第八十五話 島津豊久、捨て奸
時は遡り、慶長五年九月十五日
――関ヶ原の地に濃霧が立ちこめていた。
島津豊久は伯父・島津義弘の側に馬を並べ
「いざ、参らん」と短く言った。
戦鼓が鳴り、鉄砲の火花が夜明けを裂く。
西軍は乱れ、味方の旗が次々と倒れていく。
豊久は必死に義弘の隊をまとめ上げ、敵陣を突破するが
その最中、義弘の姿を見失った。
「伯父上! どこにおわす!」
声を枯らし、血煙の中を駆ける。
その胸に浮かんだのは――伊東祐兵の顔だった。
「……祐兵殿、今はいずこに」
戦場の叫びの中、豊久の瞳には悲しみが滲んでいた。
ようやく義弘のもとへ辿り着いた豊久は
血と土に塗れながら息を荒げた。
「伯父上、ご無事か?」
義弘は深く頷いた。
「少々、体がもつれたが、大丈夫だ」
豊久は義弘をまっすぐと見据えた。
「伯父上、ひとつ聞きたき事が。……祐兵殿は、いかに?」
義弘は短く息をつき答えた。
「伊東は……東軍に与した」
その言葉に、豊久は愕然とし、次いで血を吐くように叫んだ。
「祐兵殿が……東へ!?」
目に涙を浮かべ、天を仰いで吠える。
「なぜだ……なぜ義を違える!」
しかし、戦場にいることを思い出し、すぐにその怒りを飲み込んだ。
「いや、祐兵殿も己の義を貫いたのだろう……ならば、我らも我らの義を尽くすまで!」
と、唇を噛んだ。
義弘はその姿に深く頷き、
「豊久……お前こそ真の武士よ」
と、わずかに微笑んだ。
やがて戦況は東軍の優勢に傾き、島津隊は四方を囲まれた。
退路を断たれ、義弘は刀を抜いた。
「ここまでか……この場で果てるのみ」
その刹那、豊久が馬を寄せ、声を張り上げた。
「伯父上、まだ死んではなりませぬ!
これからの島津家は、伯父上の命に懸かっております!」
「豊久……」
「拙者はここで敵を押し留めます。
伯父上は兵を率い、薩摩へお帰りくだされ!」
義弘は沈黙し、拳を震わせた。
豊久は微笑み、最後に言った。
「祐兵殿には――わしは地獄で待つ。その時は説教してやる、と伝えてくだされ」
義弘は嗚咽を漏らし、馬首を返した。
そして、島津の退き口が始まった。
豊久は十三騎の手勢を率い、敵中へと突入した。
「薩摩隼人、我に続けい!」
銃声、怒号、血飛沫――地獄が開いた。
井伊直政の騎兵が迫ると、豊久は叫んだ。
「撃てぇっ!」
一斉射撃ののち、鉄砲が轟き、直政は馬から転げ落ちた。
「島津 中務大輔 豊久、参る!」
刃を抜き、敵陣へと斬り込む。
十数人を斬り伏せ、鮮血にまみれた身体でなお前へと進んだ。
やがて馬は倒れ、豊久は地に膝をついた。
「伯父上……お逃げ下され……」
そのまま天を仰ぎ、微笑んだ。
――天運、尽きたり。
関ヶ原の風が止み、豊久の命は静かに燃え尽きた。
義弘が無事に薩摩へ帰還できたのは、
この一命の捨て奸にあった。




