読み聞かせ令嬢の誤算
そのとてつもなく麗しくいけすかない少年が、私の御主人様となる人でした。
見事な白金色の髪に、けぶるような青の瞳。
彼は、子どもながらにこの世の欺瞞をシニカルに見通すかのようにその目を細めて――螺旋階段の高所から、傲慢かつ高飛車に言い放ったのです。
「家庭教師など俺にはいらない。邪魔だ。失せろ」
私は手にしていたトランクケースの持ち手をぐっと握りしめてから、もう片方の手でスカートを軽く摘んでお辞儀をしました。
顔にはもちろん、満面の愛想笑い。
「本日よりこちらで働かせていただくエリザベス・コプカットと申します。どうぞ、『リジ―先生』とお呼びください」
リジ―はエリザベスの愛称。親しみやすいように、三歳下の王子様に名乗りを上げたというのに。
ハッと鼻で笑われた。
残忍なまなざしで見下してきながら、御主人様はもう一度言った。
「聞こえなかったのか? 失せろ」
それが私と第三王子アルバート様との出会いでした(怒)。
* * *
コプカット家は、貴族とは名ばかりの貧乏一家。長女の私は、物心ついたときから朝から晩までよく働いていた。
(それを、嫌だとか辛いとは思わないようにしてきたの)
両親は気高く堂々としていて、まっとうな人たちだった。
落ちぶれた身の上を悲観してひきこもり、少ない使用人を怒鳴り散らしてさらに財産を枯渇させる愚を犯さず、とにかく家族の幸せのために働いていた。
周囲の人々と助け合い、困っているひとがいればすぐに手を差し伸べることで尊敬を集めていた。
さらには、三人の子どもたち全員に「幸せに生きるためには額に汗して働くこと」を徹底して身に着けてくれた。
私は教会の煙突掃除やストーブ磨き、裕福な家庭から委託された洗濯や繕い物で家計を助けていたけれど、年頃になるといよいよ勤めに出なければと気が逸っていた。
「どこかのお屋敷でメイドになろうと思うの」
私がそう言うと、母は少し考えてから言った。
「メイドといっても、最初が肝心よ。下級ハウスメイドからはじめて徐々に成り上ろうと思っても、最初に色がついてしまえばそこから抜け出すのは難しいわ。あなたは頭の回転もいいし、読み書きもできる。手先が器用でピアノもお裁縫も良い腕ですもの。語学を学んで教養を身に着ければ、御屋敷の奥様やお嬢様のお付きメイドとして奉公に上がれるかもしれない」
そこから、母はどうにかやりくりし、私に優秀な家庭教師をつけてくれた。
後に知ったけど、白髪交じりの貴婦人、ヘレン先生はかつて王宮勤めをしていて、お姫様の乳母を務めた経歴の持ち主だったとか。
引退した今でも、ほうぼうから相談が舞い込んできていた。
ある日、王宮からの使者が来て、長いこと泣き言めいた相談に付き合わされたヘレン先生は、「わかりました」と返事をした。そして私に言ったの。
「リジ―、あなた王宮に勤めなさい。お仕事は、第三王子アルバート様の家庭教師。わたくしの指導を受けていたあなたですもの、家庭教師のなんたるかはすでに十分わかっているわよね?」
* * *
脱ぎ散らかした衣服の片付けは、家庭教師の仕事に入りますか?
仕立ての良い乗馬服は、無残に絨毯の上に投げ捨てられていた。鹿革の乗馬ズボンは、脱いだままの恰好で床から生えている。ブーツは片方ずつてんでばらばら。
(なんでこんなことになるのかしら……! 王族はしつけというものをされないの?)
王子の私室は、凄まじく迫力がある。
天井が高く、窓の上部にはステンドグラスがはめこまれている。艶やかに輝く木材の壁には蔓草の彫刻が細かく施され、一面にはずらりと書架が並んでいた。さらには、天蓋付きの瀟洒なベッド、マホガニーの重厚な机、天鵞絨張りのカウチソファ等、貧乏貴族には値段の想像もつかないような高級家具ばかりが品よく収められているというのに。
シルクのシャツはくしゃくしゃで、クラバットは床に落ちたクッションの下敷きになっていた。
「あー、もう、だらしないっ! うちのコニーだって三歳になる頃にはこんなんじゃなかったわよ!」
まるで嵐が通り過ぎたみたいな部屋。
(毎日従僕が片づけているはずなのに、短時間にここまでできるなんて、嵐の中でも最低最悪のハリケーンとしか思えない。ハリケーン王子!)
