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通り雨と雲の切れ間と夕暮れ

 中学に上がったひこいしは、陰鬱な気分が具現化したような雨の中を歩いていると見間違う方が難しい都市伝説である”口裂け女”に遭遇。お決まりのフレーズを問う口裂け女相手にひこいしが歯に衣着せぬ物言いで彼女の容姿を言うと――。

 中学に入ってから初めての夏。蒸し暑さを解消する夏特有の突発的豪雨というものは有難迷惑の塊でしかない。だが、保険として鞄に入れておいた折畳傘のお陰でコンビニでのビニール傘争奪戦に参加せずに済んだ。

 一人見馴れた通学路を家路に向かって極力水が跳ねないよう静かに歩く。とは言ったものの激しく降頻る雨がアスファルトに叩きつけられる度に跳ね上り、ズボンの沁みとなっていては意味が無い。精々水溜りを避け更なる被害から避けるが関の山。既に運動靴に雨水が染み込んでいるが、これ以上ぐじょぐじょにしたくない。

 急に降りだした雨から逃げるように走り去る人達の間を無感情で通り過ぎる。時たま肩にぶつかりそうになる通行人を最低限の動きで避け歩いていく。流石に水溜りに足を突っ込んだ被害が此方に飛び火してきたのに眉を思いっきり顰めた。が、それ以外は特に気にせず、憂欝で涼しい雨の中を歩いていく。

 「(…真っ赤。)」

 唐突に新緑鮮やかで灰色の雨が降り注ぐ世界に映える赤色。差し広げる傘が蝙蝠と無色透明なだけではない。他の色だってある。ただ、ひこいしの目に飛び込んできた赤色が傘では無く血染めされたような深紅のワンピース。大泣きする空の下、傘も差さずに見上げているワンピース姿の女性。赤と対比して白いマスクが異様に目立つ。

 進行方向先の右側。余りジロジロ見ては相手に失礼なのでひこいしは傘を前に傾け、横を通り過ぎた。通り過ぎた、何事も無く通り過ぎる予定だった。

 「私、きれい…?」

 両耳を塞いでも聞えてきてしまいそうな妖艶な声に思わず立ち止った。

 右側の鼓膜を未だに震わせる妖しげで形容し難い美しさが宿る声色。ひこいし以外の者であれば忽ち恐怖に体を強張らせているシーンだが、生憎ひこいしの目と心が怯え恐怖する事は無かった。頭の天辺からつま先まで一通り目を通し、最後に視線を一点に集中させた。

 「お姉さんは何て言って欲しいんです? 綺麗って言って欲しいんですか?」

 「私、きれい?」

 「―――、」

 訝しげに唯一見える顔の一部分、目元を見た所で相手の態度が変わる気配はないようだ。

 相手が望むのは綺麗か綺麗じゃないか。その二択だけしか望まない、そんな態度をひこいしは気だるげに読み取った。

 肺の奥から全ての息を吐き出した大きくて深い溜息。自分の舌先に乗せた言葉が静かに雨音を伝い、周囲に溶け込んでいく。

 「ふつうです。」

 抑揚のない言葉。

 相手はひこいしの言葉を同じ声色で繰り返した。

 「ふつう…?」

 「はい。」

 雨の日、赤いワンピースに顔半分を覆い隠す白いマスク。そして、何より質問内容が徹底的確信となった。

 相手の女性は都市伝説の中で最も有名な“口裂け女”。小学生時代、誰しも一度くらい聞き恐がったりするであろう著名人なヒトだ。けれど相手には申し訳ないが、先程述べた通りひこいしはそこまで怯えていない。生憎小学校時代なんて恐怖話より辛くて怖かった記憶しかない。あるかないか分からない話に現を抜かす暇なんて余裕なんてひこいしにはこれっぽっちも無かった。

 「きれいじゃない、…?」

 「ふつうです。」

 しかし、口裂け女がどのようなものか、その対処法を知らない訳では無い。ポマードと唱えるなり、鼈甲飴を投げつけるなりすればいい。今回は“何を聞かれても普通と答える”手段を選んだが、鎌や包丁で切り殺されるのも乙なものだ、と。自嘲気味に笑う。

