第三十九話 三方面の乱雲
天正十一年、四月十六日。
かつては秀吉に降伏した織田信孝が、伊勢の滝川一益と結び再び兵を挙げた。
岐阜城下に進出するその姿は
織田家中に漂う不安を決定的なものとし、羽柴陣営に大きな衝撃を与えた。
秀吉は即座に対応を決断し、翌十七日、美濃へと進軍する。
しかし揖斐川が氾濫し、軍勢は思うように進めず
大垣城へ足を止めざるを得なかった。
伊勢の滝川一益
美濃の織田信孝
近江の柴田勝家と三方面へ戦線を広げた羽柴軍は
まさに膨張の極みに達し、秀吉の眉間には深い皺が刻まれる。
伊東祐兵もまた、その逼迫した空気をひしひしと肌で感じ取っていた。
一方、近江に布陣する柴田勝家は
羽柴の動きを鋭く窺っていた。
秀吉が兵を割き
大軍の多くが美濃へ向かったとの報は、彼にとって絶好の機会を意味する。
勝家は家臣を集め軍議を開いた。
若き将・佐久間盛政が進み出る。
「勝家様、いまこそ攻め時にございます」
その熱に押されるように勝家は頷いた。
四月十九日、盛政は兵を率いて大岩山砦に突撃。
守るは中川清秀。
必死の抵抗も虚しく、砦は炎に包まれ、清秀は遂に討ち死にを遂げる。
戦場に立ちこめる煙は、まるで羽柴軍の運命を暗示する黒雲のようであった。
大岩山が陥ちたのち、盛政は勢いそのままに黒田勘兵衛の陣へ殺到した。
勘兵衛は冷静に布陣を立て直し、必死に敵の攻勢を支えきる。
その奮戦はまさに軍師の面目であった。
祐兵もまた、勘兵衛の指示に従い部隊を動かし、なんとか防衛線を守り抜く。
「ここを抜かれれば、殿の命運は尽きるぞ!」
勘兵衛の一喝に兵たちは再び奮い立った。
しかし盛政の猛攻は止まず、次に狙われたのは岩崎山の高山右近。
右近は信仰の誓いを胸に奮闘したが
ついに耐え切れず木ノ本の羽柴秀長の陣へ退却することとなった。
羽柴方の苦境は、日に日に増していった。
勝家はこれらの戦果を知ると、満足げに頷きながらも冷静に命じた。
「盛政、ここで兵を退け。戦果は十分じゃ」
しかし前線の盛政は、その命に従おうとしなかった。
勝ち戦の余韻に酔い
さらに羽柴方を押し潰そうとするかのように
なおも兵を留め続けたのである。
繰り返し下される勝家の撤退命令は、虚しく戦場の風に散った。
やがてこの小さな不従順が
やがて大きな綻びへと繋がってゆくことを
この時まだ誰も知らなかった。
祐兵は血に染まった槍を握りしめ
荒れ狂う戦のただ中で深く息を吐く。
「ここからが正念場……命懸けで駆け抜けるしかない」
空には黒雲が広がり
戦の嵐はますます激しく吹き荒れようとしていた。




