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第八十二話 東軍への密命

慶長五年の秋――


関ヶ原の戦雲が、西より静かに近づいていた。


大坂・伊東邸。


病に伏す伊東祐兵(いとう すけたか)は、床に臥したまま地図を広げていた。


「……この身、もう戦場には立てぬ。だが、伊東の旗を消すことはならぬ」


家臣の稲津重政(いなづ しげまさ)が、低く頭を垂れていた。


「殿、黒田如水(くろだ じょすい)殿より密書にて東軍への策が届いております」


祐兵(すけたか)は小さく頷き、かすれた声で命じた。


「重政、嫡子・祐慶(すけのり)を伴い、飫肥に戻れ。黒田殿と呼応し、必ず東軍として旗を立てよ」


重政は深く息を吸い込み、主の瞳を見つめた。


「この稲津、命に代えても御意を果たします」


その夜、祐兵(すけたか)は咳き込みながら筆を取った。


「伊東の血を絶やすな……祐慶(すけのり)を、必ず生かせ」


病床に灯る灯は、まるで命の炎のように儚く揺れていた。




一方、九州では黒田如水の軍勢が富来城(とみくじょう)を攻めていた。


稲津重政の使者が如水の陣を訪れると


老将は微笑を浮かべて言った。


祐兵(すけたか)殿はまだ死なんよ。智をもって国を護しておられる。

――飫肥の兵は早う敵城を討ち、証を立てられよ。それこそが正義の証しじゃ」


その頃、大坂では密命を帯びた稲津(いなづ)九郎兵衛(くろべえ)重房(しげふさ)


主君の嫡子・祐慶(すけのり)を連れ出す準備を進めていた。


祐慶(すけのり)、わずか十一歳。


だがその瞳には、父譲りの静かな炎が宿っていた。


「父上は……もう戦に出られぬのか」


「……殿は病の身ながら、国を守るために策を巡らせておられる」


九郎兵衛はその小さな肩に手を置いた。


「若殿、飫肥へ――戻らねばならぬ。ここからが真の戦だ」


二人を乗せた小舟は、夜霧の中を静かに漕ぎ出した。




夜風を切り裂くように、船は瀬戸内を下る。


追手の目を逃れるため


九郎兵衛は経路を変え、紫波洲崎(しばすざき)(みなと)に上陸した。


「ここならば、島津の間者にも気づかれまい」


彼は息を殺しながら、祐慶を抱えて浜に降り立った。


その顔には疲労よりも、使命を果たす覚悟の色が濃かった。


「若殿、この地が再び我らの旗を掲げる城下となるように……祈るのだ」


飫肥に戻った重政は、黒田方の軍使・宮川(みやがわ)伴左衛門(ばんざえもん)を迎えた。


二人は夜を徹して作戦を練る。


「東軍への忠節を示すには、まず敵の牙を折ること」


「……宮崎城を攻め落とす、か」


宮崎城は西軍・高橋元種(たかはし もとたね)の居城。


その城を落とせば、伊東家の立場は明らかとなる。


祐兵の病床から放たれた一手は


静かに九州の地を揺らし始めていた。




飫肥の夜――


稲津重政は天を仰ぎ、静かに言葉を漏らした。


「殿、今こそ伊東の誇りを示す時にございます」


兵たちは鎧を締め、松明の火が一斉に揺れた。


若き祐慶(すけのり)はその光を見つめ、父の言葉を思い出す。


「この飫肥を守るは、剣にあらず、志ぞ」


一方、大坂では、病の祐兵(すけたか)が遠くを見つめていた。


「重政よ……祐慶(すけのり)よ……そなたらの行く道が、伊東の道ぞ」


その手に握られたのは、黒田如水から贈られた数珠。


静かな祈りが、夜風に溶けていった。


やがて、飫肥城下では軍鼓が鳴り響く。


宮崎城への進軍


――それは、伊東の命を継ぐ、若き世代の初陣だった。


そして九州の空の下、


祐兵(すけたか)の想いは祐慶(すけのり)


祐慶(すけのり)の志は未来へと受け継がれていく――

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