外伝 羽林の陣にて ―― 秀長、祐兵を招く
天正十五年(1587)春。
九州征伐の陣は、豊後より日向へと張り出し
戦雲はなお厚く垂れ込めていた。
東道軍の本陣。
そこでは羽柴秀長を中心に
諸将が集い、九州攻略の要を議していた。
列座する中には、黒田官兵衛孝高の姿もある。
机上には地図が広げられ
日向・肥後・薩摩の山河が朱と墨で塗り分けられていた。
「――島津はなお山中に兵を潜ませております」
官兵衛の声は低く、しかしよどみがない。
「正面より押せば、兵は減りましょう。
されど、地の理を知る者を得られれば、血を流さずして道は開けます」
秀長は黙して地図を見つめていた。
戦の巧拙ではなく、戦後を見据える眼である。
その時、官兵衛が一歩進み出た。
「中務大輔殿。一人、お呼び立てしたき者がおります」
秀長は顔を上げ、静かにうなずいた。
「……誰だ」
「日向国の、伊東祐兵にございます」
座中に、わずかなざわめきが走る。
伊東――かつて日向を治め、島津に逐われた一族。
その名は、諸将の耳にも残っていた。
秀長はしばし考え、やがて言った。
「呼べ」
ほどなくして陣幕が上がり、一人の武将が姿を現した。
面差しには疲労の色が濃い。
しかし、背筋は崩れていない。
伊東祐兵である。
祐兵は深く膝を折り、頭を垂れた。
「……伊東祐兵、御前に罷り越しました」
官兵衛が傍らに立ち、秀長に向かって言う。
「この者、日向の山川・城砦・旧道に至るまで、知り尽くしております。
九州征伐において、案内役として既に軍に随行させておりますが――
本日は、あらためてご意見を賜りたく存じます」
秀長は祐兵を見据えた。
「申せ。
この日向、いかに進むが最も損が少ない」
祐兵は一礼し、地図の前へ進み出た。
指先は震えていない。
「……島津は、野戦よりも退き際に強き一族にございます。
山に入らせれば、追うほどに損を出しましょう」
そう言って、日向の山間を指す。
「されど、城と城の間――
水と糧の通り道を断てば、兵は戦わずして退きます」
官兵衛が小さくうなずいた。
「清武郷より宮崎津に至る要路を押さえれば
島津は日向に兵を留め置くこと叶わぬかと」
秀長は腕を組み、しばし沈黙した。
「……なるほど」
それは感嘆ではなく、確認の声であった。
「伊東。そなた、旧主としての怨みを語らぬな」
祐兵は静かに答えた。
「怨みは、戦を誤らせます。
今はただ、豊臣の御為、道を示すのみ」
その言葉に、官兵衛は目を細めた。
秀長はゆっくりと立ち上がり、祐兵に言った。
「案内役の務め、引き続き果たせ。
戦が終われば――その時、しかるべき裁きが下ろう」
それ以上の言葉はなかった。
だが、その一言で十分であった。
祐兵は深く頭を下げ、陣を辞した。
官兵衛は秀長の傍らで、低く言う。
「……あの男、使えます」
秀長は答えず、再び地図へ視線を落とした。
日向の山々の先に、戦の終わりと、その後の国割りが見えていた。
祐兵が陣幕を出た後も
しばらくのあいだ、羽林の陣には沈黙が流れていた。
地図の上に落ちる灯明の揺らぎだけが、時を刻んでいる。
やがて秀長は、ふっと息を吐いた。
「……日向という国は、扱いを誤れば血を呼ぶ」
官兵衛は静かに応じる。
「はい。されど、あの者は『負けた国主』の眼を持っております。
勝ちを語らず、損を語る――
戦を終わらせる者の目でございます」
秀長はわずかに口角を上げた。
「そなたは、あの伊東を買っておるな」
「買っております。
そして――用いねば、後悔いたしましょう」
秀長はそれ以上問わなかった。
戦場において
人を信じる理由を語りすぎるのは
かえって愚だからである。
その夜
祐兵は与えられた陣小屋で独り、灯を落とした。
かつて日向を治めた男は
今や他家の陣中にあって、道を説く身である。
屈辱がなかったと言えば、嘘になる。
だが、それ以上に――
(生きて、次へ渡る)
その思いが、胸の奥で静かに燃えていた。
この戦が終われば、島津は退く。
その後、誰が日向を治めるのか。
それを決めるのは
もはや刀ではなく、信と実である。
祐兵は、己が置かれた立場をよく知っていた。
勝者の列にはいない。
だが、敗者として切り捨てられるには、まだ早い。
夜半、遠くで太鼓が鳴った。
進軍の合図ではない。
陣替えの知らせである。
戦は、確実に終わりへ向かっていた。
そしてその静かなうねりの中に
伊東祐兵という名は
小さく、しかし確かに織り込まれていたのであった。
この事、記録に残る言葉はない。
だが、九州征伐という大事業の裏側で
羽柴秀長と伊東祐兵は
確かに同じ陣中にあり、同じ地図を前に
同じ戦の行方を見据えていたのである。
それが後に
伊東家再興への道を開く、静かな一歩であったか否か――
それを語る史料は、今も多くを語らぬ。
ただ、歴史はその後を知っている。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』が面白かったので外伝を書いてみました!
続きも面白かったので加筆致しました!




