照れ屋の太郎
このお話は、少し照れ屋で、とてもやさしい一匹の犬のお話です。
太郎は、人の気持ちを思いやるあまり、うまく気持ちを伝えられないことがあります。でも、その小さな勇気と行動は、まわりの人たちの心を少しずつ動かしていきます。
だれかのために動いた気持ちは、たとえすぐに伝わらなくても、きっと消えることはありません。
この物語が、やさしさを信じる気持ちをそっと思い出すきっかけになればうれしいです。
犬の太郎は、ちょっぴり照れ屋です。
柴犬で、毛は茶色。右目のまわりだけ黒くて、ちょっとおちゃめな顔をしています。
もう十歳近い老犬で、人に見られるとすぐに耳をぺたんと倒し、しっぽをおなかの下にかくしてしまいます。
太郎には、むかし飼い主のおじいさんがいました。
おじいさんは団地の一室で太郎とくらし、毎日やさしく声をかけてくれました。
けれど、ある年の冬、おじいさんは病気で亡くなってしまったのです。
ひとりぼっちになった太郎を見て、団地の住人たちは心を痛めました。
それからはみんなで食事を用意し、世話をしながら「地域犬」としてかわいがってきたのです。
「太郎は団地のみんなの犬だ」
そんな思いが、大人にも子どもにも根づいていました。
ある夏の日、団地のひろばで夏祭りがひらかれました。
ちょうちんがゆらめき、太鼓や音楽がにぎやかにひびきます。
屋台からは、やきそばやわたあめのにおいがただよい、子どもたちはわくわくして集まってきました。
「太郎もおいでよ!」
声をかけられた太郎は、しっぽをふりかけますが、すぐに耳をぺたんとして、ひろばのはしっこで立ち止まってしまいました。
そのときです。
かき氷の列で待っていた小さな女の子がつまずいてころび、泣き出しました。
まわりの子どもたちはどうしたらいいかわからず、オロオロするばかり。
すると、太郎はとつぜん走りだしました。
ぱたぱたと足をならして、女の子のそばへ。
ぺろりと小さな手をなめてあげます。
ところが――女の子はびっくりして、もっと大きな声で泣き出してしまいました。
「わーん!」
その声に、まわりの子どもたちは「あれ? 太郎がこわがらせちゃったのかな」とざわつきます。
太郎はあわてて耳をぺたんとし、しっぽをおなかの下に隠しました。
胸の奥がずきんと痛みます。
(ぼく……まちがえたのかな……)
その瞬間、亡くなったおじいさんの声が、どこかで聞こえたような気がしました。
「太郎、だいじょうぶだ。おまえのやさしさは、きっと伝わる」
しかしそのとき、にぎやかなひろばに大きな声がひびきました。
「危ない犬だ! 今すぐ捕まえろ!」
市役所から来ていた男性職員が、走って太郎にとびかかり、押さえつけたのです。
「この犬は野良だろう! 保健所に連れて行く!」
そう叫ぶ声に、子どもたちは青ざめ、太郎は震えながらもがきました。
「待ってください!」
女の子のお母さんが駆け寄り、声をあげました。
「太郎は、ただ心配して来ただけです。こわい犬じゃありません!」
すると団地の人たちも次々に集まってきました。
「そうだ、この子は太郎。私たちみんなで世話をしているんです」
「おじいさんが亡くなってから、団地のみんなで守ってきたんだ」
「保健所には渡さないよ!」
子どもたちも口々に叫びます。
「太郎はやさしいんだよ!」
「ぼくらの友だちなんだ!」
泣いていた女の子も、涙でぬれた顔を上げ、はっきりと言いました。
「太郎、ありがとう。わたし、もう泣かない」
その言葉に、押さえつけられていた太郎の目が大きく見開かれました。
右目の黒い模様が、まるでいたずらっぽく笑っているように見えます。
職員は戸惑い、やがて手を離しました。
「……そうか。みなさんがそう言うなら、私はもう何もできません」
ぱちぱちと、団地のひろばに拍手がひろがりました。
太郎は耳をぺたんとしたまま立ちすくんでいましたが、そのしっぽはもう、おなかの下ではなく、空に向かって大きく揺れていました。
それからというもの、太郎は少しずつかわっていきました。
朝になると団地のひろばに顔を出し、子どもたちとボールを追いかけるようになったのです。
まだすぐに照れてしまうけれど、みんなといっしょにいると胸があたたかくなり、耳もぴんと立ちます。
こうして、照れ屋の太郎は、団地の夏祭りの日から、ひとりぼっちではなく、団地の大切な仲間へ。そして団地の公式マスコット犬「太郎」として、新しい暮らしをはじめたのです。
おしまい。
太郎は特別な力を持った犬ではありません。
ただ、そばにいる人を思い、できることを精いっぱいしようとしただけです。
その小さな行動が、まわりの大人や子どもたちをつなぎ、太郎自身の居場所もつくりました。
やさしさは、ときに誤解され、照れや不安にかくれてしまうことがあります。
それでも、勇気を出して一歩ふみ出せば、心は必ずだれかに届きます。
太郎の姿が、あなたの毎日にそっと寄りそう存在になれば幸いです。




