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あるとき、お母さまは落ち着きなく誰かを待っていたわ。わたくしのいる部屋を行ったり来たりして、いつもは落ち着いているお母さまなのに、その日はおかしいなと思っていたの。 玄関の扉が開いたのか、お母さまはぱっと飛び出していったわ。お客さまといらっしゃるのかと思ったのだけど、わたくしのいる部屋の扉が開くことはなかった。
その日から、わたくしたちの生活はまるで変ってしまったわ。わたくしはいろいろな荷物と一緒に箱に入れられて、馬車に乗せられてどこかへ連れていかれてしまった。それからどのくらいたったかわからないけれど、わたくしはこのまま忘れ去られて捨てられてしまうんじゃないかしら、と諦めていた時に急に箱が開けられたの。「ああ、お母さまのお人形さん!」そう言ってわたくしを抱きしめてくれたのは、最後に見たときよりもすらりと背が高くなったお嬢さまだった。
お嬢さまは、今まで住んでいたお屋敷とは比べ物にならないくらい小さな家に住んでいた。大きくて立派な家具や絵も、この小さな部屋には入らないし似合わない。それでも、わたくしはとても嬉しかった。もうすぐ、お母さまもいらっしゃるわ。大きなお屋敷でなくてもいい、素敵な家具や絵に囲まれていなくてもいい、ドレスだってたくさんなくてもいい。あの頃みたいに、お父さまとお母さま、お嬢さまと笑顔で暮らしていけたら・・・きっとその日はもうすぐ来るはずよ、わたくしは少しも疑っていなかった。
あれから何日もたつのに、お母さまはやってこなかった。お嬢さまが寝てしまった夜更けに、前からよくお屋敷に来ていたお客さまの一人が隠れるようにして家に来た。
「それで、ジャンヌは?元気にしていたか?いつこちらに来てくれるんだ?」
「落ち着いてくれ。私も先日会いに行ったが、彼女は元気だった。今、仲間が何とか牢から出そうと手を尽くしている。彼女は牢の中でもこの国を良い方向へ導くためにと論文を書いているようだ。」
「ああ、何ということだ!一刻も早く彼女を救い出さなくては!彼女ほど牢屋が似合わないひとはいないだろうに。それに、この国を導くための論文だって?我々がいろいろと骨を折ったのに、結局民衆は功労者である彼女を牢に入れてしまっているじゃないか!」
お父さまは涙を浮かべ、髪の毛を搔きむしった。その様子を見ながら、わたくしはお母さまが牢屋に入っていることを知って何も考えることが出来なかったわ。
あの日から、前にお屋敷で見たことのあるお客さまが時々家にいらっしゃるようになった。みんな、お母さまを牢屋から出すためにいろいろと頑張っているようだったわ。お父さまやお嬢さまのことを心から心配していて、優しく励ましてくれていた。
ある夜更けに来たお客さまが、お父さまと長いことお話しされていたわ。お母さまは牢の中でたくさんの原稿を書いているのだけれど、それが一部のひとの間では問題になっているようで、もう原稿を書いても持ち出せないんじゃないかってお話だった。お父さまは、そんなことより一刻も早くお母さまを助けてほしいと言っていたのだけれど、お母さまが書いた原稿を残すことを誰よりも望んでいるのはお母さま自身だからとお客さまはおっしゃっていた。 お客さまが帰りの挨拶をなさっている時に、ふとわたくしと目が合ったの。お客さまはじっとわたくしを見ると、お父さまに「こちらの人形は奥さまが大切にされていたものでは?」とお聞きになったわ。お父さまが、そうです、と言うと「少しのあいだ、お借りしても?」とおっしゃったわ。お客さまがおっしゃるには、お母さまの役に立つかもしれないから、ですって。
わたくしは、お母さまに会えるかもしれないという嬉しい気持ちもあったけれど、何となく明るい気持ちにはなれなかったわ。久しぶりに見た街の景色はなんだか薄暗くて、それでいて心が固くなっていくような、とても緊張する感じがしたわ。わたくしがお店にいたころのような、綺麗なドレスを着ている方はどこにもいなかった。ただただ街が薄汚くて、ところどころ壊れていて、今まで見たこともないような汚い服を着た人たちが道の真ん中を歩いていた。
わたくしは裏道を入ったところにある家に連れて行かれた。その家には、お父さまやお母さまと会っていたお客さまがよくいらっしゃった。
「それで?夫人は牢屋をでてくれる気になったかい?」
「いや、時間を見て説得に行っているんだが・・・昨日も駄目だったよ。」
「何てことだ!もういよいよ時間が無くなってきているぞ!」
「私だって何とかしたいさ!あの方がいないと、我々ジロンド派は山岳派に太刀打ちできない!でも、肝心のあの方が牢から出てくれないことには何もできない。」
「議席も次々と無くなってしまって、ダントンの独裁政治になってしまうじゃないか!」
「ああ。だが彼女にそのことを伝えても、なにも言ってくれないんだ。前はあんなにも彼のことを毛嫌いしていたというのに!」