そりゃそうなりますお嬢様
待ち合わせをしていたカフェテリア。
そこに最初にいたのは男性で、少し遅れてやってきたのは今日この日のために精一杯オシャレをしてきたのだろうなというのがありありとしている女性――というよりは少女と言うべきだろうか。
既にそこに待ち人がいたという事実に「あっ」と小さな声を上げ、彼女はやや急ぎ足で彼の元へと向かう。
「申し訳ございません、お待たせしてしまいましたか……?」
そんな少女の言葉に待ち人であった青年は柔和な笑みを浮かべ、
「いえ。今来たばかりです」
言う。それはもうお手本のような笑みであった。
そんな微笑みを浮かべた青年に、少女は頬を赤らめて見上げている。
青年は更に続ける。
「それに、女性の支度に時間がかかるのは当たり前の事ですから」
これだけを見れば、とてもありがちな恋愛小説の大分使い古され過ぎていっそ王道とも言えるような展開である。
けれどもそんな二人を少し離れた場所から見ていたリリナは「あっちゃ~」とでも言いそうな表情を浮かべていた。
やっぱ駄目じゃないですかお嬢様~! そんな風に叫びたい衝動すらあったけれど。
けれどもここで叫んだら自分がおかしな人を見るような目を向けられてしまう。
だからこそリリナができた事と言えば。
何食わぬ顔をしてそっと二人から視線を逸らすだけだった。
――リリナ・トレシアは貴族の娘として生まれたものの、家は男爵家。正直貴族としての位が高いわけではない。それにこの国では貴族であり続けるためにはそれなりに功績を残さなければならないが、リリナの両親も祖父母もこれといった実績はない。恐らくはリリナの代でトレシア家は貴族としては途絶えるのだろうな、と思った彼女は早々に見切りをつけて貴族として何か功績を残そうとするよりもさっさと就職先を見つける事を選んだ。そして運良く伯爵家のメイドとして働く事となったのだ。
勿論そこに打算が無いと言えば嘘になる。
位が上の貴族ともなればそれなりに今まで何らかの結果を出してきた者たちだ。少なくともこの国では、という一文が入るが。
皆で協力して国を良くしていこうね、なんていうお花畑な考え方だけで到底やっていけるはずもない。中には勿論足の引っ張り合いをする者たちだっている。
だが、そこで簡単に蹴落とされるようなら貴族としてその程度。多少あくどい手段を使おうとも結果を出せばこの国では正義でもある。そういった相手は他国との外交でもいかんなく手腕を発揮するものなので。
そんな、歴史ある貴族の家にメイドとして雇われる事になったリリナは、あわよくばこのままここで働き続ける事を目的としている。なんだかんだ生活のためにはお金が必要なのである。
ついでに、こちらはあまり期待していないが上手い具合に結婚相手も見つかればいいなという思いもある。
高望みはしていない。リリナが働く事になった伯爵家、クルメリエ家の、それこそ庭師だとか執事だとかで代々お仕えしていますよ、とかの年の近い息子さんでもいればあわよくばと思うし、何なら仕事か何かで訪れた他の貴族のお坊ちゃんがあわよくば見初めてくれれば……と思わないでもない。
まぁ、そこら辺は淡い夢のような希望だ。本気でそれをアテにはしていない。
どちらにしてもリリナは現時点で男爵家の娘とはいえ、限りなく平民に近い立場にある。
なのでもしここで働けなくなった場合、紹介状を書いてくれなければ平民としての生活が待ち受けているわけだ。
そうなった場合は仕方がないとも思えるが、それでもそうなる前にできるだけお金を貯めておきたいと思うのは当然の事だろう。
強くしぶとく逞しく、がリリナの掲げるスローガンである。
そう聞くとお前平民でも充分うまくやっていけるよ、という気しかしない。間違っても貴族令嬢が掲げるスローガンではない。
さて、そのクルメリエ家であるが。
旦那様もその奥様もこの国に長く仕えている家の人間だけあって、リリナからするとちょっとよくわかんないくらいに優秀であった。頭の出来がきっと最初から違うのだろうな、と思えるくらいに何か色々と凄い。何がどう凄いかというのをリリナの語彙力では言い尽くせないくらいに凄かった。
伯爵家でこれなら、国の中枢を担ってるだろう公爵家とかどうなんだろう……想像してみようにもリリナの脳では限界があった。
その息子である次期当主もまた優秀で、その姉である長女も優秀。ついでに美人。
地位も名誉も美貌も才能も、あるところにはガッツリ固まって存在しているんだな……というのがリリナの正直な感想であった。
だが、約一名。
ちょっと微妙なのがいる。
いや、仮にも仕事先、雇い主の家の人間相手にそんな言い方をしてはいけないのだが。
美人、というか可愛い系で見てる分にはとてもこう……癒し系ではあるのだ。
ほんわかしたタイプの美人。
けれども何というかちょっと頭の出来が他の家族と比べると残念と言おうか……
クルメリエ家次女、フローリア。
彼女だけもしかして教育係が何か間違いを犯したのか? と言いたくなるくらいに何か違うのだ。
悪い娘ではない。性格がひん曲がってるだとかでもない。
むしろほわほわしていて何というか、ちょっと現実味に欠ける。
貴族令嬢としてはなんとなく不安になる娘だ。いや、これがリリナと同じく男爵令嬢だとか子爵令嬢あたりであれば、まだ、問題ないと思う。けれども伯爵家。政略結婚で侯爵家や公爵家、場合によっては王家に入る可能性もある家柄だ。
そう考えるとこのほわほわっぷりはどうにも見ていて不安になる。
フローリア以外の家族はこれを良しとしているわけでもなさそうだった。
色々手を焼いたらしいが、それでもフローリアが変わる事はなかった。
結局フローリアはいずれ、政略結婚の駒としてどこか、クルメリエ家にとって都合のいい家へと嫁がされるのだろう……とは直接言われずともリリナにも理解できてしまった。恐らくそれをマトモに理解できていないのはフローリア、何とまさかの当の本人だけである。
リリナが彼女の事を微妙だと思うのも……という話なのも無理はないだろう。
そしてリリナはなんとフローリア付きの侍女、という立場に現在なってしまっている。
とはいえ彼女に生涯尽くせ、というわけでもないので今はこの立場であるが仕事ぶりが認められれば他の仕事を割り当てられる事にもなろう。
フローリア付きの侍女は他にもいるが、リリナは新入りという事もあってかフローリアに物珍しがられ今はあれこれと構われている時期でもあった。正直仕事をしたいが彼女に話しかけられるとそちらを優先しなければならない。とはいえ、彼女の相手も仕事のうちという事で、話をしようと言われても特に先輩たちから睨まれたりもしない。
だがしかし。
リリナはフローリアの事はあくまでも雇い主の娘さん、という認識でお友達ではない。けれどもフローリアはリリナをお友達だと思っているようだった。そんな簡単にホイホイと身内認定するような気持ちで大丈夫だろうか……リリナの家は滅多に社交の場にお呼ばれする事もないけれど、クルメリエ家ともなればリリナの家とは比べ物にならないくらいに茶会だ夜会だと参加しているはずだ。
ああいう場は基本腹の探り合いだと思っているリリナの考えは決して間違っていない。そんなところにこんなほわっほわしたの解き放って大丈夫だろうか……?
