丈夫」と離れていただろうに、その日は最後まで離れなかった。
傘の骨が時々彼女の髪に触れて、彼女は小さく謝る。その声が、いつもより少し低かった。
「濡らしてるよね」
「気にしなくていい」
彼女は「うん」と短く答えた。それ以上何も言わなかったが、俺の腕に彼女の体温が伝わってくるのがわかった。ルールでは『必要以上に近づくな』だったはずなのに、その日はなぜか、離れようとしなかった。
翌日、彼女が熱を出して休んだ。
俺は特に何も思わなかったはずだった。授業中もいつものように板書をする。なのに、気づくと隣のクラスの方を何度も見ていた。
彼女の席は空で、カーテンが少し揺れているだけ。俺は特に用事もないのに、彼女の家の近くまで行き玄関のチャイムを鳴らしていた。指が少しだけ震え、心拍数が上昇し、妙な気持ち悪さが全身を蝕んだ。
思えば葵の家に来るのは今回が初めてだ。幼馴染とはいえ、家で遊んだことなんて無い。
「……」
葵が熱を出しているのも今回が初めて。小学生、中学生の間、一度も病欠したことなんてない。
彼女はマスクをしてひょっこりと現れる。少し驚いた目をしてそれから小さく笑った。
「心配してくれたの?」
「ただ、近くまで来たから。ついでに」
「嘘だ」
彼女はそう言って、俺の手に小さな袋を押しつける。お見舞い、といっても何もしていない。普通こういう時に物をあげるのはこちら側ではないのか?
勘ぐり合うように互いの視線が交錯する。
何を考えているのか。
何の目的があるのか。
何をしたいのか。
心の奥まで覗き見るような目線を向けたまま硬直しているのだが一向に見えてこない。だが思うことはある。
――葵らしくない。その結論が出た。
中にはのど飴が入っていて包装が少し温かかった。彼女の手のひらの温度が移っていたのだと思う。
「お礼。次に会うとき、返すから」
俺はそれを受け取って、結局何もせずに帰路に着く。帰り道、袋の感触がいつまでも手に残っていた。家に着いてから、飴を一つ取り出して口に含んでみると甘くて、少しだけ喉が焼けるような味が広がった。
「――まずい、かも」
ルールを破っている自覚はあった。でも、破っているのは自分だけだと思っていた。彼女は相変わらず淡々としていて、必要以上に感情を見せなかった。いや違う。
何も悟らせたくない、そんな雰囲気が滲み出ていた。認めたくない、少しずつ変化している自分の感情に見て見ぬ振りをしているのだ。
周囲からみれば俺たちは初々しさがまだ抜けきっていないビギナーカップルだと思われるだろう。本心を隠すことができて、周囲にもそれを悟られず誤認できる。
「これも……都合がいいだけだ」
何度もそう自分に言い聞かせた。彼女の体温を覚えてしまったことも、熱を出して休んだ日に様子を見に行ってしまったことも、ただの延長線上だと。深入りしているわけじゃない。ただ、少しだけ、制約の範囲が緩くなっただけ。
別に好きというわけでは、ない。
②
三ヶ月が近づいたある日、決定的なことが起きた。
いつものように放課後、軽い食事を終えて帰る途中だった。彼女が急に足を止めた。
「涼太」
下の名前で呼ばれて、俺は思わず足を止めた。今まで一度も、彼女に下の名前で呼ばれたことなどない。
ドキンっと何故か高まった心を見抜かれないよういつものトーンよりも少し低くして返事をする。
「何」
「……なんでもない。呼び方、間違えた」
「――――」
彼女はすぐに視線を逸らす。でも、耳の先が少し赤くなっているのがわかると俺は何も言えなかった。胸の奥が、熱を帯びていく。粛々としていた葵が落ち着かない様子で細かく動く。
長く伸びた銀色の髪を耳にかける何気ない動作。緊張を隠すために飲み物を一気飲みして噎せる動作。
「――ぁ」
ふいに込み上げた自分の中の恋心を自覚してしまった。
「あぁ……」
