湯気と共に立ち昇る雪虫
吐いた息が白い尾を引く季節。ガラス窓越しに隔たれた部屋の中で、冷たい水に手をさらしつつ水仕事をこなす少年“ひこいし”を気遣う美貌の持ち主“あけび”こと口裂け女。都市伝説の礎を作ったにしては人畜無害がすぎる存在と自身の悲しみを飼いならしたように振舞う少年が互いの心を溶かしていくのに然程時間が掛かるわけもなく――。
ひとつ屋根の下、口裂け女に背伸びをして恋をする少年(人間×人外)物語りのはじまりはじまり。
薄灰色の空。
今にも泣き出してしまいそうな、どんよりとした空模様を窓ガラス越しに見上げた。二重サッシのお陰で結露していない。けれど今朝の冷え込みが本格的な冬の訪れを知らせる。
お湯を使えば水切れも良くなるし、手が悴まなくて済む。けれど、ついつい少ない洗いものだとお湯を使うのが億劫だった。
「節約意識も程々にね。」
凛とした声と風が窓を揺らした音が重なり響く。
シンクに面していた窓から意識と視線を後ろに投げ掛けた。急に声を掛けられたのが原因ではない。けれど少し驚いた表情で振り返る。
艶やかで張りのある黒髪。背中の半分近くある長さにも関わらず切れ毛や痛みというのを知らない美しい髪。憂いを帯びた雰囲気、真っ白で滑らかな肌、薄く閉じた瞳に、淡く染まった唇。傍から幸薄い顔付きや優しさを全く感じられないと評される彼女だが、少年にとっては如何しても受け入れ難い酷評だった。だって冷たくなった手を慈しみの表情で見詰め、そっと自分の手で包み込み温めてくれる。
これの何処が優しさを感じられないって言えるのだろうか。
「節約なんてそんな大袈裟なもんじゃないよ。」
「そうなの?」
「ちょっとお湯で洗うのが面倒だったんだ。」
「でも、その所為で手がこんなに冷たく赤くなって。」
小さな手を労るように擦る。指先からじゅんと熱が伝わり、解れていく感覚に少年の顔が無意識に微笑んだ。温もりが心配してくれる気持ちが、とても心を穏やかにさせてくれる。
少年は自分の包まれた手から年上の同居人を見上げた。伏せられた瞼から伸びる睫毛の長さに宿る嫋やかな慈悲の色。俗に言う大人の色気に少年の心が小さく跳ね上った。
伏せられていた瞳が徐々に此方を見始めた途端、恥かしさが体中を駆け巡り、反射的に手を払ってしまった。勢いよく払ったので相手に負傷させたのではと、少年は心配したが如何やら杞憂だったらしい。
特に気にしていないのか気付いてもいないのか、同居人は小首を傾げ宙ぶらりんになった手を小さく振っている。大きな音が響いた割に腫れていないので怪我はしていないと推測。
「ご、ごめん。怪我、してない?」
「ええ、平気よ。フフ、心配して下さるなんて優しいのね。」
にこやかに笑う同居人のぎこちない笑顔。当たり障り無いように、世間体から上手く問題を起さないように、身に付けた機械的な悲しい仮面。幾ら致し方ないとはいえ本人が自覚なしでその笑みを向けてくる。
少年の心が今度はずんっと重くなった。傷付ける気などなくても傷付けてしまった時点で加害者だ。謝って済むなら幾らでも謝る。けれど捨て切った筈のちっぽけなプライドが、強がりが、素直になれない気持ちが、素直になる事に怯えている気持ちが邪魔をする。
心の中が靄で覆い尽される前に少年は考えた。
言葉が無理なら言葉以外のものでやろう、と。
「今日も寒い。何かあったかいの飲む?」
「! それじゃあ、お願いしていいかしらッ。」
「(こんな時だけ僕より子供っぽい…)もちろん。飲み物は、」
「「ホットココア」」
重なった言葉。一人は呆然として、一人がしたり顔をする。
呆然としていた相手の顔が徐々に朗らかになっていき、にこにこ笑い笑いかけた。
「ピンポーン大正解。私の好きなもの覚えていてくれているなんて嬉しい。」
「これでも一応、一緒に暮らしているから。」
当然だ。
胸を張り答える少年に益々同居人の顔が解れていく。気品良く笑う仕草に育ちの良さを見れば、辺りに漂う春風の暖かさに人柄の良さを感じる。
先にリビングで待っていて欲しい。そう伝えれば頭を優しく撫でてから笑顔で手を振り、少年が来るのをリビングで待っていた。撫でられた箇所から幸せを噛締めながら同居人が喜んでくれるホットココアの用意を始める。
再び見上げた窓ガラスの向こうに映る白い影。ちらほら数を増していく冬の精に少年は本格的な冬の到来を認識した。
「お待たせ。」
「首を長くしてお待ちしておりました。なんてね?」
新調した4人用の炬燵は寒さに強いと言っておきながら、体温が異常に冷たい同居人の為に購入した物。天板の上、丁度真向かいに座る同居人の前に奥は猫柄の愛らしいマグカップ。濛々と立ち上る白い湯気と甘い香り。既に同居人の顔は破顔しており、そこまで嬉しいんだと少年の心を暖めた。
丁度向い側になる場所に座り、少年も自分の青いストラップ柄のマグカップを天板に置いた。前を見れば本当に嬉しそうにココアを飲む同居人。血行が良くなってきているのかほんのり上気した頬が白い肌と相俟って非常に異常に幼く見える。
いつもの礼儀正しく大人の品格漂わせる、なんて思えない程の変わりっぷり。
ちびり。少年がマグカップに唇を寄せた。少し啜れば口腔内に広がるカカオの風味に控えめの甘さ。
ホッとする感覚に身を委ねたいのに、そんな時に限って目が意識があそこへ向ってしまう事に少年は一人唇を噛締めた。
薄ら浮び上る淡い線。ココアを飲む事で見え易くなってしまう線。
常人の口端の位置から更に伸びる線は本来彼女が開ける口の大きさを表す。裂けた部位を隠す為、普段極力口を動かさないようにして。人と喋る時も、物を食べ飲む時も、笑う時も、口を使う事自体を制限させていた。
しかし、どれだけ意識して隠していても気付かれてしまう。察しがいい人や、只ならぬ気配に敏感な人達には忽ちバレてしまう。
――なにか危害を加えたわけでも、加える気も無いのに…
――なんで彼女を執拗に追い掛け回して攻撃するんだろう
――見た目だってそんな僕等と大差ないのに
――人間より優しくて暖かくて、…弱いのに
一年前。
ひょんな事から少年の家に同居人という形で住むようになった、同居人こと口裂け女。
名を“あけび”と申し、淡い記憶の果てにしか両親の優しい温もりと面影を覚えていない“ひこいし”の元に誘われる様に厄介になっている。
まさか都市伝説の礎を作ったと言えるべき存在が、実際に実在していたとは当時のひこいしも我が目を疑った。
だが、今となっては遠い記憶のように感じられる。
「あけび姉ちゃん、また口からココア零れてる。」
「あら、いけないッ。ティッシュ、ティッシュは何処!?」
慌てふためくあけびにひこいしはティッシュ箱をそっと手渡した。
最後までお読みいただきありがとうございました。
異種間恋愛が三度の飯より大好き担々狸の作品今後ともよろしくお願いいたします。




