第九話 京女と父の狂熱
元亀二年(1571年)初春──。
飫肥城の奥御殿に、静かな緊張が漂っていた。
伊東祐兵は、父・伊東義祐の急進的な政策が日々加速していることに、かすかな違和感を覚えていた。
「京を真似た町並み、絢爛なる能楽……まるで夢を見ているようです」
そう呟いたのは、側近の伊東祐安だった。
「夢というより、幻に近いな」
伊東祐信が苦笑混じりに応じる。
祐兵は黙って頷いた。
春のある日、義祐は城の中庭にて、とある女を伴っていた。
「これなるは、ナミ。近衛家ゆかりの女であり、我が見識を深める手助けとなる人物じゃ」
その女は、白磁のような肌に深紅の小袖をまとい、透き通るような声で挨拶をした。
「お初にお目にかかります、祐兵様」
祐兵は一礼を返すも、その目の奥に微かな不信を灯していた。
「父上があれほどまでに心酔されるとは……」
ナミはまるで、義祐の野望に油を注ぐ風のようであった。
◇
数日後、阿虎が伊東祐兵の元を訪れた。眉間に皺を寄せ、切迫した面持ちだった。
「祐兵様……あのナミという方、何かが変です。義祐様が急にあれほどの野望を語り始めたのも、彼女が現れてから……」
「阿虎、お前もそう感じていたか」
祐兵の眼差しが鋭くなる。
「幼い頃、父上のそばにはああした人物はいなかった。……昔の父上とは、まるで違う」
阿虎は頷き、小声で囁いた。
「侍女の一人が、ナミ様が夜な夜な密書を記しているのを見たと申しました。手紙の封には──島津家の文があったと」
その言葉に、祐兵の背筋がぞくりとした。
「間者……か。島津がここまで手を伸ばしていたとは」
◇
祐兵はすぐに祐安・祐信に事を告げ、内密に動き始めた。
「この女、尋常ではない。動きが洗練されすぎておる」
「調べさせよう。かの島津に繋がる間者である証拠を」
やがて、内通の証が浮かび上がった。
ナミはやはり、島津義久に仕える密偵であったのだ。
義祐のそばに仕え、国政の混乱を誘い、内部から伊東家を揺さぶる。
祐兵は激しい動悸を抑えながら、父に真実を告げに向かった。
「父上、あの女は……島津の間者でございます」
義祐の目が冷たく光った。
「何を申す。あれは我が信頼する者じゃ」
「証もあります。言葉を尽くす前に、まず事実をご覧いただきたく」
しかし、義祐は頑として聞き入れなかった。
「それが真実であろうと、わしは彼女の言葉で目が覚めたのだ。この日向に、かつての京の栄華を再び築けると」
「……ならば、このまま、日向を炎に焼かせますか」
祐兵の言葉に、義祐は眉をひそめた。
「そなたは、わしに叛くのか」
「いえ、守りたいのです。父上を、伊東家を、そしてこの国を」
静かな沈黙が流れた。
ナミはその晩、城を離れた。
誰の目にも、不自然な退去だった。
しかし、それが意味するのは──
すでに島津の次なる一手が打たれているということであった。
元亀二年夏。
義祐はついに木崎原へ兵を進めた。
「真幸院の地を制し、日向の中枢とする」
祐兵は沈んだ目で戦装束に身を包む。
「勝つには勝つ。ただし、失うものは大きいでしょう」
落合兼置が小さく呻くように言った。
「民も、兵も、限界じゃ。いま戦を仕掛ければ、守りは脆くなりまする」
それでも、義祐は進んだ。
「行け。我らが理想の都へ」
木崎原の野に、風が吹く。
田に実る稲穂がなびき、しかしその上を、黒々とした軍勢の影が覆った。
その中央に、伊東祐兵の姿があった。
目を閉じ、心中でつぶやく。
──兄上。阿虎。父上。
──わたしは、道を選ぶ。
その先が、どれほどの血を呼ぼうとも。