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第五話 初陣、飫肥を発つ

永禄十三年(1570年)初春。


飫肥おびの山々に雪が消え、土の匂いが柔らかく空気を包む季節。


城下では麦の芽が育ち、民は(くわ)を手に畑を耕し始めていた。


飫肥城の一角。


虎熊丸とらくまるは、文机に向かいながらも筆の動きが鈍っていた。


「……また書き損じた」


ため息をついた虎熊丸の傍らで、老練な男が穏やかに声をかける。


「焦りは禁物です。まつりごとも、戦も、まずは構えが肝心にございます」


教育係の河崎祐長(かわさき すけなが)であった。


かつて義祐よしすけの側近として仕え、今は若き虎熊丸に文武の理を授けている人物である。


「……祐長殿。飫肥の政務にも慣れてきたつもりでしたが、筆先ひとつに悩むとは、情けない」


「その迷いが、民を想う証。情けではなく、誇りに思うべきです」


祐長の言葉に、虎熊丸は小さく頷く。


その日、飫肥の地に一通の報せが届く。


三納(さんのう)の郷にて、国境の押さえが乱れております」


伊東祐信(いとう すけのぶ)が報告した。


日向ひゅうがの南方、島津領に接する山地にて、村人同士の小競り合いが発端となり、武装した者が現れ始めているという。


「これは……島津が背後から我らを試しているのか」


落合兼置(おちあい かねおき)が眉をひそめた。


「城主たる私が出向き、治めるべきです」


虎熊丸はすぐに立ち上がった。


「お待ちください、殿下」


祐長が静かに制した。


「争いの場へ赴くは、武士としての誉れ。しかし、まだ年若き殿下に、万が一あれば……」


「父上の名代として、出陣します」


その言葉に、一同が息を呑む。


「私はもう、ただの子ではありません。飫肥の主として、民の争いを鎮めるのは我が務め」


義祐の許しを得て、虎熊丸は数十の兵を従え、飫肥を出発した。




出立の朝。霧に包まれた城門の前で、河崎祐長がそっと近づいた。


「これより先、殿下は戦場に足を踏み入れられます。ご覚悟は」


「……あります。火祭りの夜、誓ったのです。この地を守ると。ならば、その言葉に責任を」


「ご立派にございます」


祐長が軽く頭を垂れた。


「だがご油断なきように。戦とは、時に正しき意志すら踏みにじります」


「はい」


虎熊丸は静かに頷いた。




三納の郷は、山あいの小さな集落であった。


村人たちは、伊東の兵の到来に戸惑い、恐れ、そして安堵を浮かべた。


「殿下が……ご自ら……」


虎熊丸は、争いのあった両家を呼び寄せ、真摯に耳を傾けた。


山の水利を巡って、土地の境を争っていたという。


「では、この川の流れは、季節により変わるのですか」


「はい。夏は南へ、冬は東へ」


虎熊丸は黙考し、祐長と視線を交わす。


「水は分けよう。夏は南の田を潤し、冬は東へと導く。人の争いを、自然に合わせよ」


祐長が静かに頷く。


「お見事にございます」


「……私はまだ、刀も振るっていない。ただ、言葉で人の心を繋いだにすぎません」


「それこそが、政の力にございます」




飫肥に帰還した虎熊丸は、義祐の前に静かに跪いた。


「……争いは鎮まりました。皆、頭を下げ、耕作を再開しております」


義祐は黙って、虎熊丸を見つめた。


「……そなたは、戦わずして勝ったのだな」


「いえ……わたし一人の力ではなく、祐長殿や家臣らの導きがあってこそです」


義祐はふと、懐から一本の短冊を取り出す。


「これは、十年前。そなたが生まれた年に、山の僧が書いた言葉じゃ」


虎熊丸は目を見張った。


《若木は、風にしなやかであれ。幹を太らせよ》


「そなたの幹が、少しずつ太くなっているのを感じる。……飫肥は、そなたに託せるやもしれぬな」


虎熊丸はその言葉を、胸に深く刻んだ。




夜。月の光が飫肥の城壁を照らす。


河崎祐長は、城の中庭で静かに筆を走らせていた。


記していたのは、今日の出来事、そして虎熊丸の言葉の数々。


「この子は……いずれ、伊東を導く灯火となろう」


その横顔には、老臣らしからぬ、希望の色が滲んでいた。


──こうして、虎熊丸の「初陣」は終わった。

刀を抜かぬ戦いは、彼の政への道を照らす、最初の一歩となったのであった。

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