外伝:四半的ものがたり ― 風を射る者たち ―
永禄十年(1567年)、飫肥の地に春が来ていた。
だが、緑の山々に響くのは、鳥のさえずりではなく、軍馬の嘶きと、武具を鳴らす音であった。
伊東義祐、二万の兵を率いて
島津忠親の守る飫肥城を攻めたのだ。
空は灰色に曇り
湿った風が城下を吹き抜けていた。
この戦の裏で、一人の男が動いていた。
名は、山田宗昌。
伊東家の家臣であり
国境警備と民兵訓練を担う、知勇兼備の名将であった。
飫肥の地に暮らす農民たちは
危機が迫るなか、鍬や鋤を捨て、竹で作った短い弓を手に取った。
それは「半弓」と呼ばれる簡易な弓具。
射場は短く、的も小さい。しかし、その技は、静かに育まれていた。
「義祐公より弓を許されたぞ。武家だけでなく、民もまた、弓を持ちてこの地を守るのだ」
宗昌の声に、老若男女が集まった。
竹を割り、弦を張り、的を立てる。
射場から的まで、四間半(約八・二メートル)
弓の長さは四尺半(約一・三六メートル)
的の大きさは四寸半(約一三・六センチ)。
それが、やがて「四半的」と呼ばれるようになる。
島津の援軍が南から迫る中、宗昌は農民たちにこう言った。
「矢は殺すためだけにあるのではない。的を射ることで、風を知り、静けさを学び、心を鎮めるのだ。それが、飫肥を守る術となる」
その夜、霧に包まれた野山を、半弓を携えた民兵たちが駆けた。
木立の間から飛ぶ矢が、島津の斥候を惑わせ、背後を突いた。
短い距離、短い弓。しかし、それが放つ意志は鋼のごとし。
戦の果て、飫肥城は落ち、伊東軍の勝利となる。
義祐は宗昌に言った。
「汝、風を射たな。ゆえに、この地に弓を残せ。戦が終わっても、民の心を射るものとして」
こうして、飫肥では弓が民に許された。
時は流れ、天正十一年(1583年)。
島津家の家老・上井覚兼は、ある日記にこう記した。
――「今宵、城内にて酒宴あり。武士ども、酔うて余興に『四半』を興じたり。皆、竹弓を手にし、的を射る音、まことに賑やか」
それは、ただの遊びではなかった。
民の矜持、士の教養、そして平和への祈り。
その全てが、四半的という小さな弓の中に息づいていたのだ。
やがて、飫肥の町には射場ができた。
男も女も、年寄りも子も、
的を睨み、風の音に耳を澄ませる。
男たちは焼酎を片手に、興ずることもあった。
的に中てることもよし。外すこともまた、楽しみ。
松の露酒造では
『四半的』の名を冠した焼酎が生まれた。
矢のように、すうっと心に染みる味だという。
宗昌の教えは、いまも飫肥に残る。
弓とは、力を競うものではない。
風を読み、心を整え、人をつなぐ術。
小さな弓が、静かに語る。
ここは、かつて武と民がひとつになって、風を射た場所だと。




