第二十話 沈黙の国、再起の鐘
天正六年(1578年)──
耳川の地に血の臭いが残るころ
大友宗麟は沈黙していた。
伊東祐兵は、無言でその背を見つめていた。
島津義久率いる軍勢に敗北し
大友氏は多くの将兵を喪った。
兵のみならず、心までもが沈み込んだかのようである。
「我らは……また敗れたのか」
城の奥で、祐兵は天を仰いだ。
外は冷たい雨。阿虎がそっと寄り添い、彼の濡れた袖を絞る。
「祐兵様、どうか……」
「わかっている」
祐兵は微笑むが、その瞳の奥には深い痛みが宿っていた。
◇
やがて、ささやきが風に乗って耳に届いた。
──「伊東家は、敗戦の元凶ではないか」
──「阿虎の方を、大友義統様が……」
それは、あまりに冷たい噂だった。
宗麟の嫡男・義統が
祐兵の正室・阿虎を側室に迎えたがっている──と。
「……なぜ、こんなことに」
伊東万千代が吐き捨てるように言った。
「わかるか? 島津との戦は負けた。責を問う者がいる。その矛先が、殿へと向いたのだ」
それを言ったのは、田中国広。
まだ若いが、その眼は鋭く世を見通していた。
「だが、阿虎様にまで……」
「それだけ、我らが鬱陶しいのだろうよ。大友の家臣どもにとっては」
ある夜、祐兵は阿虎に尋ねた。
「お前は、耐えられるか。父を失い、故郷を追われ、今また……」
阿虎は少しも表情を崩さなかった。
「私には、あなたがいます。それだけで、他は要りませぬ」
それは強がりであったかもしれない。
だが、祐兵はその言葉に背筋を伸ばした。
「ならば、我も耐えよう。黙して、動くときまで」
それから数日、豊後の町にひそやかな変化が訪れた。
伊東家の残党たちが、ひとり、またひとりと集まってくる。
石ノ城から落ち延びた
長倉祐政、山田宗昌。
野山を越えて逃れてきた旧臣たちは、祐兵のもとに膝をついた。
「祐兵様、いつでも、我らはお供いたしますぞ」
「戦う力は、まだあります」
その声に、祐兵の胸は熱くなった。
「今はまだ、時ではない。だが、捨てるな。志だけは」
一方、義統の側近である志賀親度らは
伊東家の存在を快く思っていなかった。
「伊東は、我が家を頼りながら、我らの地を狙っているのではないか」
「旧領を回復せんとする祐兵。危険な若者ですな」
彼らが囁いた言葉が、義統の耳にも届いた。
「阿虎の方がこちらに来れば、祐兵も黙るやもしれぬ」
その夜、阿虎のもとへ使者が訪れた。
「義統様が、貴女を側室に迎えたいと仰せです」
静寂が落ちた。
阿虎は、一言も答えず、祐兵のもとへそのまま戻った。
「祐兵様、逃げましょう。ここは、我らの居るべき地ではありません」
祐兵は目を閉じた。阿虎の肩に手を置き、ゆっくりと首を振った。
「逃げてどうする。今ここで、耐え忍ばずして、どうして国を取り戻せよう」
「でも……」
「お前を失えば、我は己の剣すら抜けぬ。だから……我を信じてくれ」
阿虎は涙を堪えて、|頷いた。
数日後、大友宗麟は静かに祐兵を呼び寄せた。
「……儂は、何も知らぬと思っておるか」
「申し訳ありません、御屋形様」
祐兵は膝を折り、額を床につけた。
「よい。儂らは、阿虎殿を奪う気など毛頭ない。
義統にも、重々申し付けておいた。
ただ……家中が騒がしい。お主も、慎まねばならぬ」
宗麟は老いた声で続けた。
「お主のような者が、日向を再び治める日が来るやもしれぬ。
……それまで、沈黙せよ。沈黙は、剣よりも強し」
祐兵は静かに頭を下げた。
阿虎と並び、祐兵は冬の夜空を見上げた。月が満ちていた。
「祐兵様……もう、どうされますか?」
「そなたの言う通りであった。ここから離れたほうがよい。
だが、その時までは、声も剣も、封じておこう」
──それは、沈黙ではなかった。
それは、再起を誓う者の静かな鐘の音だった。




