第三十八話 雪解けの対峙
天正十一年
雪深き越前北ノ庄城に籠もる柴田勝家は
情勢の逼迫に耐えかね、二月末ついに出陣を決した。
旧将軍・足利義昭を庇護する毛利氏に援助を求め
織田家再建の大義を掲げて北近江へ。
矢面に立つ覚悟は揺るがない。
「このままでは織田家の威信が潰える。雪を突いてでも進む」
勝家の檄に応じ、佐久間盛政や前田利家ら三万の兵が奮い立った。
三月十二日、三万余の兵を率い近江国柳ヶ瀬に到着、布陣を完了。
雪代を踏みしだく鉄足の響きが谷を満たし
先陣は木ノ本口へ陣道を延ばす。
勝家は本陣の幕に地図を広げ、湖と山を睨み据えた。
「まずは陣城を築き、羽柴秀吉を誘い出す」
歴戦武者の気迫が、冷たい気流とともに戦場を覆い始めていた。
一方、長島城で滝川一益を包囲していた羽柴秀吉は
織田信雄・蒲生氏郷の一万余を伊勢に残し
自らは五万を率いて三月十九日、近江木ノ本に進出した。
黒田官兵衛、羽柴秀長らの列に連なり伊東祐兵も参加、陣城と砦を連結して防衛線を練り上げる。
「官兵衛、勝家は雪を突いて来た。いかに動くべきか」
秀吉が問うと黒田官兵衛は静かに答えた。
「拙速に戦えば、利を敵に与えます。まずは砦を築き、勝家を焦らすべきかと」
傍らの伊東祐兵も言葉を添える。
「殿、この機を逃さず備えを固めましょう。日向を失った身、慎重さの大切さは骨身に沁みております」
秀吉は力強く頷いた。
「うむ、儂も同じ意見よ」
沼地と旧街道を見越し、要地には土塁を築き櫓を架け、夜には柵を押し立てた。
対する柴田方も陣地構築に専念し、戦線は膠着する。
丹羽長秀が海津・敦賀に兵を進めて勝家の西進を牽制
秀吉は二十七日、兵の一部を率いて長浜城に戻り
伊勢と近江の二方面に備えるを固めた。
砦は増え、柵は延び、戦はじりじりと静かに熱を帯びた。
羽柴秀吉は木ノ本の陣にて、黒田官兵衛を呼ぶ。
「砦外の小屋を払って視界を開けよ。敵の夜襲に備える」
官兵衛は頷き、配置図に筆を走らせる。
「伊東祐兵は湖辺の連絡を掌握。渡船と兵糧の道、寸断されぬように」
祐兵は走り、風が帆と旗をはためかせた。
対岸では柴田勝家が陣幕に膝を進める。
「雪が退いた今、遅滞は許されぬ」
佐久間盛政と前田利家は深く頷いた。
三月末木ノ本の風はなお冷たく、湖は鉛色に沈む。
羽柴秀吉は砦を巡察し、黒田官兵衛と立ち止まる。
「小屋の撤去、遅れておるな」
官兵衛は沈痛な面持ちで頷いた。
「急がせます。しかしながら、敵の眼も厳しく」
秀吉は頷き、遠く柳ヶ瀬の旗影を見据えた。
「焦るな。勝家を動かす隙は、いずれ露わとなる」
一方、柳ヶ瀬の本陣では柴田勝家が雪代の残る道を確かめ、佐久間盛政に檄を飛ばす。
「砦を締め上げよ。羽柴が出るなら一気に討つ」
佐久間盛政の猛将ぶりに
前田利家は沈黙のまま槍を握り、空気は硬く凍った。
両軍は陣を増やし、見えぬ糸で互いの喉元を締め合うように近づいていく。
祐兵は拳を握りしめた。
「必ずや、この渦中で我らの名を残してみせる」
春の空は未だ曇り、決戦の火蓋が切られる刻を静かに待っていた。




