外伝 島津豊久
元亀元年――
薩摩の雄・島津家久の嫡子として、ひとりの男児が誕生した。
幼名は豊寿丸。
のちに忠豊、さらに豊久と改められたその名は
のちの世にまで語り継がれることとなる。
天正十二年(1584)、沖田畷の戦い。
齢十三にして豊久は初陣を迎えた。
まだ元服もしていなかったが
父・家久はその額に手を置き
「武士の子として生まれたからには、戦場でこそ命を試せ」
と諭したという。
出陣の朝、家久は豊久の上帯を結び直し、その端を脇差で断ち切った。
「よく聞け、豊久。もし生きて帰るなら、儂がこの帯を解いてやろう。
だが討ち死にすれば、敵もこれを見て知ろう。島津に生まれし者は、命を惜しまぬものだと」
父の覚悟をそのまま背負った少年は
戦場で新納忠元の後見を得ながら敵の首級ひとつを挙げた。
沖田畷戦いが終わり
勝利して帰陣すると、家久は無言で息子の帯を解いた。
あの日の所作は、父と子の絆を刻む血判のように記憶された。
その後、肥後において元服を果たし、「豊久」と名を改めた。
やがて、日向をめぐる大戦、天正十五年の根白坂の戦いに参陣。
二万の島津軍に加わり、伯父義弘らと共に奮戦するも
黒田官兵衛や伊東祐兵ら豊臣方の猛攻に阻まれ、大敗を喫した。
その退却のさなか、豊久は敵陣で奮戦する祐兵の姿を目撃する。
「これが……日向を捨て、再び戻ってきた男の覚悟か」
若き武者の胸に、言葉にできぬ衝撃と敬意が刻まれた。
しかしその翌年、運命は急転する。
天正十五年六月五日、父・家久が急死した。
病死とも毒殺とも囁かれたが、真相は闇に包まれたまま。
主家の疑念を避けるためか、豊臣秀吉は豊久に特別な計らいを示し
所領を安堵させるよう島津義弘に命じた。
こうして、天正十六年(1588)、わずか十九歳の豊久は日向佐土原城主となり
都於郡・佐土原など九百町余の地を治めることとなった。
父を失った悲しみの中で
伯父・義弘が実子同然に彼を養育し、戦の心を伝えたという。
豊久は義弘に深い恩義を感じ、生涯その背を追い続けることとなる。
戦乱の世に鍛えられ、父と伯父義弘から戦の道を学び
武勇に秀でた美しき若武者として成長していく。
島津豊久。
その若き武者は、父譲りの激しき勇と
伯父から授けられた戦の胆力を胸に秘め、後の世に名を刻むこととなる。
日向の空を見上げながら、豊久は胸の奥で誓った。
「父祖の武を絶やさず、義弘伯父のため、そして島津のために、命を惜しまん」
伊東祐兵と島津豊久。
この二人は文禄の役で、出会うのである。




