第2章 絶望のダンジョン、換気不備で営業停止
新宿御苑の地下に突如として現れた魔王城の心臓部。
そこは、迷い込んだ勇者を絶望へと叩き落とす「死の迷宮」であるはずだった。
しかし今、その湿り気を帯びた石造りの通路を歩いているのは、伝説の武器を携えた戦士ではない。
作業服に身を包み、手元を強力なLEDライトで照らす一級建築士・九条玲奈と、首から下げた身分証を盾のように構える行政職員・佐藤健太郎である。
「……九条さん、足元気をつけてください。ここの床、妙に滑りますから。清掃管理記録、ちゃんと取ってるか怪しいですよ」
「わかってるわよ、佐藤さん。それより見て、この壁。明らかに湿気がこもってる。地下15メートル以上掘り下げておいて、防湿工事の跡が全く見当たらない。これじゃカビの温床ね。衛生管理基準、完全に無視してるわ」
二人の後方では、暗黒騎士ガイアスが狼狽えながらついてきていた。
彼はかつて、数多の騎士をその魔剣で葬ってきた英雄だ。
だが今、彼の背中に冷や汗を流させているのは、九条が時折放つ「……信じられない」「これ、行政代執行ものね」という呟きだった。
「キ、貴様ら! ここは我が王が誇る『千の嘆きの回廊』だ! 無数の罠が貴様らの命を……」
「あ、その罠についてなんですけど」
佐藤が歩みを止め、通路の天井を指差した。
そこには、侵入者が通れば振り下ろされるはずの、巨大な鉄の斧が仕掛けられていた。
しかし、その斧の根元には、黄色と黒の縞模様のテープがこれ見よがしに貼り付けられている。
「この回転刃のトラップ。動力源は何ですか? 魔力? 物理的な重り? どちらにせよ、定期的な保守点検の記録が見当たりません。労働安全衛生法、知ってますか? 従業員……つまり、この通路を巡回する魔物たちが、誤って作動した罠に巻き込まれるリスクをどう評価していますか?」
「ま、巻き込まれる? それは……不運な奴が死ぬだけのこと……」
「不運じゃ済まないわよ」
九条が割り込んだ。彼女は斧の可動部を鋭い目で観察している。
「この軸受け、異音がしてる。金属疲労よ。もしこれ、巡回中のスケルトンが通りかかった瞬間に脱落して、頭の上に落ちたらどうするの? 立派な『労働災害』よ。あんたたちの組織、労災保険には加入してるの?」
「ろうさい……ほけん……?」
「してないでしょうね。佐藤さん、ここ、まずは安全管理体制の不備で『使用停止勧告』ですね。あと、この通路の有効幅員。避難経路としては狭すぎるわ。もし火災が起きたら、パニックになった魔物たちがここで将棋倒しになる。誘導灯もないし、火災報知器の感知器もついていない。消防法違反も追加ね」
佐藤は手帳に淡々と書き込んでいく。
迷宮の奥に進むにつれ、事態はさらに深刻さを増していった。
角を曲がった先にある広い部屋では、数十体のスケルトン兵が、錆びた剣を研ぐ作業に従事していた。
彼らの動きはどこか空虚で、骨の節々からはカサカサという乾いた音が漏れている。
佐藤は懐からストップウォッチを取り出し、しばらくその様子を眺めていた。
「……九条さん、これ、アウトです」
「何が?」
「勤務実態です。彼ら、さっきから一回も休憩を取っていません。ガイアスさん、彼らのシフト表を見せてください。36協定、締結していますか?」
「さ、さぶろく……? 彼らは不死の軍勢だ! 眠ることも、食べることも必要ない。永遠に我が王のために働き続けるのだ!」
「それが一番の問題なんですよ」
佐藤の目が、眼鏡の奥で鋭く光った。
「『不死だから疲れない』というのは、雇用側の勝手な解釈です。労働基準法は、生命体としての生理的欲求だけでなく、労働者の権利を保護するためのものです。彼らが意識を持っている以上、適切な休日と休憩が必要です。今の状態は、明白な『24時間3労働制』の強制。これはブラック企業を通り越して、現代の奴隷制ですよ」
「そうだぞ……」
隅っこで剣を研いでいたスケルトンの一体が、ポツリと呟いた。
「俺……もう三日間も……肋骨が痛いのに……休ませてもらってないんだ……」
「黙れ! 貴様、魔王軍の誇りはどうした!」
ガイアスが怒号を飛ばすが、佐藤は迷わずそのスケルトンの前に立ち、一枚のカードを手渡した。
「これは労働基準監督署の相談窓口の番号です。あ、今は電話が繋がらないかもしれないので、メールフォームのQRコードも載せておきますね。魔王様との雇用契約書に不備があれば、いつでも連絡してください。私たちは、種族を問わず労働者の味方です」
