表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/95

外伝:四半的ものがたり ― 風を射る者たち ―

永禄十年(1567年)、飫肥(おび)の地に春が来ていた。


だが、緑の山々に響くのは、鳥のさえずりではなく、軍馬の嘶きと、武具を鳴らす音であった。


伊東義祐(いとう よしすけ)、二万の兵を率いて


島津忠親(しまづ ただちか)の守る飫肥城(おびじょう)を攻めたのだ。


空は灰色に曇り


湿った風が城下を吹き抜けていた。


この戦の裏で、一人の男が動いていた。


名は、山田宗昌(やまだ むねまさ)


伊東家の家臣であり


国境警備と民兵訓練を担う、知勇兼備の名将であった。


飫肥の地に暮らす農民たちは


危機が迫るなか、鍬や鋤を捨て、竹で作った短い弓を手に取った。


それは「半弓」と呼ばれる簡易な弓具。


射場は短く、的も小さい。しかし、その技は、静かに育まれていた。


「義祐公より弓を許されたぞ。武家だけでなく、民もまた、弓を持ちてこの地を守るのだ」


宗昌の声に、老若男女が集まった。


竹を割り、弦を張り、的を立てる。


射場から的まで、四間半(約八・二メートル)


弓の長さは四尺半(約一・三六メートル)


的の大きさは四寸半(約一三・六センチ)。


それが、やがて「四半的しはんまと」と呼ばれるようになる。




島津の援軍が南から迫る中、宗昌は農民たちにこう言った。


「矢は殺すためだけにあるのではない。的を射ることで、風を知り、静けさを学び、心を鎮めるのだ。それが、飫肥を守る術となる」


その夜、霧に包まれた野山を、半弓を携えた民兵たちが駆けた。


木立の間から飛ぶ矢が、島津の斥候を惑わせ、背後を突いた。


短い距離、短い弓。しかし、それが放つ意志は鋼のごとし。


戦の果て、飫肥城は落ち、伊東軍の勝利となる。


義祐(よしすけ)宗昌(むねまさ)に言った。


「汝、風を射たな。ゆえに、この地に弓を残せ。戦が終わっても、民の心を射るものとして」


こうして、飫肥では弓が民に許された。




時は流れ、天正十一年(1583年)。


島津家の家老・上井覚兼うわい かくけんは、ある日記にこう記した。


――「今宵、城内にて酒宴あり。武士ども、酔うて余興に『四半』を興じたり。皆、竹弓を手にし、的を射る音、まことに賑やか」


それは、ただの遊びではなかった。


民の矜持、士の教養、そして平和への祈り。


その全てが、四半的という小さな弓の中に息づいていたのだ。




やがて、飫肥の町には射場ができた。


男も女も、年寄りも子も、


的を睨み、風の音に耳を澄ませる。


男たちは焼酎を片手に、興ずることもあった。


的に中てることもよし。外すこともまた、楽しみ。


松の露(まつのつゆ)酒造では


『四半的』の名を冠した焼酎が生まれた。


矢のように、すうっと心に染みる味だという。




宗昌(むねまさ)の教えは、いまも飫肥に残る。


弓とは、力を競うものではない。


風を読み、心を整え、人をつなぐ術。


小さな弓が、静かに語る。


ここは、かつて武と民がひとつになって、風を射た場所だと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