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第七十九話 兄弟の契り

慶長五年の夏


大坂の町は戦の気配に包まれていた。


豊臣政権の揺らぎは隠せず


各大名へ頻繁に出陣の命が下されていた。


大阪にある飫肥伊東家の館にも軍勢催促が繰り返し届いたが


主君・伊東祐兵いとう すけたけは七月十四日より病に臥せっていた。


風毒の病――脚気であった。脚は腫れ、力は入らず、寝台から起き上がることも難しい。


「殿、無理をなされますな」


阿虎おとらの方が薬湯を差し出し


祐兵(すけたか)は苦笑して杯を受け取った。


しかし、大坂方はこれを「仮病」と疑い


「伊東家は関東勢に与しているのでは」との噂が流布した。


大阪の義弘の館には高橋元種、秋月種長


そして島津豊久が集い、密談が始まった。


「いっそ館に討ち入り、刺し殺すべきやもしれぬ」


冷ややかな声に場は重苦しく沈んだ。




その時、豊久が声を発した。


祐兵(すけたか)公は、我が親友にございます。まずは直に様子を確かめてまいりましょう。もし病が偽りならば、我が手でここに引き立てましょう」


三候は黙して頷き、豊久は伊東邸へ急いだ。


病床に横たわる祐兵(すけたか)を目にした瞬間、豊久は胸を突かれた。


痩せ細り、面に死相が漂う祐兵(すけたか)の姿に


思わず涙がこぼれ落ちる。


「祐兵殿……なんと無残なお姿に」


祐兵(すけたか)は咳をこらえながら微笑んだ。


「豊久……か。戦場で共に駆けた友よ、そなたに今こうして会えること、何より嬉しい」


かつての記憶を分かち合い、二人はしばし病も忘れて語り合った。


しかし豊久の瞳は揺らぎ


「今生の別れ」との思いが胸を刺していた。




やがて豊久は、真顔で切り出した。


「祐兵殿、我らの友情を、この世限りでは終わらせたくはない。子々孫々に至るまで、兄弟の契りを結びたい。いかがか」


祐兵(すけたか)は涙を流しながら、震える手で息子を呼んだ。


「祐慶……そなたも来なさい」


十二歳の祐慶が膝をつく。


祐兵(すけたか)は丁子土器を打ち、アワビを供え、式礼を整えた。


「豊久、この子は未だ幼い。もし世が乱れたときは……どうか、この子を頼む」


豊久は懐から誓詞を取り出し、差し出した。


「では、ここに血判を。互いに子孫まで兄弟の契りを違えぬと」


祐兵(すけたか)は微笑み、「異議には及ばぬ」と言い


筆を執って署名し、指を切り血判を押した。


二人は深く見つめ合い、涙を流しながら盃を交わした。




豊久は静かに立ち上がり、深く一礼した。


祐兵(すけたか)殿……いや、我が兄弟よ。これが今生の別れかもしれませぬ」


祐兵(すけたか)は苦しい息の中で笑みを浮かべ


「豊久、世は乱れようとも、この誓いは永遠に消えぬ。子らよ、見届けよ」


そう言い、祐慶を抱き寄せた。


豊久は涙を拭い、伊東邸を後にして島津義弘の館へと向かった。


集まっていた三候に対し、豊久は毅然と告げる。


「祐兵殿に二心はなし。すでに病は重く、顔に死相さえ見ゆる。討つなど、無益のこと」


その言葉に高橋、秋月も深く頷き、やがて涙を落とした。


「ならば、伊東は疑うに及ばぬ」


こうして祐兵への疑念は解かれ、伊東家は滅びを免れた。


だがその裏に


二人の武士が交わした「兄弟の契り」があったことを知る者は少なかった。

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