第五十八話 日向の大地
天正十五年、五月。
島津義久が秀吉に降った後も
弟の義弘や歳久は抗戦を続けていた。
義弘は飯野城に籠もり、歳久は婿養子忠隣を失った悲憤からなおも槍を握った。
しかし、家中の力はすでに限界であった。
やがて義久の説得により、義弘は子・久保を人質に差し出すことを条件に降伏。
戦乱の炎はようやく収まった。
川内の泰平寺を発った秀吉本隊は
北上を続けて6月7日、筑前の筥崎に到着。
筥崎八幡宮の社前で、九州全土に及ぶ新たな国分令を高らかに発した。
国分令に先立つ5月
秀吉は弟・秀長に宛てた十一ヶ条の指示書を発し、戦後処理の方針を示していた。
その中には、大隅・日向の人質解放
長宗我部元親への大隅安堵
志賀親次の忠節への褒美
大友宗麟への裁量など、多岐にわたる条項が記されていた。
島津氏は新たに獲得した領地を没収されたが
薩摩一国は安堵され、義久には「龍伯」の号が贈られる。
一方、家久は上方に上る直前の6月5日に急死。
その嫡子豊久には日向都於郡と佐土原が安堵された。
戦後処理の渦中
秀吉は九州の新たな秩序を築くために、与力や領地の再編を急いだ。
大友宗麟には日向一国を与え、その与力として伊東祐兵を配置することを決定。
また、戸次川で子を失った長宗我部元親には大隅を与え、失地回復の慰めとした。
石田三成や伊集院忠棟らが細やかな戦後処理を進め
九州の大名・国衆らは次々と新体制へ組み込まれていった。
筥崎八幡宮での「九州仕置」の布告は
戦国の荒波を鎮め、新たな秩序を示す歴史的な瞬間であった。
この大仕置の中で、伊東祐兵に下された恩賞は大きかった。
河内国丹南郡から移封され、日向国臼杵郡・宮崎郡・清武・諸県郡
さらに肥後八代郡や米良山の一部に及ぶ、合計二千二十四町余の地が与えられたのである。
祐兵は廃れていた曽井城を修復し、ここを新たな本拠と定めた。
失地から幾年、放浪の末にようやく掴んだ再興の地。
城郭の石垣を見上げながら
祐兵は亡き父義祐を思い、胸中で静かに誓った
「伊東の旗は再び日向の地に翻る。必ずや子孫に、この城と土地を守り継がせよう」
日向の大地に、新たな光が差し始めていた。




