第七十八話 兆す影
慶長の世も移ろいを見せ
飫肥の城下にはかつての戦乱の影が薄れ
ようやく安堵の空気が満ちていた。
伊東祐兵は、阿虎の方と共に
天正十七年に生まれた嫡子・熊太郎に「祐慶」の名を与えた。
その名には、再興を果たした伊東家が末永く栄えんことを願う祈りが込められていた。
城中では若き祐慶の笑い声が響き
家臣らの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
伊東与兵衛、平賀喜左衛門ら新参の士も日々精を出し
祐慶の遊び相手となることを喜んだ。
「殿に世継ぎがおわすこと、まことに目出度きこと」
河崎祐長がそう祝うと
祐兵は頷き、穏やかな笑みを返した。
しかし、その微笑みの奥には
言葉にはできぬ影が潜んでいた。
飫肥の地を巡る祐兵の眼差しは
かつての荒廃を知る者にとって感慨深いものだった。
城の修復も進み、町並みには活気が戻り
農も漁も人々の営みを取り戻しつつある。
祐兵は阿虎の方や家臣らと共に
その姿を見守る日々を過ごした。
幼き祐慶は庭で木刀を振るい、義勇を示そうとする。
「父上、いつか我も戦場に立ちましょうぞ!」
無邪気な声に、祐兵は胸を震わせながら答えた。
「よいか、祐慶。戦は願うものにあらず。守るべきもののために、やむを得ず立つのだ」
その傍らで、与兵衛と喜左衛門は互いに木刀を打ち合い、稽古に励む。
「いずれ殿の御子をお守りする身、怠るわけには参らぬ」
家中に新たな絆が芽生え、未来は明るいかに見えた。
しかし、その頃より
祐兵の身体にわずかな異変が現れ始めていた。
夏の暑さが過ぎても祐兵の疲労は抜けず
夜更けに咳き込む声が寝所から漏れるようになった。
「殿、どうか御身をお大事に」
阿虎の方が薬湯を差し出すが、祐兵は静かに笑って受け取る。
「案ずるな、阿虎。少々、歳を重ねただけのことよ」
だが、河崎祐長や稲津重政ら重臣たちは
その様子に胸騒ぎを覚えていた。
「殿は我らが思う以上に……」
言葉を濁す祐長に、重政は拳を握りしめた。
祐兵は城下に降り、民の暮らしを視察することを怠らなかったが
その背中はかつてより細く、歩みもゆるやかになっていた。
幼き祐慶が父の手を引きながら歩く姿に、家臣らは複雑な思いを抱く。
「殿……どうか、いつまでも我らと共に」
誰もがそう願わずにはいられなかった。
ある夕暮れ、祐兵は飫肥城の天守から西の空を見つめていた。
朱に染まる大地は、戦火を越えてよみがえった故郷そのものであった。
阿虎の方が隣に立ち、そっと祐慶の肩に手を置き、祐兵が呟いた。
「祐慶、この飫肥を守るのだぞ。民の声を聞き、弱き者を支えよ。それが伊東の務めだ」
「はい、父上」
幼き声が澄んだ空気に響いた。
与兵衛、喜左衛門、そして重政ら家臣はその光景を胸に刻んだ。
彼らにとって祐兵の姿は、すでに伝説となりつつあった。
しかし、病の兆候は日に日に強まり
家中には重苦しい気配が広がり始める。
祐兵はなおも己の弱りを隠そうと努めていたが
誰もが近い未来に訪れる運命を予感していた。
それでも、飫肥には再興の灯が確かに燃えていた。
祐兵が命を削ってともした炎は
次代へと受け継がれようとしていたのである。




