第六十二話 漢城陥落
文禄元年、四月一二日
日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は
700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後に釜山に上陸した。
絶影島にいた釜山僉使鄭撥は偶然この船団に出くわして慌てて城に戻った。
義智は「仮途入明」を求めるという内容の書を投じて
※「仮途入明」とは秀吉が朝鮮に対し、明(当時の中国)へ攻め入るための朝鮮へ道案内と通行を求めた要求
念のために服従の意思を再度確認したが、無視された。
ここに文禄・慶長の役の火蓋が切られたのであった。
文禄元年五月二日
朝鮮の首都・漢城府は、開戦からわずか二十一日で陥落した。
漢城府の指揮官は日本軍の数を一望して戦意喪失し逃亡。
指揮官が居なくなった軍は崩壊した。
このため漢城府の守備兵はいなくなった。
東大門は堅く閉ざされていたが
小西行長らは城壁にあった小さな水門を突き破り、城内に侵入する。
やがて内側から門を開き、数万の兵が一斉に雪崩れ込んだ。
南大門からは加藤清正が突入し、わずか半日と経たぬうちに、王城は制圧された。
この知らせは瞬く間に各隊へと伝わり、将兵はその迅速な勝利に驚嘆した。
だが一方で、異国の地をこれほどの速さで掌握することへの不安も、胸の奥に生まれていた。
祐兵もまた、漢城陥落の報を耳にし
「この勝利の速さこそ、やがて重き災いを招くやもしれぬ」
と呟いた。
五月五日
小西行長の宿営に加藤清正が来て協議し
城外に宿営を移して、城門に木札を立て
逃亡した朝鮮都民の還住を促すことになった。
朝鮮都民はしばらくすると漢城に戻って通常の生活を始めた。
その頃、四番隊の諸将――
毛利勝信、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵
そして島津豊久らは、釜山より北上を続けていた。
彼らがようやく漢城に姿を現したのは、十日ほど後のことである。
異国の街路には、民の影が消え、虚ろな沈黙だけが広がっていた。
祐兵はその荒れ果てた光景に言葉を失い
豊久は唇を噛んだ。
「戦とは、勝ってもなお人の嘆きが残るものか」
道すがら、兵たちは朝鮮の民の冷たい視線にさらされ続けた。
勝利の余韻に酔うことなく、祐兵は若き豊久に言った。
「この都に旗を立てるのはたやすい。されど、心まで従わせるは至難の業よ」
一方で、島津義弘の姿は未だ戦列に無かった。
義弘は隊の一部を釜山に送り込んだものの、自身はなお国許に留まらざるを得なかった。
日向や薩摩の地では梅北国兼ら国人衆が蜂起し
その鎮圧に追われていたのである。
豊久は伯父の不在を案じながらも、祐兵の隣で毅然と振る舞った。
「伯父上がいなくとも、拙者が島津の名を辱めはせぬ。伊東殿、どうか見ていてくだされ」
祐兵は若き同郷の将を見つめ、心の内で応えた。
「この若武者に、日向の未来が託されるのかもしれぬ」
異国の都に到着した彼ら四番隊は
すでに勝鬨の余韻に包まれた漢城を眺めながらも
まだ見ぬ長き戦いの予兆をひしひしと感じ取っていた。
漢城陥落は、豊臣の威勢を天下に示す劇的な勝利であった。
だが祐兵の眼差しには、戦の果てに広がる闇が見えていた。
「勝利の早きは、今後、民の憎悪を募らせる。これからこそ試練が始まるのだ」
その言葉に豊久は黙しつつも、胸中に燃える闘志を隠さなかった。
「ならば、この地でこそ我らの忠義と武を示し、日向の名を刻もう」
都は落ちた。だが戦は終わらない。むしろ、これから始まるのだ。
四番隊の旗が漢城の空に翻ったその瞬間から
祐兵と豊久の戦いの日々は
さらに深い荒波へと踏み込んでいったのであった。