リリナですら心配しているのだ。フローリアの家族の心痛は計り知れない。こんなの下手に社交の場に連れていって、言葉の裏も探らずそのまま受け取って挙句家の貴重な情報とかをぽろっと漏らされでもしようものなら。
や、重要な情報は知らされていないだろうけれど、それでも些細な断片から真相に辿り着く探偵のような者も中にはいる。下手な言質を取られるような事は勿論避けたい、というのが家族の総意ではないだろうか。
これが全部そういう風に振舞っているだけで、実はとても賢いお嬢さんであればクルメリエ家の者たちもとても安心していられるだろうに。けれども実際そうではないので、家族はフローリアが何かやらかす可能性を常に疑っている。
そんな中、フローリアに見合いの話が舞い込んだ。
お相手は勿論政略結婚なのでお互いの家に利のある話である。
フローリアは少しばかり不安そうであったけれど、それもいざお相手だという男性を見ればそんな不安はなかったかのように吹っ飛んでいったらしい。
セリアン侯爵家のフランシスという青年は、少し前からフローリアがはまっている恋愛小説の中の登場人物に似ていたらしく、フローリアはあっという間にのぼせ上ったらしい。
恋はするものというよりは落ちるもの……とリリナは教わったけれど、まさかこんなあっさり……と内心で驚きと呆れが止まらなかった。
最初のうちはフランシスがわざわざクルメリエ家に足を運びフローリアとお茶を飲みつつ会話をしていたのだが、いつまでもお家デートだけ、というわけにはいかなかったのだろうとはリリナでもわかる。
そこで次は街へ行こうという話になり、それがまさに今日の話だ。
一応少し離れた場所に護衛がいないわけでもない。フローリアはともかくフランシスに何かあったら困る。
そしてリリナは別に暇を持て余して彼らの様子を見ているわけではない。旦那様直々に二人の様子を見て報告してほしいと言われたのだ。断れるはずがない。
……正直な話、家族からもフローリアはちょっと扱いに困る子、といったものになっているので、それに関しては少しばかり可哀そうだなと思わないでもないのだ。
リリナの家は貴族だろうともあまり裕福ではないけれど、それでも家族仲は良い方だ。リリナに何かあれば、相手がとんでもねぇ権力持ってるとかでなければ父も母も兄も弟も、妹だって何かやらかす。ちなみに自分も家族に何かあればできる範囲でなんとかしようと行動に出るだろう。
リリナがフローリアに言える事は何もない。
言っておくべき事は既に言ったのだ。
少なくともここに来る前の準備の段階でリリナだって勿論着替えを手伝ったし、だからこそ伝えるべき事は伝えた。けれどもフローリアに果たしてどれだけ通じたのだろう。多分なんにも伝わってないんじゃないかな、そんな気がする。
本来の待ち合わせ時間からとっくに過ぎているのだ。実のところ。
待ち合わせ時間より少し先に来ていたフランシス相手に、時間丁度に来たフローリアが「待った?」とかじゃないのだ。
ぶっちゃけこの時点で40分遅れている。
一時間じゃないだけマシかもしれないが、待たされる身にもなってみろ。
フランシスがそれなりにとり繕ってくれたからどこぞの恋愛小説のありがち展開になってるとはいえ、あいつ目が笑ってないぞ気付けフローリアお嬢様。彼の顔の良さにぽーっとなってる場合じゃありませんって。
女性の身支度に時間がかかるっていうのは今更だ。夜会だとドレス着ないといけないし、そうなると確かに準備に時間がかかるのはそうなのだ。
けれども今日は街中デート。ダンスパーティーするわけじゃないからドレスではない。むしろそんな姿でこんなところに来られたら圧倒的に浮く。
街中を歩くに相応しい……と言っていいかはわからないが、平民と比べれば服は明らかに違うとわかるし、一応フランシスとフローリア、二人とも見目は良いので遠くから見てる分にはなんというか……良くできた芸術作品でも見ているような気分になってくる。
待ち合わせのカフェで最初はお茶と人気のスイーツなんぞを頼みちょっと話に花を咲かせた後、軽く街を散策。ついでにちょっとした買い物などをして……というのが本来の今日の予定である。
本来の予定であれば、既にカフェから移動して街の中を移動してちょっとオシャレなアクセサリーあたりが売られてる店にでも行く流れであったはずなのだ。フローリアが準備に時間をかけすぎて遅刻していなければ。
勿論リリナは言った。お嬢様、待ち合わせの時間とっくに過ぎてるのでそろそろ服を決めて下さいと。
それに対してフローリアは「でも、フランシス様に可愛いって思ってもらえるような服がピンとこないの」だとかのたまってあれでもないこれでもないと衣装を引っ張り出してはうだうだしていたのである。
着ていく服くらい事前に決めとけ、と口から漏らさなかったのは快挙である。
最初のうちはまだリリナだってフローリアの着ていく服を決めるのに、今日の気温を考えるとこちらは少し寒く感じるかもしれませんね、だとかこちらの服にこのブローチは少し合わないかもしれませんね、だとか客観的な意見を述べるなどしていたのだ。何せ聞かれたので。じゃなきゃわざわざ言うはずもない。
けれども何をどう答えたところでフローリアの心が決まるわけでもない、と気付いた時点で面倒になってきて、お似合いですよお嬢様、と褒め称えるだけのマシンと化した。
ぶっちゃけ何着てこうと遅刻した時点でフランシス様の心証最悪だと思います、とか言いたかったけど流石に雇われの身。フローリアが事実を更に悪い方に捻じ曲げて当主様に泣きついたら最悪首を切られてしまう。もう親身になるの面倒だから適当でいいや、そんな気持ちになるまでにそう時間はかからなかった。
むしろリリナは頑張ってどうにかさっさと行くように誘導した方だ。そうじゃなかったらあと一時間くらいああでもないこうでもないとやらかしているところだった。
フランシス様は私の事褒めてくれてもいいんですよ! ついでにちょっとクルメリエ家の当主様にその事を報告していただければ。
あわよくば特別手当が出るかもしれないというとてもわかりやすい欲望であった。
まぁ、直接フランシス相手にリリナが言う事はないので、これが伝わる事は間違いなくないのだが。
クルメリエ家でこぢんまりとしたお茶会をしていた時はまだ和やかな雰囲気であったけれど、現在こうして二人の様子を見ている限り、間違いなくフランシスはフローリアに対して意識を向けていない。一応話を聞いているという雰囲気は出して時折相槌を打ったり頷いたりしているから、フローリアからすれば聞いていないと思う事もないだろう。
あとフローリアの話って割と似通ってるから、前にした話と結構かぶってるのがある。
それもあって聞き流しても問題ないと判断したのだろう。フランシス様効率的ですね……とリリナは聞き流しながらも完璧な相槌を打っているフランシスに称賛の目を向けた。
正直に言おう。
フローリアに友人はいない。
勿論伯爵家の人間に擦り寄って甘い蜜啜ろう、みたいに思う者がいないわけでもないし、そういうのはまずフローリアを簡単に引き込めるとでも思っているのか貴方とお友達になりたいです、みたいな顔して近づくのだが、軽率にやらかした相手であってもそれなりに時間が経過すれば気付くのだ。
あっ、この娘経由で伯爵家に近づいても自分にメリットはないな、と。
大体フローリアがこれ、というのは家族であれば既に知っている。だからこそ、彼女経由で近づいてきた人間は間違いなく徹底的に調べられる。そうなれば少しでも後ろ暗い要素がある者はそこで弱みを握られかねない。
勿論そういったものを抜きでフローリアと友人になりたいと思った令嬢も最初のうちはいたようだ。
けれどもそれもやがてなかったかのように、波が引くように、そっと気付けばいなくなっているのだとか。