天を仰ぐようにして俺も視線を逸らす。葵からすればみっともない姿を見ないようにしてくれていると思っているのだろう。
都合のいい関係だ、俺たちは自分たちの利益のために利用し合うなのに。それにも関わらず運命は残酷だ。時期に別れる時がやって来るこのタイミングで『好き』という情が湧くなんて。
その夜、俺は眠れなかった。
天井を見つめながら、ここまでのことを思い返していた。傘の中で肩が触れた感触。熱を出していた彼女の少し掠れた声。のど飴の袋の温もり。そして、今日の「涼太」という呼び方。
それから――自分の中にあった葵への好感。
全部、都合がいいだけのはず。
お互いが利用し合っているだけなのに、どれもが、ただの道具としての感触じゃなくなっていた。
俺は彼女のことが、気になっていた。
会わない日の方が、長く感じるようになり会いたいと思うようになってしまった。彼女の些細な表情の変化が、気になるようにまで……。
ルールを守ろうとすればするほど、守りきれない自分がいることに気づいていた。
「深入りするな……か」
そう取り決めたのは自分たちだった。なのに、いつの間にか、俺は深入りしていた。彼女のことが、ただの都合のいい存在じゃなくなっていた。
どうしてもっと昔から距離を縮めなかったのだろうかと時々自分を恨むようになった。そうすればこんな関係ではなく、本物の恋人として関係を作ることができたのに……。
脳が震える。今までは感じなかった怖気という病魔が体の隅々まで巣食うように蜷局を巻く。
この感情を認めてしまったら、三ヶ月で終わらせるという約束が崩れる。傷つく可能性が出てくる。最初に決めた「都合のいい関係」が、都合の悪いものに変わってしまう。
それでも、気づいてしまったものは、もう戻せなかった。認めざるを得ない。目を逸らすことなんて出来ない。この気持ちを押さえろと言われても今なら無理だと諦めるだろう。
やがて来る決別の時に俺は――。
③
次に会った日、彼女から連絡が来た。
「今日、話せる?」
いつものファミレスだった。彼女は席に着くと、まっすぐ俺を見る。見透かされるような眼差しではない。彼女の青の瞳は大海原のように澄んでいた。やがて、声を絞り出すように開口。
「そろそろ、終わりにしよう」
予想していた言葉。
やはりそうなるのか。どこか残念に思う自分に心の中で唾を吐いた。「今更何を言ってるんだ」という言葉も投げておく。
そう。終わりだ。ハナから決まってたことだろう。俺だけだ。俺だけが一人馬鹿みたいに熱くなってただけ。だから、胸が沈んだことにも、すぐに蓋をしようと入口を不作――でも、蓋ができなかった。
「そうだな。約束通りだ」
「うん」
彼女は俯いて、指でテーブルの端をなぞった。しばらく沈黙が続いた。いつもなら、これで終わりだった。形だけの関係を、形だけ解消する。傷つかないように、淡々と。
でもその日は、言葉が喉の奥で引っかかった。
終わりなら、いいんじゃないか。そんな悪情が言霊となって口を出ていく。
「――葵」
俺が名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。初めて、下の名前で呼んだ。
「どうしたの」
「俺、ルール破ってたと思う」
彼女は少し目を見開いた。唇をかすかに動かして、何かを言おうとして、やめた。
馬鹿みたいだ。今更変わるわけもないのに。終わった関係なのに。
「私も」
だが葵の言葉に、俺は息を止めた。申し訳ないという佇まいではなく同じだよ、と優しく寄り添うようなオーラが出ていた。
「最初は本当に都合がよかった。周りに説明しやすいし、一人でいるより楽だった。放課後の楽しい時間も今まで味わったこともないし、鬱々とした日々に太陽が射し込んだような毎日だった。
でも、いつの間にか、会わない日の方が長く感じるようになって……雨の日に傘に入れてもらったときも、熱出して休んだときも、あなたが来てくれたのが嬉しかった」