スケルトンは震える手でそのカードを受け取った。
周囲の魔物たちの間にも、ざわめきが広がる。
「ゆうきゅう……きゅうか……?」「残業代、出るのか……?」
魔王軍の強固な結束が、一冊の法律書によって内側から崩壊し始めていた。
「さて、次は最深部の『玉座の間』ですね」
九条が先行して歩き出す。
だが、最深部に近づくにつれ、彼女の表情は険しくなっていった。
携帯していた空気品質モニターが、ピーピーと警告音を鳴らし始めたからだ。
「……最悪。二酸化炭素濃度が2000ppmを超えてる。佐藤さん、この先は危険よ」
「換気不足ですか?」
「不足どころじゃないわ。このダンジョン、奥に行けば行くほど『給気口』がないのよ。魔法で温度調整してるみたいだけど、空気の入れ替えを完全に無視してる。魔王さんは平気かもしれないけど、ここに長時間滞在する生身の部下や、私たちみたいな人間にとっては命に関わるわ。ビル管理法……正式には『建築物における衛生的環境の確保に関する法律』の基準を大幅に逸脱してる」
「それは大変だ。行政として、見過ごすわけにはいきませんね」
二人はついに、地下100階相当にある大魔王の間に辿り着いた。
そこは、禍々しいオーラに包まれた広大な空間だった。
玉座に鎮座する大魔王ゾルディスが、二人を威圧するように見下ろす。
「また貴様らか。今度は何だ。我が軍の精鋭たちが、なぜか労働条件についてヒソヒソと話し合っているようだが、何をした」
「何をした、ではありませんよ魔王さん。私たちは、この城が『安全な職場』でも『健康的な住居』でもないことを指摘しに来たんです」
佐藤は鞄から、ひときわ分厚い書類を取り出した。
「魔王様、こちら『全部署に対する業務停止命令および立入禁止通知』です。特に、この地下10階以下のエリア。換気設備が整うまで、魔物一匹たりとも立ち入らせることは許可できません。酸素欠乏症のリスク、および高濃度CO2による健康被害が予測されます」
「我が魔力で満たされたこの空間が、不衛生だと言うのか!」
「魔力は酸素の代わりにはならないのよ」
九条が、図面ケースを杖のように地面に突き立てた。
「あんた、自分の玉座を自慢する前に、まず天井を見て。ここ、避難階段が一つもないわよね? 建築基準法施行令第121条、知ってる? この規模の不特定多数が利用する(可能性のある)建築物には、二方向以上の避難経路が必要なの。もし今、入り口で火災が起きたら、あんたはここで燻製になるしかないのよ」
「……燻製だと?」
「そうよ。それとも、魔法で壁をぶち抜いて逃げるつもり? それは『破壊行為』であって『避難』じゃない。構造的に計算された避難計画、および排煙設備がない限り、この部屋はただの『巨大な密室』。つまり、処刑場と同じよ」
魔王は絶句した。
今まで「死の迷宮」と誇っていた場所が、建築士の目を通すと「欠陥だらけの窒息部屋」に成り下がってしまう。
そのロジックの冷徹さは、どの勇者の聖剣よりも鋭く、大魔王のプライドを切り裂いた。
「……九条さん、そろそろ時間です」
佐藤が時計を見た。
「魔王様。本日の臨検はこれで終了します。後ほど、指摘事項をまとめた『是正指示書』を郵送……いや、ガイアスさんに手渡しておきます。24時間以内に、まずは空気清浄機の設置と、全従業員の健康診断の実施計画を提出してください」
「ま、待て……! 私は……私はこれから、この世界を……」
「あ、侵略のスケジュールについては、労働基準監督署とも相談してくださいね。月間の残業時間が100時間を超えるような侵略計画は、公序良俗に反するものとして差し止め請求の対象になりますから」
佐藤と九条は、呆然と立ち尽くす魔王とガイアスを残し、元来た道を戻り始めた。
背後では、スケルトンたちが「有給……有給を申請するぞ……」と小声で唱え始めている。
「……佐藤さん。次、なんだっけ」
地上に出た九条が、新宿の夜空を仰ぎながら聞いた。
「次は、あの城の『浮遊機能』についてですね。航空法だけじゃなく、工作物としての構造計算書も出してもらわないと。何でも、あの城、時々振動してるらしいんですよ。九条さん、これ、倒壊の予兆じゃありませんか?」
「……冗談じゃないわね。そんなの、新宿中の構造屋をかき集めても計算が終わらないわよ」
九条の言葉は、これからの戦いがさらに「リーガル・地獄」と化すことを予感させていた。
異世界の魔力と現代の構造計算。その交差点で、一級建築士のペンが再び、未知の領域を数式で埋めていく。