 さてはて自分より背の高いお姉さんが黙りこくってしまい、会話が途切れてしまった。別に撃退成功したとか、今の内に逃げるなんて思考が過っていくも実行に移さない。

 意味を持たない無言状態が続く。沈黙が静寂を纏わず、ざあざあと降り止まぬ雨音だけが耳に延々と入り込む。

 ふと、ひこいしの視線が目元から違う場所に向けられた。

 完全に濡れてしまった体はまるで湯船にダイブしてきたみたいだ。髪先から零れる雨の玉。折角のワンピースも雨に濡れてしまい、よくよく見れば水に変色した濃い赤色になっている。薄ら見える下着の輪郭からフイッと顔を反らし、視線を再び目元に向けた。

 嗚呼、見れば見るほど綺麗だ。だけど勿体無い、綺麗なのに如何してマスクで顔半分を隠してしまうのだろうか。なんて相手が口裂け女だという事を忘れてしまう程の美貌。素直に綺麗と言いたいけれど、ひこいしの心がブレーキを掛ける。

 と、思いきやアクセルをベタ踏みしていた。

 「やっぱり綺麗じゃないです。」

 言った瞬間、周囲の空気が凍りついた。止っているだけでも汗が滲み出る季節だってのに、背筋から感じる寒気を気付かなかったフリには出来ない。

 それでも慄く事無く、ひこいしが言葉を紡ぐ。

 「始め目元がとても綺麗だと思いました。でも、その目元も今では綺麗じゃないんです…なんでか分かりますか?」

 切り殺される覚悟で更に続ける。

 「お姉さん。泣いているじゃないですか。」

 雨の所為じゃない。確かに泣いている目元を指差した。

 言われた言葉に驚く相手に構わず、ひこいしの顔が苦々しく歪んでいく。

 「僕、涙って嫌いなんだ。嫌なものしかないから、…だから泣いていないお姉さんの顔が見たいな? 綺麗か綺麗じゃないかは、その後ちゃんと言うからさ。」

 都市伝説相手に随分と調子に乗ったものだ。

 そう、ひこいしが心内で自分を非難せずにはいられない。だが本当のことだ。仕方が無い、如何しようもない。


 涙は嫌い、涙が嫌い。


 遠い記憶の果て。何も出来ず只管泣き続けるしかない自分を彷彿させるのと、死という漠然とした自分なりの概念に直結してしまう。だから嫌で嫌いで恐かった。他人でも自分でも誰のでも涙を流している光景を目の当たりにするのが、…心底耐えられなかった。

 勿論ポカンとしている人為らざるモノにも十分適用される。

 「じゃあ僕の家に行くよ。ほら早く早く。」

 「え、ちょっと…。ま、」

 「? 待ってもいいけど直ぐ終わる? それとも他の用事があるとか?」

 「……ありません。」

 「そ。なら早く僕の内に行ってお風呂入って体暖めないと。風邪ひいちゃう」

 矢継ぎ早に言われる気遣いの言葉に流石の都市伝説もたじろいでいた。ひこいしが掴んだ相手の手。冷たい冷え切っている。どれだけ立っていたのだろう、こんな雨脚が強い空の元、どれくらいの間いたのだろう。

 掴んだ手を離さないように確り掴み家路に急ぐ。戸惑うもちゃんと付いて来てくれている相手にひこいしの顔が綻んだ。

 踏み出した足が水溜りにとっぷり浸かろうが関係ない。だが、上がった水飛沫に一時進行を止めた。すると後ろを付いて来ていた相手も止る。そして何事かと思ったのだろう、あせあせしながら様子を窺うと。

 バッと振り返ったひこいしと目が合った。

 「はい、傘。」

 不意に差し出された傘。高い所に位置する顔に当たらぬよう配慮され出された折り畳み傘。

 傘と少年を交互に見ていれば極めて当然のように振舞われた。

 「もう濡れちゃってるから意味無い、なんて言うの駄目だから。僕が濡れて欲しく無い。それでも一人で使うのが忍びないなら、はんぶんこしよ。ちょっと小さいけど。」

 「………。」

 ほぼ強引に渡された傘。暫く見続けていても変わらない現状に諦めたのか、ひこいしの頭上に差された半分の傘。握られている逆の手で掴む状態はさぞ差し辛かろう。けれど周囲を包む空気が先程より、随分と柔らかくなった。原因不明の悪寒にも襲われない。

