第六十三話 漢城にて
文禄元年五月中旬。
漢城はすでに日本軍の本営として整えられ
各隊の陣営が割り振られていた。
祐兵と豊久ら四番隊もまた、城北の一角に宿営を構えた。
だが華やかな勝利の影には、思いのほか深い混乱があった。
市中には未だ焼け跡が残り、民は怯えながらも生活を取り戻そうとする。
米や薪は不足し、兵と民との間で小さな争いが絶えなかった。
祐兵は家臣らに命じて市場の秩序を守らせ、兵の振る舞いを厳しく戒めた。
「ここで刃を振るえば、我らは賊と変わらぬ。武士の誇りは民を害さぬところにある」
豊久はその姿を目に焼き付け、若き胸に刻んだ。
「勝つばかりが戦ではないのだな……」
やがて黒田官兵衛が視察に訪れ、祐兵の采配に目を細めた。
「祐兵殿、よくぞ市の騒ぎを鎮められた。兵站は血の通う道なり、ここを軽んじれば大軍といえど崩れよう」
祐兵は謙虚に頭を下げた。
「拙者にできるは僅かばかり。だが日向の名を辱めぬため、務めを果たすのみです」
その傍らで豊久が進み出て、官兵衛に声をかける。
「伯父義弘不在の折、我ら島津も伊東殿と共に尽力いたしまする。どうかお任せくだされ」
官兵衛は笑みを浮かべた。
「うむ、若武者の気迫や良し。されど焦るでない、豊久殿。今は心を治め、民の声を聞くこともまた武功の一つぞ」
豊久は頷き、祐兵に視線を向けた。
「伊東殿……やはり、そなたの歩む道から学ぶことが多い」
日が経つにつれ、漢城には再び人々の往来が戻ってきた。
市では米や塩が並び、壊れた家屋を直す職人たちの声が響く。
しかし、その陰で盗賊まがいの輩も紛れ込み
夜陰に紛れて物資を奪うこともあった。
ある夜、祐兵の陣に報せが届いた。
「賊が米倉を荒らしております!」
祐兵は即座に兵を差し向け、豊久も共に駆けた。
捕らえたのは憔悴した民で
飢えに耐えかねた末の行いであった。
家臣が斬ろうとした刹那、祐兵は制した。
「刀を納めよ。これは敵兵ではない」
豊久がその民に握り飯を手渡すと
男は涙を流して地に伏した。
豊久はその時、祐兵を見て呟いた。
「我らが背負う戦は、剣だけで成すものにあらず……」
豊久は、伊東の当主の背に『戦国を超える眼』を見た。
こうして漢城での日々、祐兵は武よりも治の大切さを身をもって示した。
兵を律し、民を守り、戦の荒廃に秩序を与えることこそが
大軍を支える礎だと知ったのである。
豊久は夜更けに祐兵のもとを訪れ、素直な思いを告げた。
「伊東殿、拙者はまだ血気に逸る若武者にすぎませぬ。だが、この地で殿のお姿を見て、真の武士の道を学んだ気がいたします」
祐兵は微笑み、若き同郷の将の肩を軽く叩いた。
「豊久殿、戦場に剣を振るうはたやすい。されど人の心を得るは難し。共に歩もうぞ、日向の武士として」
夜空には異国の月が浮かび、二人の影を静かに照らしていた。
祐兵と豊久の絆は、この漢城においてより強く結ばれ
やがて来る大いなる試練に備える力となっていった。