フローリアはあまり積極的な方ではない。どちらかと言えば外に出るより家の中にいる方だし、趣味は読書ではあるが読む本はもっぱら恋愛小説。恋に恋する夢見がち乙女、とでも言おうか。そんな感じであるが故、政治だとか経済だとかの話題は振ったところでまったく成り立たないし、それ以外の話だとファッションだとか美容系の話だろうか。それだけなら令嬢たちとの話もそこそこ盛り上がりそうではあるのだが、いかんせんフローリアは自分から新しい情報をもたらした事がない。大体はどこかで聞いた話をそういえば、といった感じでするだけだ。彼女が情報通であったならそれでもまだ良かっただろう。けれども既にその情報は大半の令嬢の知るところである、となれば今更そのお話ですの? という反応をされても仕方がない。
悪い娘ではないのだ。
ただ、貴族として、と考えると色々と不安しかないだけで。
ちょっと裕福な商人の家あたりに生まれていたら、それなりに不自由せず、それでいて貴族としての重圧を背負う事もなく、もっとのびのびと過ごせたかもしれない。もしくはリリナのように位の低い貴族の家に生まれていたならば。
特に何をしなくとも裕福な生活ができる程恵まれた貴族ではなかったのであれば。
彼女はもっと早くに現実に目を向けて何をするべきかを考え、行動に移らなければならなかっただろう。それこそリリナのように。
本人が流行を自ら作り上げる、だとかの野望もやる気もないので流れてくる情報は周囲よりも遅れていて、だがしかしそういった部分を気にしていない。
それはそれで自分の意思を持っている、と思えるけれど。
どう見てもフローリアはマイペースがすぎてそこら辺気にしてないだけだし、そんなフローリアはリリナの目から見てまるで群れから今にもはぐれそうな羊に見えた。牧羊犬が群れから出ないように吠えて注意をしても、どうして吠えられたのかわからない、といった反応をしそうである。
周囲の何事にも煩わされない暮らしができるのであればそれでいいかもしれないが、国のために自らの役割を理解し結果を出す貴族として、となるととてもじゃないが使い物になりそうにない。
これが、フローリアが若い頃にバリバリ働いて老後はのんびり過ごすの、なんて感じであったならそれでいいのかもしれないが、フローリアの年齢はまだまだ若く老後とか一体何十年後の話だ。
――結局のところ、フローリアとフランシスはカフェで軽く会話をした後、特にどこに行くでもなくそのままクルメリエ家へフローリアを送ってフランシスは帰っていった。
本来ならばもうちょっと色々立ち寄る予定を立てていたはずだが、フランシスは待ち合わせ時間から40分も待たされている。フローリアは遅れた事に対して謝罪をしていたけれど、それにしたって……となったのだろう。実は本日急な仕事が入ってしまって、なんてさももっともらしい事を言って、彼はフローリアを早々に家に送り返したのだ。
本来ならばもうちょっと長い時間を一緒にいられるはずだったフローリアは少しばかりガッカリしていたが、お前が遅刻しなければ良かったんやで、としか思えないのでリリナもまたそっとクルメリエ家へ戻った。
お家デートしてた時はまだ、まだマシだったのだ。
だってフローリアが家に最初からいるから遅刻しようがない。
会話がマンネリ化してようと、フランシスはそれを受け流す事ができていた。話半分で聞いてても、重要な話題がないので聞いてなかった部分が出ても何も困らず会話も続くという時点で、フランシスの話術がそれなりにある事も大きい。そうじゃなかったらどうなっていただろうか。
えーっ、お話聞いてなかったんですかー、もう、もっかい言うから次はちゃんと聞いててくださいね、とかいうやっぱり恋愛小説で見たようなフレーズがフローリアの口から出たかもしれない。
聞こえなくて聞いてなかったんじゃなくて、聞く気がなくて聞いてなかったのを何度も言われるのって苦痛でしかないんですよお嬢様……とリリナは思ったがそれを本人に言えるはずもない。
フランシスがお飾りの妻を欲しているならまだしも、そうじゃなければこの二人の婚約は成り立たないのではないだろうか。
気は進まないけれど、報告せよと言われているのでリリナはしっかりと事実を報告した。そこには希望的観測が一切含まれていない。勿論それを聞いた当主様は眉間に深い皺を刻んで「うぅむ……」となんとも言えない呻き声を出していた。多分誰が相手でもそういう反応になると思うのでリリナが何かを言えるわけもない。
ただ、当主様そういう反応とっても渋く決めてくれますね、と思いはしたが。
戦場辺りでそんな反応してくれると何かこう……いいんじゃないかな、なんておかしな方向にミーハーな何かが芽生えたくらいだ。演劇とかやってくれるなら天才軍司役とか似合うと思う。
雇い主に言うセリフじゃないので流石に自重しておく。
さて、その後も何度か街中デートの機会はあった。
けれども結果はとんでもなく酷いものだ。
何せ毎回フローリアは遅刻するのだ。
リリナが時間前に準備をするようにしても、まだ時間に余裕があるから、で無駄な余裕をかましはじめる。そんな余裕はない。さっさと支度しろと言いたくなるが相手は自分が仕える令嬢だ。生涯これに仕えろと言われてないだけマシではあるが、今この場においては我慢をしなければならない。
そうして時間より早い段階で準備させたにも関わらず毎回遅刻するフローリアではあるが、遅刻する時間も徐々に伸びていったのだ。毎回遅刻してるんだからそろそろ危機感を持ってほしい。
流石に毎回遅刻とかマジでやめてやれ、と直球で言えるはずもないので、あまりフランシス様をお待たせするのはどうかと……と言葉を濁しつつやんわりと伝えたりしたのだ。
思いつく限りの事は言った。待たせてる時間もデートに使えばもっと一緒にいられるというのも伝えた。
だがフローリアには伝わらなかった。
「あら? でも、フランシス様だってわかってくださってるわ。準備に時間がかかるのは仕方のない事だもの。
それに、前よりも素敵なわたしを見て欲しいの」
その言葉を聞いてリリナが思ったのは、
「あー、早いとこ配置換えしてほしいなー」
である。
いやそりゃね? デートだもの。相手に綺麗だとか可愛いだとか、素敵だなって思ってもらいたいと思うのは当たり前だと思うよ?
前に会った自分よりも次の自分はもっと素敵に思って欲しい。その気持ちもわかる。
けど、そのたび毎回遅刻してたら世話ないでしょーが!
しかも既に遅刻する時間は何分とかではない。何時間とかそんな単位だ。
前回のデートの時なんて、着いて早々に「すまないが今日はこの後予定が入っていてね……」なんてとても申し訳なさそうにフランシスが言って、会って早々に家に送り届けられている。
これ完全にデート失敗してないか? とリリナは思うわけで。
というか、フランシスの目は完全にフローリアの事なんてどうでもいいと思ってるくらい出会った当初と比べて冷めきっている。まぁ冷めても仕方ないかなと思うのでフランシスを責めるのはお門違いだ。
多分あれはフローリアを待ってる間無駄にした時間トータルしたら、どれだけの仕事が捗ったか、とか考えてそう。侯爵家忙しそうだもんな、とリリナはしたり顔で頷いているが、正直それどころではない。
実際のところ、見合いはしたけどまだ正式に婚約が結ばれたわけではないのだ。
フローリアはそこのところを理解できているのだろうか……? 多分してない気がする。
彼女は楽しそうに次のデートに着ていく服はどうしようかしら、だとか、アクセサリーは何をつけようかしら、だとか、はたまたお化粧も前のとは違う雰囲気にしてみたいわ、なんてキャッキャしている。
この前読んだ恋愛小説みたいに観劇に行ってみたいわ、だとか一人で盛り上がっているけれど、時間通りに待ち合わせ場所に辿り着いた事のない女から時間指定されてる催しに誘われて、果たしてフランシスがすぐさま頷くだろうか。まず無理だろうと思っている。
待ち合わせ場所次第では観劇そのものを見逃す事になるし、劇場で現地集合であれば下手をすれば恋愛ものの観劇であった場合、フランシスはそれを一人で見なければならなくなる。
周囲が恋人だとかで見に来てる中、一人でそれを最後まで見るというのは中々にハードルが高いのでは……?
