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スライムの街  作者: てち
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第2話 探偵

この街に来てから、ずいぶん時間が経った。

転移――トウマが今いるこの世界にやって来たとき、最初に思ったのは「探偵になろう」ということだった。昔から憧れていた職業だった。小説や映画の中で、どんな困難にも冷静に立ち向かい、真実を暴くいわゆるミステリー探偵も好きだし、浮気調査やペット探しをする現実的な探偵も好きだった。だが、転移前の日本でそれを生業にする勇気はなかった。


だから、この機会を逃さなかった。見知らぬ土地、見知らぬ言語、見知らぬ常識――すべてが白紙の世界。ここなら、なりたいものになれると、そう思った。


もっとも、「探偵」という職業はこの国には存在しない。調査屋、情報屋、あるいは怪しい占い師の一種とでも思われているのか、依頼はほとんど舞い込まなかった。看板に「探偵事務所」と刻んでも、それを読める者すら稀だった。


けれど、それでもいいと思えた。仕事がなくても、金がなくても、この世界で生きるのは悪くない。

床は清潔で、空気には埃ひとつ舞わない。掃除はスライムが勝手にやってくれる。スライム――この世界で人々が忌避しながらも生活に組み込んでいる“穢れを喰らう生き物”だ。排泄物、嘔吐物、腐肉、病原菌――あらゆるものを無差別に取り込み、分解する。便利で、そして少し不気味な存在。


トウマにとってはむしろ、敬意すら感じさせる存在だった。

無言で、見返りも求めず、ただ与えられた役目を果たす。


そんなある日、彼の事務所に来客があった。


「失礼します」


軽く扉がノックされてから、扉が開く。入ってきたのは若い女だった。装飾の少ない深緑のローブを羽織り、顔の半分をフードの影で隠している。だが、あまりにも落ち着きがない。


「あの……この、たん……探偵っていうの、ここで……?」


「そうです。依頼ですか?」


トウマは穏やかに応じた。彼女の目が、事務所内をしきりに泳いでいる。壁に立てかけられた看板。机の上の書類。硝子窓から差し込む淡い陽光。


「ええと……その、わたし、スライムを……探してまして」


「スライム?」


「はい。普通の、あの、掃除とかするやつです。金粉回収用の……スライムで……」


彼女は言い淀む。言っていることは一見すると単純だ。掃除用のスライムがいなくなった。それだけのこと。でも、どこか様子がおかしい。


「少し落ち着いてください。おかけになりますか?」


促すと、彼女はおそるおそる腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音もせず、まるで浮いているかのような滑らかさだった。


「申し訳ありません。わたし、商家で働いていて、……昨日、うちのスライムが急にいなくなってしまって」


「商家というのは?」


「商家と称してはいけないほど小さな金細工屋です。路地の奥で、彫金を扱ってて……」


「なるほど、金粉回収用のスライムは重要ですね。金の微粒を飲み込ませ、体内に蓄積させる。数日おきに回収すれば、無視できない利益がある」


「ええ、でも、昨日の夜、仕事を終えてスライムを確認したら……いなくて。扉も閉まっていたし、逃げ出すようなことは……」


彼女は言い淀んだ。トウマは言葉を挟まず、ただ待った。


「私のせいかもしれません」


沈黙の後、ぽつりと彼女が言った。


「酔った勢いで、金粉じゃなくて……小さな金塊を丸ごと与えちゃったんです。試してみたくなって。そしたら……翌朝にはもう、スライムごと消えてて……」


その瞬間、事務所の空気がわずかに重くなった。


「店主には?」


「まだ……言ってません。叱られるどころじゃ済まないと思って……それに、仕事道具を無断で使ったのも私ですし……」


「つまり、個人的な責任として、私に調査を?」


「はい……。その、誰にも知られずに、見つけていただけないかと」


トウマは頷いた。依頼としては些細で、報酬も期待できそうにない。だが、こういうときのために探偵を名乗っている。


「わかりました。引き受けましょう」


トウマは簡単な聞き取りを終えると、依頼人――彼女の名前はエナと言った――に一度帰宅してもらい、事務所を後にした。現場の確認と聞き込み、いつものやり方で始める。どれほど小さな依頼であっても、依頼された以上は筋を通す。それが彼なりの流儀だった。


路地の奥、金細工屋の工房。店の裏手に設けられた狭い作業場には、細かい金属の破片や鋳型が並んでいた。棚の一角に、スライムの容器とおぼしき半透明の筒が転がっていた。中は空だ。痕跡はない。


エナの話から、スライムが姿を消したのは昨夜から朝にかけてのこと。扉はきちんと施錠していたらしい。まぁ、スライムは僅かな隙間でも通り抜け可能だから施錠に効果があったのか不明だが。まるで密室みたいだと、トウマは少し愉快な気持ちになった。


しかし、逃げるというのはおかしい。スライムはそんな行動を取らない。決まった場所で、黙々と掃除を続ける。外界に興味を持つような知性は……たぶん、ない。


トウマは工房の周囲を歩き、近隣の店主や住民に聞き込みを試みた。


「昨夜? いや、変わったことはなかったな。スライム? ああ、毎日のように掃除スライムがうちの裏にも来るけど……その日も、普通に通ってたよ」


「盗まれた? まさか、あんなもん。欲しがる奴がいるとも思えんし……けど、あんた、珍しいな。探偵っていうのか?」


何度か同じような反応を受けながら、トウマはこの街の“清潔さ”が逆に手がかりを覆い隠していることに気づいていた。血痕も足跡も、ゴミ一つ残らない街。スライムは、人が掃除するよりも早く痕跡を消す。証拠が生まれるより先に、回収されてしまう。


それでも、何かないかと考えながら、彼はかつてスライムの飼育業をしていた老人を訪ねた。


「スライムが金塊を食べて消えた? ……まあ、ありえないことじゃない。あいつら、与えられたものを“食べる”だけだからな」


「逃げる可能性は?」


「ないね。あいつらは環境依存だ。定期的に魔力調整してやらなきゃ動けないしな。飼い主がいなくなっても、ほとんどはその場で溶けて死ぬか、乾いて縮む」


「なら、誰かが持ち出したか……?」


「ふむ……金塊を与えてみたくなる気持ちは、わからんでもないよ。私だって昔、銀の粉を混ぜたことがある。分解された後の体内で、銀が再構成されるのを見た時は感動したよ。……ああ、そういう意味では、価値を感じるやつも、いるかもしれないな」


トウマは礼を言って立ち上がった。


答えは出なかった。だが、気になることはひとつあった。街の清掃スライムたちの数が、以前より微妙に減っているような気がする――それは勘か、気のせいか。


日が傾きかけていた。事務所に戻る道すがら、トウマはふと空を見上げた。白く霞んだ空には、灰色の煙が遠くでゆらゆらと立ち昇っている。野焼きなんて文化はこの世界に存在しないから、教会で死体を焼却処理しているのだろう。


依頼は未解決のままだった。だが、それがトウマをひどく苛立たせることはなかった。探偵とは、全てを解決する者ではない。ときに手がかりは霧散し、真実は他者の手に握られたまま、永久に沈む。


それでも探し続ける。


それが探偵というものだと、彼は思っていた。



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