プロローグ
誰もが聞いて驚くその異名、『無』。
誰もが聞いてほっこりするその名前、『シルル』。
人呼んで無の魔女シルル。
彼女は、魔女の中では珍しく話が通じる方だと言われている。
北側諸国の大盟主ミディストリア王国、そこの第六王子が彼女の力を借りにやって来た。
「お久しぶりです、シルル様。私のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ミディストリア王国第六王子ランジェス・フォルス・ミディストリア殿下...で合ってるっスよね。もし違ってたら打首確定なんスけど」
「ご心配なく、合っております。無の魔女シルル、ああ……なんと物騒でキュートな呼び名でしょうか…」
「はあ......で、本日はどのようなご用向きで?」
「あ、そうそう。こちらをシルル様に」
ランジェスが一通の封筒を開いて渡す。シルルが中身を確認すると、そこには見た事も無い文字がズラリと並んだ指令書と、僅かばかりの手付金が同封されていた。
「単刀直入に申し上げます。私と契約して、ミディストリアをぶっ潰しませんか?」
「.........ん? ああ、ごめんなさいっス。普通に聞きそびれたんで、もう一度言ってくれると助かるっス」
「私と契りを交わして、ミディストリアをぶっ潰しませんか?」
「...んあ?」
そんなことだろうと思うわけが無いぶっ飛んだ依頼内容だった。もし依頼人が王族でなければとっくに追い返していただろう。
「お金なら幾らでも積みましょう。地位も領地もそれ相応のものを差し上げます。眠れない夜があれば男も手配しましょう。私の力が及ぶ範囲であれば、ミディストリアの名も好きに使っていただいて構いません」
「……何が目的なんスか?」
「色々です」
「色々って何スか?」
「色々です」
「色々って何スか?」
「色々です」
「無限ループやめるっス」
「じゃあ秘密ってことで」
「むぅ…」
ランジェスはシルルと目が合う度ニコっと優しく笑い返す。シルルはそれが嫌で目を伏せていた。
「とりあえず、その指令書に書かれている内容を教えて欲しいっス」
「ああこれですか。市民権と階級章の発行手続きの紙ですよ。シルル様には明日からミディストリア国民となっていただきます。基本的に仕事がある日は私が傍におりますから、読み書きは出来なくても構いません」
「あー、だからこんなにも書類が少ないんスね。てか一枚っス」
「私の権限で一枚にまとめたのです。たかだか契約一つに貴重な時間を浪費したくありませんから」
「なるほど…じゃ、今後も任せるっスよ」
「お任せ下さい。面倒事は全てこのランジェスが処理致します」
ランジェスの作り笑いは素人目に見てもそれとわかる。
でもそれは、シルルも同じだった。
「それではここにサインを」
「ん」
無の魔女シルルが新居に移る。
第六王子に騙されて。