いや、フランシスはその程度でメンタルに支障をきたすような人ではないと思うけれども。
恐らく観劇に行きたい、とフローリアが言ったとて、フランシスは適当な理由をつけて最初から来ない気がしてきた。というか、そろそろこの関係終了するんじゃないかなぁ……明確な根拠はないけど。
そんな風にリリナは思っていたが、その予想は当たる事となる。
数日、フランシスからの連絡はこなかった。
その事に関してフローリアが危機感を持ってどうしたのだろう? と思って父に問うなりフランシスへ手紙を書くなりしていればもしかしたら話は違ったかもしれない。けれどもフランシス様きっと今はお仕事がお忙しいのだわ、なんて物分かりのいい女の振りをしているだけで。
確かにフローリアと街に出かける予定だった時は、フローリアがとんでもなく遅刻してくるせいで後の予定がおしてきたのだろう。仕事を理由に早々に帰る、という事が続いたけれど恐らくあれは口実でもある。
だからこそ、父か、それかフランシス本人に確認を取ればよかったのに。
フローリアは何もしなかった。
例えば自分の世話をしているメイドたちに指示を出すような事も何も。
だからまぁ、この結果は当然のものだと思えた。少なくともリリナからしてみれば。
数日が更に経過して一月以上フランシスの音沙汰がないままに、公爵家主催の夜会が開かれる事となった。そこには当然クルメリエ家も招待されている。参加するのはフローリアの姉と兄、そしてそれぞれの婚約者であったはずなのだが、そこにフローリアも行きたいと駄々をこねた。
姉――イザベラは呆れたように貴方をエスコートする人いないじゃない、と切って捨てたがフローリアはフランシス様がいらっしゃるわ、なんて言って一歩も引く気がなかった。
兄もお前にはまだ早いんじゃないかなぁ、なんて言葉を濁していたが、フローリアはこれでもデビュタントは済ませているわ、と胸を張る。
二人とも頭痛が痛い、みたいなことを言いそうな表情を浮かべていた。その様子にお気持ちお察しいたします……とは流石に面と向かって言えなかったリリナである。
正直フローリアの存在はこの家にとってほぼお荷物みたいなものだ。だからといって虐げたりはしていないが、正直いなかったことにしたい、と思っているのは透けて見えた。この家で働くようになって新参のリリナですら感じ取れるのだ。それでいて、下位貴族であるリリナからしても、フローリアの存在は扱いに困るタイプだなと思う。
適当な家に政略結婚の駒として送り込んでその後の事はそちらの家にお任せする、とかいうのができればいいが……この家の跡継ぎは兄が、そして姉イザベラは何と婚約者とは政略ではなく恋愛である。とはいえ、お相手の事を考えると政略も同然ではあるけれど、そこには確かに愛がある。
フローリアはそれを見て自分も好きな人と結婚できるのだと信じて疑ってすらいない。
イザベラは家のために色々と働いて結果を出したついでに恋愛していた相手が結婚相手になる、という周囲から見ても文句が出ないものではあるが、フローリアは何もしていない。ただ愛玩動物のように日々を好きに過ごしているだけだ。そうして自分も恋愛小説にあるような恋をして、そこから結婚するのだと疑ってすらいない。夢を見るにしても随分と長い夢である。
悪い娘ではない。
けれども、貴族の娘としては向いていない。
これが、フローリアを知る者からの評価であり反応であった。
結局フローリアの駄々に押し負けて――というわけでもないが、諦めが先に出たのだろう。夜会にはフローリアも参加する事を許された。
とはいえ、エスコートする相手はいない。
フローリアはフランシスがエスコートしてくれると信じて疑っていないが、それはないとリリナもわかっている。だって既にフランシスの家にも招待状は届いているはずだが、フランシスからフローリアに対しては何の連絡もないのだ。
それにまだ正式に婚約者となったわけでもないので、フランシスがフローリアを誘う義務はない。更には、エスコートする必要性も。
けれどもフローリアはその事実に気付いていないのか、既に夜会当日の事に思いを馳せている。
どんなドレスを着ていこうかしら、なんて嬉しそうにはしゃいでいるが、ドレスを新しく用意する事はなかった。本来ならば、それこそ正式に婚約をしていたならフランシスからドレスが贈られてきた事だろう。けれどもそれはなかったし、今から新しいドレスを仕立てるにも時間が足りない。だからこそフローリアはしぶしぶではあったが既にあるドレスの中から夜会に着ていくものを選ぶしかなかった。
出発時間になっても用意ができていないようなら置いていく、と事前に兄と姉に言われていたからか、不満げではあったもののフローリアはどうにか用意を済ませてくれた。直前になってやっぱこっちのドレスにするわ、なんて言おうものならじゃあ置いていく、という事になるのだ。
周囲のメイドたちのそのドレス充分素敵ですよ、という言葉でどうにか気を持ち直したっぽいが、それでも隙を見せたらやっぱりあっちの方が……とか言い出しかねない雰囲気がある。
フローリアの世話をするメイドたちは勿論それを理解しているので、手早く他のドレスを片付けた。目移りしないように。
ついでになんとその夜会、リリナも参加する事になってしまった。
とはいっても、フローリア付きの侍女としてドレスでの参加というわけではない。あくまでも身の回りのお世話をする……というかお目付け役である。行きたくねぇ~! と叫びたかったが同じくフローリア付き侍女である先輩たちから激励されてしまったので今更脱走するわけにもいかない。帰ってきたら美味しいご飯用意しておくからね! とか言われたのでそれを楽しみに頑張るしかない。
とりあえずあくまでもフローリアの近くで影のように付き従ってればいいだけで、ダンスだとかをする必要はないし、フローリアがもしダンスをしている間はとりあえず壁の花にでもなってフローリアの様子を見ているだけでいい、と言われたのもリリナにとっては救いだった。
あとはうっかりフローリアが何か余計な事を口走ったりしないようにタイミング見計らって話の腰を折るとかだろうか、リリナがやるべき事と言えば。
とはいえ、そこら辺の心配はあまりする必要がなかった。
何せ夜会の場でもある公爵家の館で、きらびやかな空間に目を奪われていたフローリアの目の前に、素敵な令嬢をエスコートしているフランシスの姿があったもので。
周囲からはあのご令嬢確か……メリティシュア侯爵家の……なんて言葉がちらほらと聞こえてくる。
愛らしさと美しさを兼ね備え、着ているドレスも相まってまるで星の妖精のような女性とフランシスとが並んでいるのを周囲はお似合いねぇなんてほぅと溜息まじりに言うのだ。
呆然とそんな二人を見ていたフローリアをよそに、夜会は行われていく。音楽が流れダンスが始まると、フランシスとそのパートナーである女性はお互いに微笑みを浮かべ踊り出す。リリナの目から見てもお似合いであったし、なんというか恋愛小説のワンシーンのようだな、と思ってしまったくらいだ。勿論フランシスがヒーローでお相手の女性がヒロインなのは言うまでもない。
その場で喚きださなかったことだけは、フローリアを褒めていいと思う。
ここでみっともなく喚きたてるようであれば、リリナは強引に彼女を連れ出さなければならなかったからだ。もしそうなっていたら、クルメリエ家の醜聞となっていた事だろう。
フローリアは誰かからダンスに誘われるでもなく、壁の花になるどころかテラスの方へ移動していた。音楽が遠ざかり少しだけ静かになったその場所で、フローリアはそっと蹲っていた。時折ひっくひっくとしゃくりあげるような音が聞こえているので、泣いているのは確かだ。
「お嬢様」
「なんで、どうして? だってフランシス様は……」
言葉にならない声でフローリアは何かを言ったようだけど、リリナには聞き取れなかった。でもまぁ、だろうなぁとは思ったのだ。
「お嬢様、フランシス様とはまだ正式な婚約を結んでいないのですよ。それにここ最近お互い連絡もしなかったでしょう? 私が言うのも差し出がましいようですけれど、多分きっと婚約の話も無かったことになってると思いますよ」
「そんなぁ、どうして……?」
「だってお嬢様、どう見てもフランシス様と上手くいってなかったじゃないですか」