彼女はゆっくりと続けた。声は平熱なのに、どこか必死だった。指先が、テーブルの上で小さく震えている。
「終わりにしようって言ったの、約束だから。でも本当は、このまま終わらせたくなかった。でも、あなたが淡々としてるから、私が勝手に本気になってるだけだと思って。利用されてる側が、勝手に感情移入してるだけだって」
私だけが――その言葉は深く突き刺さった。
俺は彼女の顔を見つめた。いつもの、感情を抑えた表情じゃなかった。少しだけ目が赤くなっていて、唇を固く結んでいる。完璧にコントロールしていたはずの彼女が、今はコントロールを失いかけていた。
だがそれはこちらも同じ。既に感情のブレーキを踏むことなくアクセルを全開にしようとしている。
「俺もだ」
短く答えると、彼女の肩がかすかに反応。
「俺も、都合がいいだけだと思ってた。伊吹を、自分の都合で使ってるだけだって。でも、いつの間にか伊……葵のことが気になってた。深入りしないって決めてたのに、勝手に深入りしてた。熱出してるって聞いたとき、何も考えずに家の近くまで行って……あれは、都合とかじゃなかった」
彼女は俯いて、小さく笑った。泣いているのか笑っているのか、よくわからなかった。
「ばかだね、私たち」
「ああ」
俺は手を伸ばして、彼女の手に触れた。彼女は拒絶しなかった。むしろ、ゆっくりと指を絡めてきた。以前の、形だけの手繋ぎとは全然違った。体温が、直接伝わってくる。
「条件、全部無しにしない……?」
彼女の声が少し掠れていた。
「深入りしてもいい。将来の話をしてもいい。感情的になってもいい。三ヶ月で終わらせなくてもいい。もう、都合とか、利用とか、やめよう」
常々思っていたことだ。あの制約さえ無ければ。ルールなんて無ければ……俺はもっと思い思いに葵のことを好きになれる。好きだと据に身をやつらせることなく伝えられるのに、と。
「俺から言おうと思ってた」
彼女は顔を上げて、今度はちゃんと笑った。目の端に少しだけ光るものがあったけど、拭おうとはしなかった。
いつもの時間、いいや。いつもとは大きく変わった時間が流れた。決して周囲の空間が、雰囲気が変わったわけではない。俺たちが大きく変進したのだ。
店を出ると、冬の冷たい風が吹いていた。彼女は俺の隣に自然と寄り添ってきた。以前のように区切ることもなく、ただ並んで歩いた。肩が触れるたびに、以前ならすぐに離れていた距離を、今は意識して保たなかった。
「ねえ」
彼女がぽつりと言った。
「今度、ウチに来ない? お母さんが待ってるんだ」
「待ってるって……もちろんいいけどな」
俺は彼女の手を握り直した。温かくて、心に蔓延していた制約という病が消えていくのを感じた。以前なら「都合がいいから」で済ませていた感触が、今はただ、彼女のものだとわかった。
「実は私のこと昔から気になってたでしょ?」
「それは、ないな。だって顔見知り程度だっただろ」
「えぇー、そこは冗談でも言ってほしいよー」
都合のいい関係は、ここで消えた。俺たちが消したのだ。
代わりに始まったのは、もっと面倒で、もっとまっすぐな関係。ルールも期限もなく、ただ、隣にいることが自然で、会えない日が少しだけ長く感じられて、些細なことで相手の表情が気になる。
そういう、当たり前で、都合の悪い関係だった。
でも、それでよかった。こっちの方が良い。
俺は彼女の手を握ったまま、夜の道を歩いた。もう、利用し合う必要はなかった。ただ、好きだから、傍にいる。それだけで、十分だった。
俺は今、葵のことが好きなんだと胸を張って言える。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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