第六十話 飫肥入城
天正十六年六月。
飫肥城を巡る緊張は、すでに一年近く続いていた。
島津家の宿老・上原尚近は城を明け渡すことなく頑なに抗い
使者殺害や奸計をもって抵抗していた。
伊東祐兵は曽井城に留まり
豊臣秀吉の裁断を背に、辛抱強く時を待っていた。
家臣たちは日ごとに募る苛立ちを隠せず、領民もまた不安に揺れている。
祐兵は静かに語り続けた。
「正統の命に従えば必ず時は来る」
その言葉は、試練に耐える家中の支えとなった。
やがて六月、ついに転機が訪れる。
薩摩の本城にいる島津義久が
尚近を呼び出し、説得に乗り出したのである。
「尚近、もはや抗う時ではない。豊臣の威勢を前にして、己が意地を貫けば家の名を汚すのみだ」
義久の言葉に尚近もついに折れ、重い沈黙の末、退去を決断した。
曽井城に報せが届くと、伊東家中はどよめき
長き膠着に終止符が打たれることを知った。
祐兵は拳を握りしめ、天を仰いだ。
「父祖の城が戻る……」
その声は抑えきれぬ熱を帯びていた。
六月下旬、伊東祐兵はついに飫肥城の門をくぐった。
城の石垣に刻まれた年月は
長い放浪と戦乱を耐え抜いた
伊東家の苦難そのもののように見えた。
家臣らは涙にむせび
領民は沿道に集まり歓喜の声をあげた。
「我らの伊東殿が帰ってこられた!」
阿虎の方もまた
祐兵の傍らで城門を見上げ、涙が静かに頬を伝った。
「殿、おめでとうございます……」
祐兵は城内を一歩一歩踏みしめるように進み、やがて天守に立った。
「ここに伊東は再び立つ。もはや流浪の家にあらず」
その声は、家中に新たな誓いを与えた。
八月、豊臣秀吉の裁断により
祐兵にはさらに宮崎郡・那珂郡の内に一七三六町の加増が下された。
旧領を越える広大な知行は、伊東家再興の確かな証であった。
河崎祐長が涙ながら言った。
「殿、ついに伊東の旗は日向に翻りましたな」
飯田祐安も声を震わせた。
「これぞ再興の実り」
祐兵は深く頷き答えた。
「皆、ありがとう。されど驕るな。我らが歩んだ道は試練に支えられた。
これからも民を忘れず、正しき道を進もう」
飫肥城に翻る伊東の旗は、流浪を終えた一族の誇りを静かに告げていた。