「そんな事……」
「お嬢様から見てどうだか知りませんけど、傍から見てたらうまくいってませんよあれ」
小さい子を慰めるような口調で、リリナもしゃがみ込んでフローリアの隣に寄りそう。
フローリアの中で一体何がどうなって上手くいってると思ったのだろう。
聞いてみたい気がしたが、多分聞いても理解できそうにないのでリリナは二人の事を思い返してみる。
最初のうちはまだ良かったと思う。何せフランシス自ら足を運び室内でお茶を飲みつつ話をする、とても健全なお家デートだった。
けれどもいつまでもそればかりというわけにもいかない。
街の中だとかでちょっと一緒に出掛けてみよう、ってなってからは惨憺たる結果だったではないか。
主にフローリアが遅刻ばかりしていたせいで。
そもそも街中デートだってフローリアの希望で始まったものだ。そろそろお家でお話するだけなのも……というのはまぁ、リリナもわからないでもない。毎回同じでまんねりしてくるとつまらないだろうし、婚約するかどうかの状況ならもう一段階先に進んでみてもと思うのは多分どのご令嬢も考える事ではあるだろう。
だが、それで毎回遅刻されてはたまらない。
フランシスだって最初はまだ、許していた。一度目は緊張でだとか、思った以上に支度に時間がかかってしまったとか、そういった理由であったとして許せたはずだ。まぁ、目は笑ってなかったけど。
でも二度目から遅刻しなければ、フランシスはきっともっとちゃんとフローリアと向き合ってくれたと思うのだ。
実のところリリナはフランシスの護衛のために離れた位置でそっと二人の様子を窺っている騎士と話をする事もあった。
この時点で聞く事になってしまったフランシスからのフローリアの評価はまぁ、言うまでもないが底辺を這いずっていたわけだ。
毎回遅刻してくる挙句、しかもどんどん待たせる時間も増えてきている。
あの娘には学習能力が無いのか。それとも単純に自分の事を嫌っていてわざとなのか。
こちらも暇ではないし、忙しい中どうにか時間を作っているというのにそれらを一切考慮されていないのはいかがなものか、と。
しかも爵位的にフランシスの方が家格は上だ。フローリアが世間知らずの箱入り娘であったとしても、流石に許せる限度というものはある。
連絡が途絶えた時点でリリナは薄々「あ~」という気持ちになっていた。多分、フローリア本人にではなく当主か次期当主あたりに連絡いってるんだろうなとも。
そしてどうやらその考えは当たっていたようで、結果があの公爵家主催の夜会での出来事だ。
フローリアが浮気者! と叫ばなかっただけでも良しとしよう。
浮気も何もそもそもまだ正式な婚約は結ばれていなかった。そして今回の夜会でフランシスと共にいた令嬢がどうやら彼の婚約者として紹介されていたので、そんな事を叫んだが最後、フローリアはとんでもない事になっていたに違いないのだ。だからこそ、ただ呆然としてくれた事はリリナにとっても良い事だった。じゃなかったら咄嗟の当身を食らわせなければならなかったはずなので。
そんな醜聞になりそうな事をしでかしたとして、フランシスとフローリアがお付き合いをしていた、という話はないのだ。確かに婚約するかどうかの顔合わせで何度か会ってはいたけれど、フローリアとフランシスの間に男女の艶めいた何かがあったか、と問われれば一切無い。
最初はお互いに話をするだけ。それだって周囲にリリナをはじめとした従者たちが控えていたし、街に出かけるにしてもやっぱりリリナや護衛の騎士が周囲にいた。
ついでに言うなら毎度毎度遅刻してくるフローリアのせいで会ったらその後は即解散の流れである。
これで男女の仲が発展しているとか言われても信じるやつの頭を疑われるだけだろう。
そしてお互いに連絡を取らなくなった時点で二人の関係は最初からさっぱりなかったことになっていて、その後でフランシスは彼女と出会いを重ねていったのだろう。さっき見た限りではまだ若干の初々しさが令嬢にはあった。けれどもフランシスの彼女に向ける眼差しも穏やかで、あぁ、上手くいっているんだなというのがわかるもの。
フローリアとではああはならなかっただろう。
くすんくすんと泣きつつも段々おさまってきたフローリアを慰めつつ、次はもっとお相手ときちんと向き合うべきだと思いますよ、リリナに言えたのはこれくらいだ。まだめそめそしていたが、それでもどうにか泣き止んだフローリアを連れて、人目につかないようこっそりと会場を後にした。
流石に泣いて顔面色んな意味で酷いフローリアをそのままダンスホールへ戻すわけにもいかない。
――と、ここで話が終われば一人の令嬢の失恋話で終わったわけだが。
この失恋、実はまだ続くのである。
婚約破棄されたのであれば瑕疵があるとされて、無い事無い事噂話が広まりかねないけれど婚約の話は出なかった。だからこそフローリアは婚約破棄された令嬢という扱いにはならない。精々が、ちょっと片思いしてた人が別に婚約者を作ってしまって失恋した令嬢、だろうか。
まぁ、フローリアが本当にフランシスに恋をしていたかどうかは定かではない。
リリナの目にはフランシスが好きで好きでたまらないというよりは、恋に恋する、といった具合であったので。実際数日は部屋にこもっていたけれど、その間に読んでいた新作恋愛小説でトキメキ成分を補充したのか、こんな恋をしてみた~い、なんてのたまっていたくらいだ。
さて、そんなフローリアに次なるお相手が現れた。
王城にて主催された国王の誕生日祝いと言ってしまえばそれまでであるが、まぁそれなりにめでたき日の祝い事である。ちなみにこの場合、国王様お誕生日おめでとうというよりは、一年間国を立派に治めてくれてありがとうといった感じだ。ぼんくらが王になった場合一年もたずに滅んだ国が過去にあったもので。
そのパーティーにて知り合った公爵家のフリード・ティルノレウムに、どうやらフローリアは一目惚れしたらしい。そして向こうもたまたま目についたフローリアと少しばかり言葉を交わして、本来ならばこれで終わるはずだった。
けれどもフリードは次男で家を継ぐのは長男。だからこそ婿入りする必要があったのだが、その婿入り先で悩んでいるところであったらしい。
クルメリエ家は歴史もあり、貴族の中でも名の知られた家ではあるが、長女は既に婚約者がいる。そしてフローリアの存在はあまり大っぴらにされていなかった。
これにフリードはどうやら目をつけたらしい。
クルメリエ家もティルノレウム家と縁を結ぶ事に否やはない。ない、が……長男が家を継ぐので婿入りされてもな、というのが本音である。
だがフリード本人に与えられている爵位――伯爵らしい――それと彼自身に与えられた領地――意外にもクルメリエ家の近くだった――があるので、あと必要なのは嫁なのです、とか言われてしまえば正直クルメリエ家もちょっと揺らいだ。婿入りと言われていたが蓋を開けると普通に嫁入りである。
とはいえ少し前の事を思い返せば、すぐさまどうぞどうぞとはクルメリエ家も言えない。
都合の悪い事を言わずに送り出したとして、後から知られた方が問題だしその場合悪いのは肝心な事を言わず騙し討ちのような事をしたクルメリエ家である。
むしろそれを知った上で、というのであればその後どうなろうとフリードの甘い考えが招いた結果となるのだが。
今回も正式な婚約を結ぶ前にお互いに色々知り合っていきましょうね、のお付き合い期間が設けられた。
「お嬢様、前回の失敗を踏まえて、今度はちゃんとやりましょうね」
「えぇリリナ。わたし、がんばるわ!」
新しい恋の予感か、それとも少し前に読んだ恋愛小説の中のイケメンにフリードが似ていたからか、ともあれフローリアはやる気を見せた。
ただし、間違った方向で。
なんとフローリア、今回も街中デートの際盛大な遅刻をしでかしたのだ。
その時リリナは与えられていた休日であったので関わっていない。別の彼女の世話係が付き添っていたし、こちらも前回の事はよく知っている。だからこそ遅刻だけはさせまいとしたにも関わらずフローリアは直前になってやっぱあっちの服にするわ、だとか言い出してごねにごねて彼女の納得がいくまでああでもないこうでもないとやらかしたようなのである。
そして待ち合わせ場所に遅れて到着したのである。ちなみに本来の時間よりもなんと三時間もの遅れである。
何も……何も成長しちゃいない……!
