第二十一話 道後落ち、酒と刀と
天正六年(1578年)──。
日向を失い
豊後に身を寄せていた伊東祐兵ら一行だったが
耳川の戦での大友氏の大敗により
風当たりは日に日に強くなっていった。
「これ以上は、身の置きどころもない……」
そう嘆いたのは、老いたる義祐だった。
彼の目の光はかつての威厳を失い
ただ懐旧の念だけが宿っていた。
祐兵は覚悟を決めた。
もはやここには未来はない。
生き延び、再び日向の土を踏む日を夢見て──。
「我らは海を渡る。目指すは、伊予国・道後」
一行は義祐、正室の阿虎の方
河崎祐長・権助父子ら家臣二十余名を伴い
ひそかに豊後を発った。
頼ったのは、かつて日向で通じのあった
河野氏の一族・大内栄運(信孝)であった。
道後の地は温泉郷として知られていたが
一行にとっては安息の地とは言い難かった。
「食うにも困るとは……」
祐兵が弱音を吐くと
その様子を見た祐長はため息を吐き
やがて古い桶と麹を取り出す。
「祐兵様、これからは口で語るのではなく、酒で信を得ましょうぞ」
そうして彼は、道後の水と米を使い
密かに酒造りを始めた。
かつての武士が、今は杜氏である。
皮肉とも、誇りともつかぬ表情で祐長はもろみをかき混ぜた。
実はその二年前──天正四年(1576年)に
祐長は旧知の刀工・田中国広に一振りの刀を注文していた。
「国広殿……どうか、この願いを刃に託してくだされ」
日向にて活動していた国広は、伊東家の再興を信じ
刀の道を極めるため旅に出ていた。
今回の道後への脱出には同行せず
日向や豊後の刀工を巡り技を磨いていた。
後に届いたその刀には「日州古屋在之住」と銘があり
確かに祐長の願いが込められていた。
「これは、我が魂を刻んだもの……。再び、日向に返る日の証とせねば」
祐長は届いたその刀を抱きしめ、目を閉じた。
そんなある夜。月の下、山から一人の影が降りてきた。
「これは……三部の快永殿!」
祐長が声を上げる。現れたのは山伏姿の男──
祐長の依頼で祈祷を行っていた修験者だった。
「酒の香りに釣られて参ったわけではござらぬ」
快永は穏やかに笑った。
「この地にて、再興の兆しを感じ申した。そなたらの火はまだ消えてはおらぬ」
その言葉に、祐兵は頭を垂れた。
「我らには、もはや力も領地もない。ただ、名と志のみ」
「名があるならば、志があるならば、道は開けましょう」
快永はそっと腰に下げた数珠を揺らし、祈りを捧げた。
後日、酒は近隣の者たちに少しずつ受け入れられ
祐長の名は「伊予に来たる変わり者の酒屋」として知られるようになる。
それでも、祐兵たちが伊東の名で世に出る日は、まだ遠かった。
だが阿虎が言った──
「祐兵様。人は酒を酌み交わし、名を語り合い、絆を結ぶもの。
酒は剣より強し……そう信じております」
祐兵は笑った。
「ならばこの一献、再び我らが日向に戻る日への祝盃としよう」
夜空に浮かぶ月が、ほのかに酒樽を照らしていた。