 たったそれだけの事なのに。ひこいしの心が自然と晴れ渡っていくのが止らない、止りたくない。


***


 立派過ぎる大門を通り過ぎ、これまた整備し尽された庭先を通り、昔ながらの日本宅を代表する様な玄関に辿り着いた。

 終始忙しなくキョロキョロする相手に人らしい親近感を抱きつつ、ひこいしはズボンのポッケを漁り鍵を取り出した。解錠される音に続き、引き戸がスライドされる音が続く。

 「………。」

 「家に誰もいないよ。」

 僕以外はね。

 心底詰まらなげにひこいしが折り畳み傘を畳みながら呟く。途端内心溢れだしていたドキドキワクワク感が消えたらしく相手の目元が悲しげに細まった。

 ノルマ達成があるのか分かり兼ねるけど、大人がいたところでカウントされるのか。微妙に気になる問題を抱き。それを振り払うように風呂場へ相手を連れていく。濡れてしまった床は後で拭くとして、はて着替えを如何しよう。

 「(母さんの形見があったはず。)」

 ここまで来て悪足掻きをする相手を無理矢理浴槽に押し込み、濡れた廊下を雑巾で拭きつつ模索する。殆ど処分された中、自分が強情に譲らなかった形見の一つが残っている筈。粗方、廊下を片付けてから目ぼしい箇所を探せば難なく出てきてくれた懐かしい思い出。胸の中が無意識に切なさと温もりで溢れ返りそうになるのを何とか押し留め。真新しいバスタオルと共に形見を風呂場に持っていく。

 一言掛けてから風呂場への扉を一枚開ける。洗面所と洗濯機に出迎えられ、脱衣カゴには真っ赤なワンピースがご丁寧に矢鱈綺麗に畳まれた状態で置かれていた。

 「(意外と几帳面…。)」

 横目で見つつ、曇りガラスの戸の先にいる相手に声を掛ける。

 「着替えとタオル、ここに置いとくよー。」

 上手く言い表せない場所の位置はジェスチャーで伝えればいい。ひこいしが気持ち大袈裟に此処に置きましたアピールをすれば、控えめにペコペコ頭を只管下げてくる影が見えた。

 その前に声を掛けられてとても驚いたのか、肩をビクッと震わせていたのは見なかった事にした。

 少し経ち宛ら生娘のような振舞いで居間に姿を現した都市伝説。

 「よく場所分かったね。いま麦茶出すから適当に座って。」

 「…お構いなく。」

 入れ替わるように立ち上がりすれ違った際に視界に入れた真っ白なワンピース。母との記憶自体が少ないけれど、それだけはっきりと覚えていて捨てられるのを拒んだ、…思い出の品。

 存外悪く無い。真っ赤から真っ白になったワンピースを着こなす相手をひこいしの表情が和らぐ。

 程無くして持ってきた麦茶を相手の前に置き自分は真向かいに移動した。

 緩やかに腰を下し見上げた瞬間違和感を感じる。

 何時からマスクをしていない?

 それよりも――。

 「裂けていな、い?」

 随分と間抜けな声が出た。ひこいしの冷静な部分が溜息交じりに分析する。

 もじもじ体を揺すり、右へ左へ視線を泳がせ、時折口をパクパクさせ何かを言おうとしている口元は正に、如何見たって。人のソレと大差ない。変わらない。まじまじ見てしまうのが良くない事で失礼な事だと昔から言い聞かされていた。でも観察せずにはいられない。

 「あ、でも一応、裂けているのですよ? ほらぁ…。」

 最後の一言がワザとらしくおどろおどろしい言い方をしたのにも関わらず。ひこいしの口からは感嘆の溜息しか零れ無かった。勝手に冗談で嘘だと決めつけていたので、こうも見せ付けられると一瞬フリーズを起すが、直ぐに好奇心が勝る。