休日に家族のところへ戻り気持ちを色々リフレッシュさせて戻ってきたリリナの表情があっという間に死んだようなものになったのも無理はない。ちなみにその日の付き添いメイドも顔が死んでた。合掌。
どうしてですかお嬢様……とリリナが問えば、フローリアはあっけらかんとした様子で言ってのけたのだ。
「前回フランシス様の心を射止められなかったのは、わたしが可愛くなかったからだわ。だからこそ、今回のフリード様には圧倒的に可愛いわたしを見てもらうの!」
そうじゃねぇよ馬鹿、という暴言が口から出なかっただけリリナは頑張った。そこじゃねぇんだよな~って叫びたくなったけど我慢したよ私! と後に休憩室で他のメイドとこの感情を分かち合おうとしたら皆同情してくれた。
でも多分フローリアの根本的な部分をどうにかしようとしてもならない気がしている。
何せフランシスの婚約者であった令嬢は確かに誰が見ても素敵ねと声を揃えて言いそうな見た目だったのである。フランシスがいたから呆然となったものの、彼女単体で見ていたならばフローリアもその場で見惚れていただろうくらいには、彼女は愛らしさと美しさを兼ね備えていたのだから。
恐らくは貴族令嬢としてもフローリアと比べてマトモな人なんだろうなとは思う。
フランシスが決めたのはそういった部分だと思うのだが、フローリアは見た目で選んだと思い込んでいるらしい。そりゃあ、見た目は重要かもしれない。ブサイクよりも美人と結婚したいっていう男性は多いし、女性だって何か見た目気持ち悪い男よりはカッコイイイケメンがいいというのが大半だ。
例外は男女問わず少数存在するブサイク専とか呼ばれる者くらいだろうか。
見た目がアレでも長く関わってるうちに中身に惹かれて……というのもあるから見た目だけがすべてとは言わないが、まぁ大半は第一印象外見で決めたりするわけだし外見なんてどうでもいいとも言い切れない。
だがこの国の貴族は基本的に実力者である事を要求される。見た目だけで中身のない者などあっという間に食い潰されるか利用されてポイされるかだ。
そう考えるともうフローリアは貴族令嬢としてではなく、修道院とかに入れた方がいいのではないか……と思えてきた。後で旦那様に報告しとこう。余計なお世話って言われるかもしれないし、もしかしたら解雇とか言われる可能性あるけど。
でも、フリード相手でもこうなのだから、大急ぎで矯正しようにもリリナもそれ以外の世話係たちも無理だとわかりきっている。フランシスだけではなくフリードまで同じようにこのお話は無かったことに……なんてなれば、婚約してなかったとしても醜聞として扱われかねない。そうなればこの家にとっては大きなマイナスだろう。
まぁ、修道院に入れた方がいいと思いますよ、という案がすんなり通ったとしてもフローリアが行きたくないとごねたら無理矢理連れていく事になりそうだし、その手間も面倒なのかもしれない。
修道院は規則正しい生活を求められる。
フローリアは時間通りに行動できないようだし、そう考えると地獄のような場所に思えるかもしれない。趣味の恋愛小説を自由に読める時間も恐らくはあまり取れないだろうし。
どうにかして、どうにかしないと。
そんなとてもふわっとした目標が定められてしまったが、勿論世話係だけでどうにかできるものでもない。
駄目元でフローリアの姉や兄、両親にも話をしてみたが家族の表情は曇るだけで特にこれと言った解決策は出てこなかった。
優秀なクルメリエ家であってもフローリアの遅刻癖を直せる妙案は思い浮かばなかったらしい。
ちなみにフリードとの待ち合わせ時間より早めの時間をフローリアに本来の時間だと教えて早めに出発させようとした事もあったが、結局のところそれでも本来の待ち合わせ時間を大幅に過ぎてしまったし、前日に着ていく服だとか身に着けるアクセサリーだとかを決めて当日は変更なし、としても効果がなかった。
着ていく服がすんなり決まったとしても、今度は髪型を気にしだすのだ。
もうお嬢様充分そのままで可愛いですよ……リリナの口からは大分投げやりな言葉が出てしまっていた。
ちなみにリリナは早々にあっ、今回のお話も無かったことになるんだろうなと思っていた。
何せ初回は一応待っていたフリードだが、二度目以降はフローリアが待ち合わせ場所に行っても既にいなかったのだ。
あぁこれは帰ったんだろうな、と思う。けれどもフローリアはフリード様はまだいらっしゃってないようね、とか随分のんきな事をのたまって、それじゃあ少し時間を潰しましょう、とか言い出して街の散策を始めたのだ。
いやあのそれ、間違いなく時間通りに来てないからサクッと帰ったんだと思いますよ、と控えめに伝えてみたけれど、フローリアは全く聞いちゃいなかった。
街中デートの予定であったが、初回は三時間も待たせた時点でこの後予定があるのでもう戻らなければ……とフリードはその場で帰ってしまったし、それ以降は会ってすらいない。デートとは……? と言いたくなるようなものだった。
そして何度目かの概念的なデートの日。
この日も案の定フローリアは待ち合わせに遅刻していたし、待ち合わせ場所にフリードはいなかった。
いくら歴史と実力あって名の知られた貴族とはいえ伯爵家が侯爵家とか公爵家の人相手にこの態度ってどうなの? 大丈夫なの? とリリナが内心で思う事果たして何度目だっただろうか。
この事態に全くなんとも思っていないらしいフローリアは今日も今日とて街を散策しようと言い出した。お嬢様、そんな場合じゃないと思いますぅ……リリナは一応そう言ってみたけれど、フローリアはどこ吹く風であった。
ところでその散策の途中、待ち合わせ場所とは全くかすりもしていない場所でフリードと遭遇した。
「あっ、フリード様」
「あぁ、フローリア嬢か。街の散策か?」
「はいっ、あの、フリード様」
「そうか、良き休日を。あぁそうだ、予定が変わるのであれば事前に連絡をくれるとありがたい」
「え……?」
きょとんとした表情を浮かべているフローリアに、フリードはさらりと告げる。
「ん? 本来は二人で出かける予定だったが、予定を変更したのだろう? 待ち合わせ場所に来なかったのはそういう事だと思ったのだが」
「いえ、待ち合わせ場所に行ったらフリード様がいなかったので」
「約束していた時間からその後三十分の間まではいたぞ。だが来る様子もなく何の連絡もこなかったからな。急遽予定を変更したのだとばかり」
あぁ、これから用があるからこれで。
そう告げてフリードは颯爽と立ち去っていった。
フローリアが呼び止める暇すら与えないくらいに颯爽とした歩みである。
この時点でリリナは「あっ、これは今回も無理そうだな」と確信したのである。
そしてその確信は見事に当たってしまった。むしろ外れる方がどうかしている。
今回もどうやらフローリアの両親宛に今回のお話は無かったことに……という連絡が届いたらしい。
正式な婚約をする前だからまだしも、二度も機会を逃したフローリアに両親はやはり修道院か……と悩んだらしい。
とはいえすぐさま修道院送りを決定するわけにもいかない。当分両親は頭を悩ませる事になりそうだ。
フローリアをお荷物だと思う事があったとて、憎いわけではない。ただ、貴族として生きていくには厳しかろうなと思うだけで。率先して不幸な目に遭わせたいわけでもないのだ。幸せになれるのであればそれに越したことはない。とはいえ、それが難しくはあるのだが。
その後、とある茶会に招待されたイザベラにくっついて出かけて行った先のご令嬢がフリードと婚約したという事実を知りフローリアはまた自室にこもる事となる。
くすんくすんと泣きはらすフローリアを慰めてこいとばかりに先輩たちに送り出され、リリナはとりあえずなんでどうしてと嘆くフローリアの話を相槌打ちつつ聞いていた。
なんでも何もとんでもねぇ時間遅刻してくるのが原因ですよ、とズバッと言っても多分通じない気がして、リリナは相槌に徹していた。
