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スライムの街  作者: てち
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第1話 配達人

ゾーニア自治区の朝は、スライムの音で始まる。


ぬる、ぬる、ぬる――。


石畳を這い、路地を渡り、排水路の蓋をすり抜けて、噴水塔へと向かう。青白く半透明の粘体が、通行人に気づかれることもなく淡々と移動していく。


それは、街の清掃員であり、給水係であり、水の循環者でもある。


井戸の水位が下がれば、スライムたちは都市外縁部の溜池で水を吸い上げ、体内に溜めて地下の水路を通り、中央井戸へと注ぎ込む。

便所の排泄物を沈殿槽へ送り込むのもスライム。

教会裏の処理場に積まれた死体を、痕跡ひとつ残さず分解するのもまたスライム。

かつて都市のインフラは人の手によって維持されていたが、今は違う。汗も声も不要になった。誰かがこぼした液体は、数分のうちにスライムが吸収し、臭いも跡も残さない。喧騒のない朝。虫すらいない通り。美しすぎるほどに整った街――。


衛生状態だけ見れば、現代の日本すら凌駕していた。泥ひとつない石畳。どの水場からも病原菌が検出されず、洗濯物は風通しの良い屋上に干せば数時間で乾く。病気は減り、疫病も消え、医者たちは職を失った。街路には虫が少なく、死臭も漂わない。

この街の隅々に彼らは潜み、見えず、語らず、命令にだけ従う。


サトゥは、そのスライムを「配達」に使っていた。

合法な仕事ではない。


主な業務は、精製された高濃度薬物の液体を、非接触・非対面で都市内の各地に届けること。

使われるのは「スローシリーズ」と呼ばれる、特殊育成されたスライムたち。


指定の容器を消化せずに保持し、サトゥの〈テレパス〉魔法によって、指定の時間・ルート・相手に吐き出す。

情報伝達も経路案内も、すべて魔法で行われるため、言葉も紙も必要ない。

街の誰も、薬物がどこから来たのかを知らない。それがサトゥの役割だった。


今日も朝6時、彼は街外れの廃屋の屋根裏で、足音のない配達を監視していた。

魔法の感覚が特によく通るこの場所は、彼の「事務所」でもある。


配達便は三件。

【スロー28号】:墓地裏から獣革屋へ〈レッド・エルクス〉。

【スロー37号】:市場裏の教団関係者に抑制剤。

【スロー12号】:洗濯場下の暗渠から娼館の薬師へ自律神経回復薬。


テレパスを繋ぐ。意識ではなく感覚の共鳴。


スライムの粘性、内部圧、体表温度、周囲の音、地面の傾斜、気流――すべてがサトゥの脳へ一瞬で流れ込んでくる。


(……そこだ。影に受け渡し相手がいる)


ふと、サトゥは自分の呼び名について考える。


“サトゥ”という名前は偽名だ。組織に拾われたとき、本名を問われて、とっさに「佐藤」と名乗った。かつて日本でよくある姓だった。それがこの世界でどう聞こえるかもわからず、咄嗟のごまかしで出た言葉だ。


それがそのまま、“サトゥ”として定着した。


今となっては、誰も疑問に思わない。


“サトゥ”という名前に、本当の意味はない。ただの偶然の音の連なり。


――本名は、恋人の真希だけが知っていればいい。


スライムが容器を“吐き出す”。

代金の入った別の瓶が置かれ、相手は姿を消す。


配達が終わると、サトゥは中央区の裏路地にある組織の事務所へ向かう。

そこで売上金を渡すのが習慣だ。



だがその日、出迎えたのは見慣れない顔だった。

黒髪を短く刈り込み、傷の残る頬に、どこか無邪気な笑みを浮かべた少女――アーヤ。


「お疲れさま、先輩! 今日からちょっとだけ一緒なんだってー」


「……誰の指示だ?」


「ジゼル姐さん。逃げたスライムの件で、臨時の相棒になれってさ」


サトゥは軽くため息をついた。


「それで……お前、どこまで聞いてる?」


「薬物精製スライムが逃げた。んで、あたしが追跡役、あんたが操縦役。そんな感じ?」


「だいたい合ってる」


彼は無造作に懐から瓶を取り出す。中には薄緑色のゲル状物質――逃げたスロー40号と同系のスライムが眠っていた。


「俺の〈テレパス〉で、40号の感覚をなぞって追う。案内はこの瓶に入っているスライムにさせるから、お前は実地でルートを確認。暴れられたときの“抑え”も頼む」


「はーい。暴れるやつ、大好き」


アーヤは頷くと、指の骨を鳴らした。


サトゥは、組織の中では特殊な立場だった。

テレパス魔法の使い手はごく少数で、スライム操作に関しては彼の右に出る者はいない。

だがそれだけに、外への出入りは慎重に制限され、常に“誰かの目”がある。


今日のアーヤも、その目の延長なのだろう。

以前からアーヤは俺が組織を裏切るんじゃないかと疑っている。いや、期待していると言うべきか。


「アタシね、裏切り者が一番好きなんだよ。必死に言い訳して、逃げて、抵抗して……それを潰す瞬間が、いちばん楽しい」


口調は軽いが、目は笑っていない。


サトゥは表情を変えずに頷いた。


彼女が「同行者」であると同時に、「監視役」でもあることは明らかだった。組織は信用しない。誰ひとりとして。



帰り道、サトゥは特定の民家の前で足を止める。


古びた木造の一軒家。板壁の隙間には草が生え、郵便受けは錆びて外れかけていた。

かつてここには、一人暮らしの老婆がいた。


彼女は熱心な顧客だった。薬が切れるたびに震え、叫び、通報寸前までいくこともあった。

それでもサトゥは配達を続けた。


最終的には金が尽き、代わりの薬も用意できなくなった。

禁断症状で暴れ回り、周囲を傷つけ、兵士に“処理”された。

ずいぶん前のことだ。


その日から、ここには誰も住んでいない。


サトゥは門の前に立ち、何もせず、何も言わずに数秒を過ごす。

ただ、立っている。理由はわからない。


彼女が死んだのは自分のせいかもしれない、と思うことがある。

いや、思っている――はずだった。


だが、それが罪悪感なのか、悲しみなのか、自分でもうまく整理がつかない。

ただ、時々、こうして足を止めさせる。


何かを悔いているような、そうでもないような、不安定な感情。静けさの中で、そっと目を伏せる。

サトゥにはそれが、祈りなのか、ただの惰性なのかよくわからなかった。


※※


その夜。

アーヤは屋根裏の隠れ家で、楽しげに地図を覗いていた。


「ここ、抜け道にちょうどいいよね。ねぇ先輩、あのスライムほんとに逃げたのかな? もしかして、あんたが逃がしたんじゃないの?」


問いかけるような声に、皮肉が混ざる。


「どうだろうな」


「ホントにそうなら、嬉しいなー。なんかワクワクするし」


アーヤは屈託なく笑いながら、刃物の柄を撫でていた。

サトゥは、じっと彼女を見つめた。


「おまえ、楽しんでるな」


「うん。楽しい。だってさ、何かが壊れてくのって、すごく面白いじゃん」


その言葉に、サトゥは一瞬だけ目を細めた。

だが、否定はしなかった。


街は夜でも静かだった。

スライムが汚れを吸い、臭気を消し、排熱を調整する。

人々は寝静まり、スライムだけが音もなく働いている。


清潔で、静かで、不気味な街。


その中心で、サトゥは明日の配達と、逃げたスライムの行方を思っていた。

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