第三十七話 滝川反旗
天正十一年、正月
正月の静けさを破るかのように、伊勢の地で一陣の風が吹き荒れた。
織田家宿老の一角、滝川一益が
ついに柴田勝家に旗幟を鮮明にし、挙兵したのである。
かつては関東経略の先鋒を担った歴戦の将、その名は畿内にも轟いていた。
秀吉に従うべきか、勝家に与するか――
伊勢の国衆たちは揺れ動き、世情は一気にざわめいた。
伊東祐兵もその報を耳にし、胸に不安を募らせる。
「また新たな火種か……」
彼の呟きに黒田官兵衛が振り返った。
「殿の敵は、かえって殿を強くする。だが油断は禁物。滝川はただの老将ではない」
一益は周到に機を窺い、関盛信・一政父子が不在の隙を突いた。
次々と伊勢の要害を調略し
亀山城を奪って滝川益氏を城主に据える。
峯城には滝川益重を、関城には忠征を配置し
国府城、鹿伏兎城までもその手に収めた。
短期間で伊勢の中枢を押さえたその手腕は、依然として侮れぬものであった。
伊勢を抑えることは、近江・美濃を制する要となる。
秀吉にとって後背を脅かす重大な危機であり、諸将の間にも緊張が走った。
祐兵は地図を前にしながら低く言った。
「伊勢の乱れは、日向の頃を思い出させます……隙を突かれれば、一国もたちまち瓦解する」
官兵衛は静かに答えた。
「だからこそ、殿は隙を与えぬ」
一益自身は長島城に籠り、秀吉を迎え撃つ構えを見せた。
長島は伊勢湾に面し、川と海に囲まれた天然の要害。
織田信長の時代に一向一揆を平定した地であり
守りの堅さは諸将の知るところであった。
祐兵はその名を聞いて背筋に冷たいものを感じた。
「長島……あの難攻不落の城を前に、殿はどう動かれるのか」
官兵衛は祐兵を見据え
「殿は正面からは攻められぬと知っておられる。だが、一益が籠もるほどに、他の城は孤立する。順を追って崩せば、長島はただの孤城よ」
祐兵はその戦略眼に感嘆しながらも、自分もまた武士として
この戦で首級を挙げねばならぬという責務を胸に刻んだ。
こうして伊勢に新たな火種が燃え上がった。
滝川一益の挙兵は、柴田勝家にとって大きな後ろ盾であり
秀吉にとっては背後を衝かれる危険を孕む。
しかし同時に、それは秀吉の調略と采配を世に示す絶好の舞台でもあった。
大軍を束ねる秀吉がどう動くのか、諸将は固唾を呑んで見守る。
祐兵は夜空を仰ぎ、遠い日向の月を思った。
やがて夜風に揺れる灯の向こう、軍議の声が響き渡る。
勝家・滝川を討つべく、羽柴軍は再び大きなうねりを描こうとしていた。