ちらっと伝え聞いた話では、フローリアがあまりにも時間にルーズすぎて、これでは結婚しても妻としての役割を果たせないと思ったらしい。
まぁそうだよな、とリリナも頷く。
今のフローリアは茶会や夜会にお呼ばれして行くだけの状態なわけだが、いずれは自分で茶会の手配をしたりすることもあるだろう。夜会を開催する立場になるかもしれない。
だが、到底それらを手配できるように思えない。
準備には時間もそれなりにかかるが、主人がこれではマトモに従者に采配を下せるかという話だし、ましてや予定時刻になってもパーティーが始まらない、なんて事があり得そうだと思えてしまう。
女主人としてもどうかと思うようなのが妻、とか正直フリードからすれば遠慮したいものだろう。
クルメリエ家との繋がりは魅力的だけど、そのためにフローリアを妻にするまでではない。ただそれだけの話だったのだ。
フローリアに何の問題も無ければクルメリエ家も抗議の一つくらいはしたかもしれないが、原因がフローリアにある以上声高に文句を言えるはずもない。
わたし可愛くないのかしら……なんて嘆いているフローリアに、根本的な部分を間違えている事をいよいよ指摘するしかなくなって、リリナは口を開いた。
「お嬢様、いくらお嬢様が可愛かろうと美人だろうと、時間守れないのが論外なだけです」
「えっ? でも、一杯悩んでこれ! って決めたやつじゃないとなんだか安心できなくて」
「むしろその間、フランシス様もフリード様も無駄に待たされてるんですよ。女性の支度に時間がかかるのは当たり前、って以前フランシス様が言ってくれたのは覚えてますよね?」
リリナが問えば、フローリアは忘れていないとばかりに頷いた。
「でもそれって、だから時間をかけて遅刻してきていい理由にならないんですよ」
「そうなの……!?」
「そうですよ。そりゃあ最初の一度や二度は大目に見てもらえたと思います。でもフリード様は二度目以降、もう待ち合わせ場所で待ってくれてもいなかったでしょう?」
「街中でお会いした時にそう言えばすぐに立ち去られてしまわれたわね……」
「あの時点でもう関わる気なくしてますよ、フリード様」
「そうなの!? でも、この恋愛小説だと」
信じられないとばかりにフローリアが差し出したのは、お気に入りなのか何度も読み返したらしく少しだけすり切れた部分もある恋愛小説だった。
「お嬢様、お話と現実は違いますよ……お話の中のときめきとかキュンキュンする気持ちとか悪く言うつもりはないですけど、あくまでもお話で現実はそういう風に進む事ってあまりないです」
まるで幼い子の夢をぶち壊してしまったかのような気持ちになるが、もし今までのあれこれが小説を参考にしたものであったなら。上手くいくはずがない。
恋愛小説の方は作者がそういう風に話を運んでいるけれど、実際の男性相手にそんな事をしてその通りにいくかと言われれば、まぁ無理である。
勿論、ごくまれにではあるがまるで恋愛小説のような話に見える恋愛をしている者もいるが、全部が全部そういうものではないのだ。
そもそもお話のような事が起こるなら、世の中の悪人は大体正義の味方に倒されてるし、不幸な目に遭ってる人は何らかのチャンスが舞い込んでくるし、世の中もっと全体的にハッピーになってるはずなのだ。だがしかし実際そんな事はない。幸せになるためにはそのために行動しなければならないし、何もしなくても都合よく物事が動くなんて事、普通の状況ではありえない。
「それにお嬢様、考えてもみて下さい。お嬢様の楽しみにしてる恋愛小説の発売日、どうしても自分で買いに行きたくてその日は従者を伴って買い物に行くつもりなのに、その前に大事な家の用があるからそれが終わってからにしなさいって言われたとして。
その用事が終わる予定だった時間になっても終わらなかったら。それ以前にその用事に関係のある人が遅れてきたら。どう思います?」
「……早く買いに行きたいから先に出るのは駄目?」
「お父様が許して下さればいいですが、この話の中では許されませんね」
「じゃあ、早く用事が終わるようにって祈るかしら」
「関係のある人が来る気配もなくて、何もする事がない状態でずっと待たされてお嬢様は祈るだけですか?」
「……どうしてこないのかしら、来れない理由があるなら使者を出して連絡を入れてほしい、こうしてる間に売切れたらどうしましょう。きっとそう思うわ」
「そんな気持ちに限りなく近い思いを、お嬢様はフランシス様とフリード様にさせてしまったんですよ」
「そんな……!?」
今まで散々遅刻だけは回避させようとしてあれこれ言ったのに、やはりどうやら通じていなかったらしい。
けれども今、ようやく通じたようだ。
フローリアは自分が今まで待つ事があったとしても屋敷の中であれば本を読んで時間を潰せたし、それ以外の場所であっても従者に持たせた荷物の中に本を数冊忍ばせている。だからこそ、あまり気にした事はなかったのだ。
けれども、そういった時間を潰す事もできないまま何もせずひたすら待ちの姿勢、というのは考えもしなかったようだ。それがどれだけ退屈な事か、ようやく想像できたフローリアは「なんてこと……」と今更すぎるが呆然としていた。
フローリアにとっては今日も明日も明後日もその先もずっとのんびり自分の好きな事をして過ごしていられるのかもしれないが、他の人間はそうではない。平民だろうと貴族だろうと、予定が押してる時はあるのだ。
「それにお嬢様……時間は限りあるものなのです。ある日突然の病気で倒れるかもしれないし、そうじゃなくても少しずつ年老いていくものです。
けれども時間は決して巻き戻そうとして戻せるものじゃない。貴族だからって権力使ってもどうにもならないものなんですよ……」
「それは……そう、よね。そう、なのよね……」
リリナはなんでこんな当たり前の事まで言わないといけないんだろうと思いながらも、今までフローリアがどれだけ相手に無駄な時間を強いてきたのかというのも気付いてもらわなければまた同じ事をしでかしそうなので、とても深刻そうな表情で言ってのけた。
本当に理解できたかは微妙なところだが、それでもリリナの雰囲気にのまれフローリアもまた神妙な態度であった。
「それとお嬢様」
「なぁに、リリナ」
「これはちょっと言いにくいんですが、実のところフランシス様といいフリード様といい、とても優良な方を二度も逃したお嬢様は下手をすると今後いきおくれ令嬢として陰で笑いものになるか、はたまた修道院で過ごす事を余儀なくされます。というかこのパターンだと笑いものになる手前で修道院に行って難を逃れる感じでしょうか」
あまり大量の現実摂取は今まで夢の世界で生きてきたようなお嬢様には酷だろうと思いながらも、言える時に言わなければ本当にそうなりかねない。修道院を勧めたのはリリナではあるが、そうじゃなければ何かそのうち適当な相手との政略結婚でフローリアが苦労するかもしれないと思ったからだ。妻として、夫を支えるだけの手腕があればまだしもフローリアにそれを望むのは難しいだろう。そうなると、愛のない結婚であった場合妻に早々に見切りをつけた旦那がどんな行動にでるのか……どう考えてもフローリアにとって良い方向に転ぶ感じはしない。
「修道院……それも有りかもしれないわね。毎日刺繍して過ごすの」
「お嬢様、修道院をどう思ってるのか知りませんけど。そんな優雅なものじゃありませんよ、あの場所は」
「そうなの!?」
「どっちかといえば規則正しい生活を求められますので、時間に遅れたらアウトです。そりゃあ修道院にある程度の寄付金を渡していれば多少はどうにかなりましょう。けれども、何もかもを許されるとまではいかないんです。もっと言うとお嬢様の好きな恋愛小説を読む暇がほぼなくなると言っていいです」
「そんなっ!?」
それは流石に大問題だったのだろう。
むしろ死活問題と言ってもいい。
今の今まで全く危機感を抱かなかったご令嬢は、ようやく現実に気付いたようだ。
