外伝 三部快永~飫肥の地にて~
天正十六年——伊東祐兵は
旧領飫肥への帰還を果たした。
焼け落ちた城下にはなお戦火の痕が残り、人々の心もまた荒廃していた。
祐兵は、この地に再び秩序と信仰を取り戻すことこそ
伊東再興の礎になると悟っていた。
そこで白羽の矢を立てたのが
かつて河崎祐長の庇護を受け
幾度となく再興の祈祷を捧げた修験者・三部快永である。
「飫肥に寺を開き、人々の心を束ねてほしい」
祐兵は懇願し、快永は静かにうなずいた。
その眼差しには、主家を支え続けた年月の重みと
己の使命を見据える揺るぎなき決意が宿っていた。
祐兵は飫肥城下に地を与え、快永を招いて祐光寺を開山させた。
寺領百石を下付し、のちに七十五石へと改められたとはいえ
伊東家の信仰と威信を担うに足る厚遇であった。
開山の日、祐兵は家臣や領民を従え、祐光寺の山門に立つ。
快永は修験の法衣に身を包み、金剛蔵王の名を唱えながら祈祷を行った。
燃えさかる護摩の炎に照らされ
領民たちは胸の奥に残る不安を祓うかのように手を合わせる。
「伊東の世は甦る」
その場にいた者たちは、誰もがそう信じた。
祐兵にとってそれは、刀によらず心を結ぶ新たな戦いの始まりであり
快永こそがその導き手であった。
しかし、運命はあまりにも儚かった。
文禄元年、朝鮮の地では豊臣政権が揺れ動き
国内も不穏を孕む中、快永は病に伏す。
祐兵は文禄の役の支度で忙しかったが
何度も見舞いに行った。
「殿、寺は人の拠り所。御家が続く限り、飫肥は安らぎの地となりましょう」
その言葉に祐兵は深く頭を垂れた。
やがて七月十四日、快永は静かに息を引き取る。
墓碑には「金剛蔵王 台蔵権現 正大先達三部法印快永」と刻まれた。
わずか四年の在位。だがその短き生涯は
伊東家再興の歴史に確かな光を投げかけていた。
祐兵は朝鮮の地で文にてこの報を知り
涙をこらえ、呟いた。
「快永の志を我らが継ぐのだ」
快永亡き後、その役目を引き継いだのは祐光寺別当・深歳氏であった。
彼は飫肥修験三百二十人の頂点として代々その職を務め
飫肥の信仰と修験の道を守り続けた。
祐光寺の庭には、飫肥石の岩盤を背に石橋が渡され、立石が配される。
人々はその景観に快永の祈りを思い起こし
伊東家の栄枯盛衰を重ね見た。
文禄・慶長の役から戻ってきた祐兵はその姿を見やりながら
快永の遺徳が城下に生き続けることを感じていた。
剣で築いたものはやがて朽ちる。
だが祈りと信仰が織りなす絆は、人の心に生き永らえる。
快永の生涯は、祐兵にその真理を教え
飫肥の大地に永遠の種を残したのであった。




