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第二十話 沈黙の国、再起の鐘

天正六年(1578年)──

耳川の地に血の臭いが残るころ


大友宗麟(おおとも そうりん)は沈黙していた。


伊東祐兵(いとう すけたか)は、無言でその背を見つめていた。


島津義久(しまづ よしひさ)率いる軍勢に敗北し


大友氏(おおともし)は多くの将兵を喪った。


兵のみならず、心までもが沈み込んだかのようである。


「我らは……また敗れたのか」


城の奥で、祐兵(すけたか)は天を仰いだ。


外は冷たい雨。阿虎(おとら)がそっと寄り添い、彼の濡れた袖を絞る。


祐兵すけたか様、どうか……」


「わかっている」


祐兵(すけたか)は微笑むが、その瞳の奥には深い痛みが宿っていた。



やがて、ささやきが風に乗って耳に届いた。


──「伊東家は、敗戦の元凶ではないか」

──「阿虎の方を、大友義統おおとも よしむね様が……」


それは、あまりに冷たい噂だった。


宗麟の嫡男・義統(よしむね)


祐兵の正室・阿虎おとらを側室に迎えたがっている──と。


「……なぜ、こんなことに」


伊東万千代(いとう まんちよ)が吐き捨てるように言った。


「わかるか? 島津との戦は負けた。責を問う者がいる。その矛先が、殿へと向いたのだ」


それを言ったのは、田中国広(たなか くにひろ)


まだ若いが、その眼は鋭く世を見通していた。


「だが、阿虎(おとら)様にまで……」


「それだけ、我らが鬱陶(うっとう)しいのだろうよ。大友の家臣どもにとっては」




ある夜、祐兵(すけたか)阿虎(おとら)に尋ねた。


「お前は、耐えられるか。父を失い、故郷を追われ、今また……」


阿虎は少しも表情を崩さなかった。


「私には、あなたがいます。それだけで、他は要りませぬ」


それは強がりであったかもしれない。


だが、祐兵はその言葉に背筋を伸ばした。


「ならば、我も耐えよう。黙して、動くときまで」




それから数日、豊後(ぶんご)の町にひそやかな変化が訪れた。


伊東家の残党たちが、ひとり、またひとりと集まってくる。


石ノ城(いしのじょう)から落ち延びた


長倉祐政(ながくら すけまさ)山田宗昌(やまだ むねまさ)


野山を越えて逃れてきた旧臣たちは、祐兵(すけたか)のもとに膝をついた。


祐兵すけたか様、いつでも、我らはお供いたしますぞ」

「戦う力は、まだあります」


その声に、祐兵(すけたか)の胸は熱くなった。


「今はまだ、時ではない。だが、捨てるな。(こころざし)だけは」




一方、義統(よしむね)の側近である志賀親度(しが ちかのり)らは


伊東家の存在を快く思っていなかった。


「伊東は、我が家を頼りながら、我らの地を狙っているのではないか」

「旧領を回復せんとする祐兵(すけたか)。危険な若者ですな」


彼らが(ささや)いた言葉が、義統(よしむね)の耳にも届いた。


阿虎(おとら)の方がこちらに来れば、祐兵(すけたか)も黙るやもしれぬ」


その夜、阿虎(おとら)のもとへ使者が訪れた。


義統(よしむね)様が、貴女を側室に迎えたいと仰せです」


静寂が落ちた。


阿虎は、一言も答えず、祐兵すけたかのもとへそのまま戻った。


祐兵すけたか様、逃げましょう。ここは、我らの居るべき地ではありません」


祐兵すけたかは目を閉じた。阿虎の肩に手を置き、ゆっくりと首を振った。


「逃げてどうする。今ここで、耐え忍ばずして、どうして国を取り戻せよう」


「でも……」


「お前を失えば、我は己の剣すら抜けぬ。だから……我を信じてくれ」


阿虎は涙を()えて、|(うなず)いた。




数日後、大友宗麟(おおとも そうりん)は静かに祐兵(すけたか)を呼び寄せた。


「……儂は、何も知らぬと思っておるか」


「申し訳ありません、御屋形(おやかた)様」


祐兵(すけたか)は膝を折り、額を床につけた。


「よい。儂らは、阿虎(おとら)殿を奪う気など毛頭ない。

義統よしむねにも、重々申し付けておいた。

ただ……家中が騒がしい。お主も、慎まねばならぬ」


宗麟(そうりん)は老いた声で続けた。


「お主のような者が、日向を再び治める日が来るやもしれぬ。

……それまで、沈黙せよ。沈黙は、剣よりも強し」


祐兵(すけたか)は静かに頭を下げた。




阿虎と並び、祐兵は冬の夜空を見上げた。月が満ちていた。


祐兵すけたか様……もう、どうされますか?」


「そなたの言う通りであった。ここから離れたほうがよい。

だが、その時までは、声も剣も、封じておこう」


──それは、沈黙ではなかった。


それは、再起を誓う者の静かな鐘の音だった。

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