早く寝ないとオバケがくるよ、とか幼い子供に言い聞かせるようなものととても似ているが、それでも危機感を持ってくれただけ良しとしよう。
今まであれだけあれこれ言い連ねたのに無駄だった事に比べれば、効果があっただけでも有難いくらいだ。
――かくしてその後。
ようやく多少なりとも貴族令嬢としての自覚を持ち始めたフローリアには、運良く、と言っていいのかようやく婚約者が決まる運びとなった。
可愛いと思ってもらう、というために無駄に時間を消費して遅刻する事もなくなった。
ちなみにそれも恋愛小説で読んで覚えたものらしい。
一生懸命悩んで選び抜いた可愛らしいヒロインに、お相手がメロメロになるとかどうとか。それにしてもリリナが見せてもらったその小説のヒロインは、一度こそ待ち合わせの場所に遅れてきたもののその後遅刻してきたというような話はなかったし、やはり例の一件はフローリアが大いに曲解していただけのようだ。
どうしてそこでおかしなアレンジ加えちゃったのか……とリリナだけではない、彼女の世話係だったメイドたち一同の気持ちである。
とはいえ、婚約者となった青年と最初は上手くいかなかったようで、配置換えの結果フローリアの世話係を卒業したリリナの所へ度々フローリアは突撃して愚痴めいた事を吐き出していたが。
「ねぇっ、聞いてよリリナ。ライアス様ったら街に出かけようって話になってたのに約束の時間になっても来なかったのよ。準備に時間がかかったっていうけど、わたしより時間がかかるって一体何に悩んでいたのかしら!?」
だとか。
「ねぇ、聞いてリリナ。この前はね、一緒に新しくできたお店を見に行こうって事になってたのに、ライアス様ったらそれ以外のお店に注意がいっちゃって、結局目的のお店に行く前に閉店時間になっちゃったの」
だとか。
他にもいくつかあったが、ライアスという青年もどうやら時間にルーズな性質であるらしい。
今まで振り回していた側のフローリアが振り回される側になっている、というものの、彼女も以前の自分と重なっている自覚があるためかあまり強く言えないらしい。
それなのに結婚して大丈夫なんだろうか、と思っていたが流石に正式な婚約を結んだあとでやっぱやめた! というのは難しい。不満があってもフローリアは彼と結婚する以外の道はないらしかった。
最初のうちは気の毒のようなそうでないような……なんて思っていたリリナであったが、いよいよ結婚してフローリアが家を出て相手の家に嫁入りしてからは、直接的な話は聞く事もない。
どうにか上手くやってるといいな、なんて思いながらもせっせと働く日々だ。
既にフローリアの姉であるイザベラはとっくに結婚してクルメリエ家から出ていってしまっている。
じきにフローリアの兄がこの家の当主となるだろう。彼の婚約者である令嬢は既に何度かここに足を運んでいるので、リリナも知らないわけじゃない。イザベラやフローリアがいなくなって少しばかり静かになったクルメリエ家であったが、彼女が嫁いでくるのであれば少しは賑やかになるだろう。
そんな風に思いながらもせっせと掃除に勤しんでいれば。
「聞いてちょうだいリリナ!」
なんとまさかのフローリアである。
どうやら馬車できたらしいが、来るという連絡はなかったはずだ。
これはいよいよ旦那に愛想尽かして出戻ってきたか……!?
戻ってきたとしても、流石にこれからフローリアの兄が結婚して新しい家族がこの家にくるのだ。あの人ならばフローリアとそこそこ仲良くやれるだろうけど、新婚早々に小姑がいるというのはちょっとどうなんだろう……なんて考えてしまう。
場合によっては早急に帰ってもらわないとな、なんて考えて、だからといって玄関先で対応するわけにもいかずリリナはフローリアと共に室内へと戻る事となった。
帰ってくるなんて連絡がなかったからか、勿論他の使用人たちも露骨に表に出してはいないがかなり驚いているらしかった。いざとなったら兄か両親を呼ばねばなるまい。そう決意して近くにいたメイドにアイコンタクト。すると彼女も心得たとばかりに頷いてくれた。
話も聞かずに帰れとは言えないので、一先ずはお茶を用意して話をするといった体裁をとる。
出されたお茶を一口飲んで、フローリアはほう、と息を漏らす。それはまるでどこか懐かしい物を見るような表情で。けれどもそれはほんの一瞬の事で、すぐさま思い出した! とばかりに「聞いてリリナ!」と口を開いた。
一体どんな愚痴が飛び出てくるんだ……どうなっても宥めて、それでいて穏便に帰ってもらわないとなぁ……なんて考えながらもリリナは、
「どうしたんですお嬢様」
そう、今までのように話を促す。
結婚して嫁いでいく前と同じやりとりにどこか安心したように、フローリアは「そうそう!」と勢いよく話し始めた。
「聞いてリリナ。ライアス様ったらこの前一緒に出掛けようって約束してたのに、当日になって出発時間に余裕があるからってよりにもよって本を読み始めちゃったのよ!
そうこうしてるうちに出発時間になったのに、ライアス様ったら出かける様子もないし話しかけても上の空。完全に本の世界に没頭してしまったの!」
「そうなんですか。それはそれは……」
フローリアお嬢様にもあった事ですね……とは流石に言えなかった。恐らく本人もそれをわかっているからこそ、きっと彼を強く責める事はできなかった。今回はそういう内容の愚痴なんだな、なんて思っていたが、フローリアはこれから話す先の内容を思い浮かべたのか、ふふっ、とどこか楽しそうに笑い始めた。
「それでね、どうせならわたしも! って読みかけだった本の続きを読み始めてたらね、気付いたらすっかり夜になってて! ライアス様もようやく本を読み終えたけどもう出かける状況じゃなくて。
それでねそれでね、どうしてかそこでお互い読み終わった本を交換してまた読み始めてしまったの!
今まで冒険活劇なんて読んだ事がなかったけど、ライアス様のお勧めする本はどれも面白かったわ。
ライアス様もわたしの好きな恋愛小説をこれはこれで中々に面白いな、なんて言ってくれて。
今度ね、二人で本の聖地と呼ばれている隣国へ旅行する事になったの!
リリナにも勿論お土産買ってくるわね。どんな本がいい!?」
早口でまくし立てるように喋るフローリアに、最初何を言っているのか理解が追い付かなかったけれど。
理解が追いついた時点でリリナは、
「えぇと、それではお二人のお勧めの本を……」
まず間違いなくきょとんとした顔になっていただろうけれど、それを隠す事もできずに言って。
対するフローリアは貴族夫人というよりは幼い子供のようなぴっかぴかな笑顔を浮かべた。
「任せて頂戴!」
――どうやら隣国へやや遅れた新婚旅行へ行く事になったらしいフローリアとライアスは、自分たちの読む本だけではなく本当にリリナのお土産も選んでくれたらしい。
戻ってくるなり渡された数十冊の本を両手で抱きかかえるようにして、置く場所あったかな、なんて考える。
旅行中に時間に関しての話を二人でして、どうやらそこで優先順位に関するあれこれも話題になったらしく。少しずつではあるが二人の距離は縮まっていったらしい。
どちらも本好きである事から、無駄に待たされている間に好きな本も読めないまま、なんていう例え話を出した結果ライアスもまたそれがどれだけ無駄な事であるかを理解してくれた、とフローリアは言っていた。
かつて、リリナが言った言葉を彼女は覚えていてくれたらしい。多少話の筋が異なってはいるけれど、リリナのおかげよ! なんて言ってたからまぁそういう事なんだろう。
今まではともかくあまり妻が実家に帰ってばかりなのも外聞が悪いかもしれないから、次からは手紙を出すわ、なんて言って、本当にその直後に手紙が届けられて。
中身は今までの愚痴とは違ってほとんどが惚気話であったけれど。
婚約どころか結婚も危うかった頃に比べれば随分と変わったものである。
文面からも漂う幸せの気配に、だからこそリリナは。
「お幸せに、奥様」
感慨深げにしみじみと呟いたのであった。