 それどころか無礼承知で間近まで近付き見入っている。

 裂けた口から覗く歯が奥歯まで見え、横からでも確認できる。耳元まで伸びた切れ目がまるで先程切り裂いたように生々しく。湿った音と共に透明な糸が上下に道を形成していた。

 裂けた口を見せ付ける相手を本当に感心しているらしくひこいしは何度も頷いている。

 「裂け目と根元が痛々しい…。でも歯並び綺麗だなァ。羨ましい。僕の歯って八重歯が他の人より目立っちゃって、好きじゃないんだ。」

 「恐く、ないの? 恐がらないの?」

 口端に指を突っ込みイーっと見せるひこいしに対し口裂け女が焦り気味に声を掛ける。

 すると、喉元に引っ掛っていた小骨が取れたみたいな勢いでひこいしがポンっと手を叩いた。

 「そういえば綺麗かどうかの質問にちゃんと答えないと。」

 怖がる素振りすらない様子に落ち込み俯いていた相手の顔が勢いよくひこいし側に向けられる。ひこいしの芝居がかった演技で云々悩み考える様を手に汗握る様子で待っていた。本当に人間より人間らしい仕草に込み上がる笑いを押し留め、楽しげに語る。

 「はっきり言うと雨の下にいたお姉さんは遠目だと綺麗で、間近だと駄目駄目。でも今のお姉さん、とっても綺麗だよ。ちょっと落ち着かない所や、しょんぼり俯くとこ。何より泣いていないし、…そのワンピースを綺麗に着こなしてくれているお姉さんが綺麗じゃないわけがない。だからお姉さんは綺麗な人。断言するよ、僕は。」

 母の面影を追ったり、幻影を見ているわけじゃない。寧ろ対局する相手に失礼だが、母を思い浮かべたりしない。彷彿もしない。何より思い出せる材料が深刻なまでに少ない、少な過ぎるのだ。

 「そう、…。そうなの…。」

 でも、不思議な事にゆるゆる破顔していく彼女の表情に、幼き頃の霞んだ記憶がフラッシュバックを起す。目を糸のようにして、口が弧を描き、頬が上気して仄かに染まる。一目で幸せだと、捕えられる顔付きにつられ笑うひこいし。久方ぶりの取り繕った笑みじゃない、思わず自然と込み上がる笑いが何処か懐かしさを感じた。

 「――お姉さん、その顔はいただけない。ダメ絶対。」

 ほんの数秒でぶち壊された幸せ空間。

 致し方ない、全く以て致し方ない。超至近距離で見てしまった悪魔顔負けの邪悪な笑い。垂れ下がった目尻と眉毛が歪に歪んでいる所為か、ニタァと恐ろしく吊り上っている裂けた口端が原因か、正に妖の類がしそうな雰囲気を醸し出しまくっているお陰かは定かではない。多分、全部。全部の所為で原因だ。ひこいしが自己完結する。

 自己完結してしまえば、全思考及び動作が時を置かず容易に溶けてくれた。

一先ず非常に宜しく無い本人無自覚の満面の笑みにひこいしは手厳しい一言を送る。

 「え。私、そんなにはしたない事をしてしまいました、か?」

 「はしたないというか。赤ん坊が一瞬でショック死してしまいそうな笑い方するなんて損だって思っただけ。」

 「そこまで言わなくても…、うぅ…。」

 「僕はお姉さんに忠告してるだけ。そんな笑い方すると綺麗な顔が台無しだってね。」

 綺麗という言葉にほぼ条件反射的に心を高揚させる作用があるようで。再び品が無く見苦しい笑みを浮かべそうになるも我慢するのに何とか持ち堪えている。口裂け女がチラチラ何度も視線を送るのでひこいしがまたやんわり微笑み返した。

 すると咲き乱れる桜のような笑顔。白色に近い淡い桃色の色合いが視線を離させてくれない。可能であれば吹き舞い踊る桜吹雪の中にずっと居続けたい。目を開けても閉じても広がる幻想的な世界に酔いしれたい。

