第二話 波立つ都於郡(とのこおり)
永禄八年(1565年)春。虎熊丸が六つになった年、都於郡城には静かな緊張が漂っていた。雨の降り残した石畳に、小さな足音が響く。
「虎熊丸様、お稽古の時間にございます」
家臣の河野九郎太がやさしく声をかけると、虎熊丸は振り返った。まだ小柄ながら、背筋には幼さの中に芽生えた気概がうかがえた。
「今日は、剣か? 弓か?」
「今日は学問にございます。和漢の素読に、兵法書の読み解きも」
「またあの難しい漢文か……」
虎熊丸は小さく息をついた。だがその眼差しは確かに、真剣さを帯びていた。
父・伊東義祐は、かつて名将として知られた男だ。
その威厳は今も色褪せることなく、城中の者たちに畏怖と尊敬を抱かせていた。
一方、長兄・義益は文武に秀で、家督も継ぎ、家臣たちから「若き鷹」と讃えられていた。
その二人の背を、虎熊丸はいつも遠くに見ていた。
「兄上は、なんでもできるな……」
「そなたにも、そなたの道がございます」
母・妙蓮尼の言葉は、春の風のようにやさしい。だが虎熊丸は、自分だけが“まだ何者でもない”という焦りを感じ始めていた。
その夜、虎熊丸は夢を見た。
炎に包まれる城、響く太鼓、馬のいななき。目の前には敵兵が迫り、剣を握る手が震えている。
「逃げるな、虎熊丸!」
兄・義益の怒声が響く。虎熊丸は震えながら剣を振るい、目の前の影を斬り裂いた――
「はっ……!」
目を覚ますと、月が障子越しに淡く差し込んでいた。胸が早鐘のように鳴っている。小さな手は汗で濡れ、夢と現の境が曖昧だった。
「……強くならねば」
虎熊丸は、そっと拳を握った。
永禄九年(1566年)、七つとなった虎熊丸は兄・義益とともに弓の稽古場にいた。
「心を静めよ。弓は力ではなく、気で放つものだ」
義益の言葉に、虎熊丸は深く息を吸い込む。風が頬を撫でる。弓を引き、放つ。矢は的の外れに刺さったが、義益は笑った。
「よい音だった」
「音?」
「弦が語るのだ。お前の心の音を、な」
虎熊丸は、初めて弓が語ることを知った。
この年の暮れ、島津家との国境に緊張が走った。飫肥城を巡る交渉が再び暗礁に乗り上げ、父・義祐は評定を重ねていた。
「虎熊、飫肥とは何か知っておるか」
ある夜、義祐は虎熊丸に問いかけた。
「……父上が、大切にしている城です」
「そうじゃ。だが、ただの城ではない。民の命をつなぐ要なのだ。奪われれば、多くの者が泣く」
その言葉の重みに、虎熊丸は言葉を失った。
永禄十年(1567年)、八歳となった虎熊丸は、稽古の合間に筆を持つようになった。書写するのは、『孫子』や『呉子』、戦国武士にとって必読の兵法書。
「父上、兵法はすべて剣で解くものですか?」
「否。剣は手段。心を導くのは智だ」
義祐の言葉に、虎熊丸は深くうなずく。
ある日、城下の村を訪れた虎熊丸は、飢えた子どもたちに出会う。彼らの目の奥に映る不安と恐れ。その表情が、虎熊丸の胸に火を灯した。
「守る……この者たちを、必ず」
永禄十一年(1568年)の初冬。都於郡に冷たい風が吹く中、虎熊丸は城の石垣に登り、遠く飫肥の山並みを見つめていた。
「父上はあの地を見据えている。ならば、私も」
隣にいた清次が笑った。
「やるか? 本気で、城持ちを目指すってのは」
「本気だ」
まだ九歳の少年の声には、確かな響きがあった。
やがて虎熊丸は、父の命によって飫肥攻めの前哨戦を目にすることになる――
彼の心の中で、少年の日々は静かに終わりを告げようとしていた。
――風の向こうには、まだ誰も知らぬ戦場が待っていた。