外伝:戦場の守り神 ヤス
戦場において時を計るは、命を繋ぐ術であった。
島津義弘は、猫の瞳の変化をもって刻を知るべく
朝鮮出兵にて七匹の猫を従軍させた。
幾度もの合戦を経て、生還したのはわずか二匹。
そのうちの一匹が、義弘の子・久保に引き取られ
「ヤス」と名付けられた猫であった。
白い毛並みに黄色の波紋を纏い
愛嬌あるその姿は、荒々しい兵の陣にも不思議と安らぎを与えた。
「ほれ、ヤス。今宵もよく食え」
久保が兵糧の干し魚を差し出すと
ヤスは小さく鳴き、前足で器用に掻き寄せて食べる。
その様子を、伊東義賢と祐勝の兄弟も目を細めて見守った。
「戦場に、かように和むものがあろうか」
義賢の言葉に、祐勝が笑みを浮かべた。
「この猫こそ、我らの守り神やもしれませぬな」
ある日、陣中で義賢が帳面に記録をつけていた。
そこへヤスが歩み寄り、尻尾で墨壺を倒してしまった。
「おいおい! 書き付けが台無しだ!」
義賢は眉をひそめたが、祐勝は腹を抱えて笑った。
「兄上、猫相手に何をそんなに怒りますな」
久保もまた笑みを浮かべ、ヤスを抱き上げる。
「ヤスに罪はなし。戦場の墨書など、いずれ血潮に塗れる。だが、この猫は生きねばならぬ」
その言葉に、義賢も苦笑を漏らした。
「……確かに。命を繋ぐことの方が大事よな」
ヤスは三人の顔を見回し、喉を鳴らした。
兵の鬨の声よりも、その小さな音が心に響き、皆の胸を温めた。
やがて夕刻、陣外に敵襲の報が走った。
兵が慌ただしく槍を取る中、ヤスが不意に幕の外へ飛び出した。
「ヤス!」
久保が叫び、義賢と祐勝も駆け出す。
月明かりの下、ヤスは草むらに身を潜め
敵の斥候に鋭い視線を向けていた。
「まさか……猫が敵を先に気取ったか」
祐勝の声に義賢も頷く。
確かに、その直後、闇の中から数人の敵兵が忍び寄ってきた。
「よし、ここで迎え撃つぞ!」
久保の号令とともに、兄弟は刃を抜いた。
短い交戦の末、敵は斬り伏せられた。
ヤスは再び久保の足元に戻り
何事もなかったかのように鳴いた。
「ふふ……ただの猫ではないな」
義賢は感嘆し、祐勝も胸を張った。
「やはり、我らの守り神よ」
戦の嵐の只中で、猫一匹が与える安らぎは計り知れなかった。
その夜、焚き火を囲み、久保が言った。
「義賢殿、祐勝殿。人の命は儚いが、こうして小さき者に守られることもある。ヤスは、我らが日向の絆の象徴かもしれぬな」
義賢は杯を掲げる。
「ならば、この杯はヤスに捧ぐ。戦場に生き残った奇跡の猫に」
「同じく!」と祐勝が応じると
ヤスは鼻をひくつかせ、兵たちの笑いを誘った。
篝火の影の中で、ヤスの瞳は丸く光っていた。
暗闇を射抜くその光こそ、時を告げるだけでなく
若き武将たちの未来を照らすものに見えた。
――戦乱の世に、確かに存在した小さな命。
それは剣や槍にはない、静かな力を持っていたのである。