 「(…? なんで桜が浮かぶんだ?)」

 笑い方を他のもので表現するのは多々ある。けれど何故自分は其処まで桜に固執するのか、当時のひこいしは唯、首を傾げるしか無かった。

 一旦それは置いておき。

 久しく人(正確には人では無い)との会話や触れ合いに疎くなっていた感情が疼きだした。至極単純に楽しくてこのまま終わって欲しくない。終わらせたくないと、ひこいしの心が軋みだす。何故、如何してこの様な感情が産れるのか自分自身理解出来ない。

 大方、暖かで素朴なぬくもりに当てられたのだと決めつけた。でなければ大粒の涙をボロボロと流し続ける光景を見ているのにも関わらず胸が苦しくならないのは変だ。

 「涙、流さないでよ。嫌いだって言ったばかりじゃん…。」

 「うん、うん…。ごめんね、ごめんね…。」

 屋根の下にいるってのに雨がしとしと降っている。止めどもなく零れ落ちる透明な涙。雨空の元にいた時より泣いている相手。ひこいしはさりげなく彼女にハンカチを差し出した。

 でも受け取ってくれない。泣き止んでもくれない。

 「!?」

 泣き止むどころかどんどん涙が溢れ出てくる。

 ギョッとする態度を取りつつも頭では面白い位に冷静な判断するべく回る。ひこいしの記憶に深い爪痕を残す如く刻まれた消えない精神的外傷。痛みを呼び起こす引き金は何時だって自分か誰かの涙だった。涙であればどんなものでも、どのような状況下でも悲しくて苦しい記憶が甦ると思っていた。だが違った。

 彼女の、口裂け女が流す涙に傷は痛まない。通常の涙が曇天から急に降り出す雨なら、今目の前で人ならざるモノが流す涙は天気雨を彷彿させた。晴れているのに降っている。柔らかくて優しい雨がひこいしの乾いた心を潤していく。

 「言ったじゃん。泣いてる顔は綺麗じゃないって、だから涙拭いてよ。…お姉さん。」

 「ありがとう…、ありがとう…っ。」

 未だ泣きじゃくる彼女の頬をハンカチでそっと拭う。自分より身長が高い為、少しばかり背伸びをしての慰め。目元を傷付けないように配慮しながら拭いた。軽く押しあてるように。擦らないように。赤く腫れないように、傷付かないように。

 そして、優しい雨が降る止むように願い。ひこいしがハンカチを慎重に動かす。

 不意に視線に入った口の境目。たった此れだけがあるだけで周りから疎まれる。僅かながらに似たり寄ったりの相手に親近感を抱いた。

 そんな時、また零れ始めた涙にひこいしの手と口が動き。

 「駄目だって、お姉さ―――。」

 急に豊満な胸に抱締められた。行き成りの出来事及び思春期の男の子にとっては容易に顔が赤く染まる。息苦しさと恥かしさから逃げたくてひこいしが柔らかい檻からの脱出を試みる。

 「嬉しい…!」

 切羽詰まった、悲痛な声が雨音に溶け込んだ。

 聞き間違いかと始め考える。でも上から降り注ぐ感謝の言葉の雨は確かにひこいしの頭上に降り注いでいる。そして、静かに絞り出すような彼女の叫びがひこいしの胸の強く握り締めた。




本当は平穏で暖かい暮らしをしたい


でも出来ない


恐がらせたくないのに 驚かせたくないのに


頑丈に絡みついた鎖のような呪縛から


既に決まったレールしか走れないような性質から


逃れられない


自分自身が嫌で 嫌で 気が狂いそうになっていたのに


消えたいって 願っていたのに


貴方の小さな優しさで願いが覆った


やっぱり生きたい 平和に暮らしたい


死にたくない 死にたくない 死にたくない 消えたくない 忘れられたくない…


優しい気持ちをくれた貴方に 優しくしてくれた貴方に


感謝の気持ちを伝えたい


この喜びを 嬉しさを 伝えたい


ありがとう… ありがとう…




 架空の、想像上の、都市伝説の存在がそのような苦しみを背負い押込み生きてきたのを誰が分かるだろうか。知っているのであろうか。誰も分かりやしない、そんな悩みあるとも考えやしない。

