第4話 兆し
ぬる、ぬる、ぬる――。
濡れた石畳の隙間を這うスライムを先頭に、アーヤは路地裏をゆっくり歩いていた。昼間でも薄暗いこの裏通りは、乾ききった静けさの中に、ほのかに薬物の残り香が漂っている。壁際には動けなくなった中毒者が座り込み、虚ろな目で遠くを見つめていた。
「はあ……また増えたなあ」
アーヤは溜息まじりに独り言をつぶやいた。中毒者が多いということは、当然、サトゥの配達先も増えているということだ。組織にとっては都合がいいのかもしれないが、こうした光景はやはり気持ちの良いものではない。
(けど、ま、別にアタシの仕事じゃないし)
アーヤの役目は、いま目の前を這っている追跡用のスライムを監視し、逃げた薬物精製スライム〈スロー40号〉の痕跡を辿ることだ。指示役はもちろんサトゥ。彼は遠く離れた拠点からテレパスでスライムを操っている。アーヤは追跡役として同行しているが、実際にはただ後をついていくだけだ。
「おーい、先輩。本当にこっちで合ってんの?」
アーヤは何もない空間に向かって話しかける。サトゥはもちろん答えない。スライムが空気の振動を感知し、こちらの音は聞こえているはずだ。ただ迷いなく進むスライムを見て、追跡が続いていることを判断する。
アーヤは肩を竦めた。どうにもあの男は腹の底で何を考えてるのかわからない。表情にも声にも、感情の起伏がほとんどない。まるでスライムと同じように、ただ粘り気のある沈黙を纏っている。あの“気味悪さ”が、彼女にはどうにも不愉快だった。
「先輩さー、たまには裏切ってくんないかなあ。アタシ、いつか先輩をつぶすのが楽しみなんだけど?」
軽い調子でつぶやきながら、目は笑っていない。アーヤは、本気でその時を楽しみにしている。だが、いくら挑発してもサトゥはまるで応じない。それがまた腹立たしい。
壁際の痩せた男がアーヤの視線に怯え、びくりと身体を縮こませた。アーヤは無視して歩き続ける。
スライムが角を曲がる。アーヤはふと眉をひそめた。
「……こっち、教会の方じゃん」
ゾーニアのスラム地帯から少し進めば、教会がある。大理石の装飾に覆われた荘厳な建物だが、その背後が真っ当でないことを街の人間は皆なんとなく知っていた。踏み込んではいけない。誰もがそう理解している。だから、スライムがその方向へ向かい始めた瞬間、アーヤは歩みを止めた。
「中断だな、こりゃ」
ぬるぬると進んでいたスライムが、サトゥの指示でぴたりと動きを止める。気配が引いていくのを感じながら、アーヤは踵を返した。
追跡用スライムが後ろからついてくるが当然歩調を合わせたりはしない。
帰り道、壁にもたれてぶつぶつ笑っている少女を見かけた。髪は抜け落ち、唇の隙間から泡がこぼれている。既に限界を超えていた。
アーヤは彼女を見下ろして、呟く。
「ほんっと、先輩もよくやるよね……」
アーヤは吐き捨てるように小さく呟いた。
※※
サトゥは、いつもの廃屋でで淡々と配達を進めていた。
魔法感覚を通じてスライムと繋がり、通行人の靴の振動や排水路の微妙な傾斜を感じ取る。数ミリ単位で粘体の体形を修正し、狙った場所まで誘導する。人の目には決して触れない。
(問題なく完了。今日も平穏)
配達が終わると、代金の入った瓶を回収する。これを組織に納め、一部を自分の報酬として残す。
だが、その日の彼にはもう一つ予定があった。
街の南区、古びたアトリエの扉を叩く。カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。
「……い、いらっしゃいませ」
出てきたのは中年の男。痩せて目の下に深い隈ができている。サトゥの顔を見るなり、少し引き気味に腰を折った。
「あ、あの……本日は、どのような……」
「いつもの依頼だ」
サトゥは無言で懐から瓶を取り出した。
「真希を、また描いてくれ」
「は、はい……あの、やはりまた……?」
「何枚でも頼む」
画家の男はこわばった笑顔を浮かべる。サトゥは常連客だった。月に一度、いや、時には二度も三度も、彼は真希の絵を依頼する。その度に男は描き続けるが、できることなら断りたいと思っている。
しかし、サトゥの異様な雰囲気がそれをさせてくれない。
――もう勘弁してください。
心中ではそう呟きながらも、報酬が差し出されると、黙って手を伸ばすしかない。
サトゥは一言だけ付け加えた。
「今回は、少し笑顔を強めに」
「……か、かしこまりました」
画家は口元を引きつらせながら受け取り、机の上に置く。震える手でスケッチブックを開くと、サトゥは無言で椅子に腰を下ろし、静かに彼の作業を見守った。
サトゥは絵が完成するまで何も言わなかった。
※※
隠れ家に戻ると、壁の一角に描かれた新しい“真希”の絵をそっと飾る。淡い色調で、どこか現実味に欠けている。
だがサトゥにとって、それは確かな“存在”だった。
彼はしばしその絵を見つめたあと、窓の外に視線を移す。
夜のゾーニアは、静かすぎるほど静かだった。虫もおらず、埃も死臭もない。スライムたちがすべてを均してしまう街。その中で、かすかに揺れる違和感が、彼の皮膚の奥でざらついた感覚を残していた。
逃げたスロー40号。教会方面に向かうその動き。
ただの偶然かもしれないが、これは始まりなのかもしれない。
(教会に――接触できれば)
ほんの一瞬、サトゥの脳裏をそんな思いがよぎる。だが、彼はその感情に蓋をした。
彼はしばし目を閉じる。
明日には組織から薬物精製スライムの追跡を継続するかどうか指示が来るだろう。当然のように配達の指示も来るだろう。またあの老婆のような人間が増えるだろう。
「……教会、か」
誰にともなく呟いたその声は、夜の無菌の街に静かに吸い込まれていった。