第七十二話 慶長
文禄五年、九月一日――
伊予の大地が突如として唸りを上げた。
山々は揺れ、薬師寺の堂宇は崩れ
鶴岡八幡宮の社殿も倒壊した。
「なんと……天地が裂けるようだ!」
都よりの報に接した伊東祐兵は
胸の奥に冷たい不安を覚えた。
だがそれは序章にすぎなかった。
三日後、豊後の地に更なる震動が走る。
大地は裂け、海鳴りが起こり
津波が島々を呑み込んだ。
「瓜生島が、海に沈んだと……?」
河崎祐長が蒼ざめて告げると
祐兵は天を仰いだ。
そして翌日の深夜。
京を中心に未曽有の地震が襲い
伏見城の天守が崩れ落ち、京の大仏が破壊された。
「これほどの連続地震……天が何を告げておられるのか」
家臣たちはざわめき
祐兵はただ沈黙の中に立ち尽くした。
地震の余震は翌年春まで続き
民の心には「末世の兆しか」との不安が広がった。
その混乱の中で朝廷は改元を決し、年号は「慶長」と改まった。
「戦も地震も、民を苦しめるばかりだ……」
祐兵はそう嘆いたが
時代の流れは容赦なく彼を戦場へと駆り立てる。
慶長二年、二月二十一日
秀吉は諸将に朱印状を下し
新たな朝鮮出兵――『慶長の役』を命じた。
「全羅道を悉く平らげ、忠清道までも進むべし。その後は倭城を築き、在番を定めよ」
その文面を読み上げる黒田官兵衛に
諸将は互いに目を見交わした。
「また、海を渡るのか……」
「もはや退く道は無い」
祐兵もまた、再び軍装を整え始めた。
心の奥に響くのは
地震の地鳴りと共に
『天の怒りは人の奢りにある』との予感であった。
慶長二年、夏。
九州・四国・中国の大名ら十四万を超える軍勢が
次々と対馬海峡を渡っていった。
伊東祐兵は三番隊の一員として
五百の兵を率い、再び海へ挑む。
「殿、我らもついに再出陣でございますな」
稲津重政が声を弾ませると、祐兵は静かに頷いた。
「重政、今度こそ心して参れ。戦は獣狩りではない」
その横で、島津豊久が笑みを浮かべた。
「伊東殿、我が手勢は八百。共に道を開こうぞ」
「うむ。日向の名を、再びこの異国の地に刻もう」
船団は大波を裂きながら釜山浦へと進む。
しかし兵たちの心中には、あの大地震の記憶が拭えなかった。
「大地が裂けたのに、今度は海を渡るのか……」
「もしやこれは、天が我らを試しておられるのやもしれぬ」
釜山浦に上陸した兵たちを待っていたのは
荒廃した村々と疲弊した民の姿であった。
祐兵はその光景を見つめ、豊久に呟いた。
「勝ち続けても、この地に笑顔は戻らぬ……」
「されど、我らは生きて戻るため戦うしかない」
豊久の言葉は鋭くも、どこか悲哀を帯びていた。
朱印状に記された作戦は明確だった。
全羅道を平らげ、忠清道をも制圧し
その後は倭城を築いて守る――。
祐兵は心の奥で、地鳴りの記憶を思い返す。
「地も海も、いつ牙を剥くか分からぬ。されど人は進むしかないのか……」
夜風の中、松明が揺れ、兵の影が長く伸びる。
やがて太鼓の音が轟き、慶長の役の幕が切って落とされた。
祐兵と豊久の歩む先には
なお終わりの見えぬ戦の道が広がっていた。