 咽び泣く彼女の背を擦る。小刻みに震え嗚咽を我慢する事無く涙する彼女の背を擦り続けた。そして彼女自身も震える己の身を抱締めた。俯き目から直接零れ落ちる涙は畳に落ち涙あとを形成していく。ぽたぽた流れる透明な雫。涙というひこいしにとっては忌々しく苦しい象徴。しかし何故か重苦しくない。

 間近で見ても傍から見ても嬉しいのか悲しいのか定かではない。微笑んでいるのに泣いている。泣いているのに微笑んでいる。けれどはっきり目と口元は笑みの形になっている。不思議で、とても不思議だった。ひこいしの視線は絶え間なく流れる涙に注がれた。涙に変わりないというのに心が悲鳴をあげない。それどころか悲しみや辛さとは真逆、だが正体不明の感情が心を埋め尽くし始めた。

 「(あったかい涙だなぁ。)」

 唯一分かることだった。

 如何いう原理や堅苦しい意味合いなのかは全然分からない。見当もつかない。ただただ彼女の瞳から滾々と湧き上がる無色の声がとても心地よい。

 まじまじと見ていると視線に気付き、彼女が照れ臭くされど優しげな視線を送ってきた。途端、心臓が外に飛び出た。

 「!?」

 気がした。錯覚に陥った。飛び出ていないか確認。飛び出ていない、穴も開いていない。ペタペタ触り何度確認しても変わらない。そんな挙動不審な行動に彼女が小首を傾げれば今度はカッと頬に熱が籠った。ひこいしの思考が何かに因って掻き混ぜられる。何が如何なっているのか、何が起こっているのかてんで分からない。原因不明の動悸と発熱に襲われるのが理解出来ない。今も尚、こちらを見詰めてくる彼女の瞳に息が詰まる現象に釈然としない。

 「日が落ちてきました。よかったら夕ご飯食べていかない?」

 雨があがった空。雲の隙間から見える空も、空を漂う雲も沈む日に因って橙に染まっていた。烏が鳴き、誰もかれもが家路恋しくなる時間帯。

 咄嗟に出た言葉は計り知れない未知の感情を誤魔化す為。混乱する考えから気を逸らせばまともになるだろうという浅はかな考え。その後、うじうじもだもだする相手を半ば強引に言い包め、ひこいしと都市伝説との奇妙な夕飯の時間が訪れるのだった。


***


 「じゃあ一緒に暮らさない?」

 味噌汁を啜る音に混じって聞えた耳を疑う言葉。

 思わずお椀によそっていた杓文字を持つ手が止るのは仕方のないこと。

 「僕としては一緒に住んでくれると嬉しいし、お姉さんも僕と一緒に住めば上手く人間社会に紛れこめていいんじゃないかな。子供一人しかいない家でご飯作って、洗濯物干して、掃除する人が口裂け女なんて思われないでしょ?」

 「そ、それはそうですけど…。」

 「お姉さんだって言ってたじゃん。危害加える気なんてないのに、恐がられたり追われたりする生活がイヤだって。」

 おかわりを催促して手があけびにとっては逃げ道を通せんぼしているように見えた。出された手にお椀を乗せるのを見計らい、声を掛けてくる中学生に動揺を隠せない。

 真正面から見ないようにチラチラ様子を窺う。長い年月、方々色々な場所を訪れているが今の今までこんなにも目を反らしたい子供に出会った事が無い。

 純粋過ぎるまでの期待の眼差しが眩し過ぎて痛い。

 「――ふ、不束者ですが。」

 無言の威圧感に負けた。杓文字をお櫃に戻し深々と頭を垂れれば降ってくる間の抜けた声。

 「なんかお姉さんって僕の知ってる口裂け女とは程遠い存在だよね。」

 馬鹿にしているんじゃない。何度も己に言い聞かせるが、あけびの心がズキリと痛む。

 けれど其の痛みも直ぐに飛散した。

 「…だから一緒に住みたいのかも。」

 ボソリ呟いた一言。

 バッと顔を上げひこいしを凝視すれば顔ごとそっぽを向いている。もごもご動く口元に咥えられている箸が上下に揺れる。分かり易い態度にあけびの顔がまたおどおどろしく破顔するのは言うまでもない。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 異種間恋愛が三度の飯より大好き担々狸の作品今後ともよろしくお願いいたします。

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