不満はあれど、少しでも片付けようと、散らばった衣類を拾い集めていたのだけれど。
明らかに、使用済みの紳士下着を手にした瞬間、何かがぶつっときた。
「アルバートさま! どこに隠れてらっしゃるのか存じ上げませんが、ご自分で片づけてください!」
ガタン。
書架の前に、高い踏み台が置いてあって、音はそのてっぺんから。
おそるおそる見上げると、天井近い位置の本に手を伸ばしていたアルバート様がいた。
黙っていれば神話の美少年のような美貌に、にい、と意地悪な笑みを浮かべて見下ろしてきている。
「あ~あ。うるさいなぁ。びーっくりして、落ちるところだった」
踏み台の一番上に座り込んでいたアルバート様は、何を思ったのか、大きく体を傾けてみせた。
ガッタン。
踏み台の下の方が、ふらりと持ち上がる。アルバート様が反対に体を傾けると、ゆっくりと床につく。
ガタン。
つまりその音は、アルバート様がほとんど宙に体を投げ出したタイミングで鳴っていて……
あまりのサーカスめいた曲芸に、ひっと息をのんだまま全身が凍り付いた。
「あ、あ、あ、アルバートさま……!!」
「片付けろってことは、下りてきてほしいってこと?」
だらりん、と気だるげに首を傾げて尋ねられて、私は総毛だったまま両手を揉み絞った。
「落ち着いてください。落ち着いてくださいね。経験あります、いえ、言わなくてもわかっています。そうやって高所に上ったあげくに、下りられないでみーみー鳴いている猫、今まで何度か遭遇しています。大丈夫です、いま私がそこに行きますから!」
余裕があるふりしているけど、アルバート様は、下りられないに違いない。
誰かを呼びに行っている間に、落ちてしまうかも!
(その場合、アルバート様は木から落ちた林檎よりも激しく頭が割れ、全身の骨が残らず折れて……死)
私は一度目を瞑って、深呼吸した。
雇い主に、今死なれるわけにはいかない。ここできちんと勤め上げて、実家に仕送りしなければ、妹も弟も教育を受けられないし就職に影響も出てしまう……!!
「いざ、お助けに! アルバート様!!」
目を開けて、勇ましく叫ぶ。
トン。
上段から素早く下りてきていたらしいアルバート様は、床まで数段のところから軽やかに飛び降りてきて、私の目の前に立った。
天使の羽がその背に見えた気がするほどの、鮮やかさ。
性格の悪さを知っている私でさえ、一瞬見惚れてしまったというのに。
口の端を吊り上げて、にいっとわらった王子様はそれはそれは嫌味っぽく一声鳴いたのだ。
「みー」
「ねこ……」
すくすく成長されているアルバート様はすでに私より背が高く、腰をかがめて私の額に額をぶつけるほどに顔を近づけてきて、人でも殺しそうなほどの険悪さで言った。
「猫じゃねーよ。お前、ふっざけんなよ」
「ふざけたわけではなく、純粋に猫に見えました」
焦ったせいで、間違えた。ここは嘘でも「心配しました」と言う場面だった。
アルバート様は突然手を振りかざして、私の栗色の頭髪の上にがつっと振り下ろして爪を立てた。
「顔中ひっかき傷だらけにしてやろうか? 俺はしつけのなっていない猫だからな」
「存じ上げております」
誠に遺憾ながら。
私は手にしていたアルバート様の下着を差し出した。
「私の六歳下の弟でもこんなことしません。お片付けあそばせ」
白い歯をちらりと見せて、爽やか好青年風に笑ったアルバート様は、気前よく言った。
「持っていっていいぞ。替えはたくさんある」
ぶちり、と私の中でまた何かが音を立てて切れる。
「物は大切になさってください! まだまだ使えますよこれ!」
「そんなにじっくり見たんだ?」
もし私が猫なら、ぶわっと毛が逆立っていたはず。
尻尾引っこ抜くわよ、この駄猫……!!
(だめ。ムカついてもそんなこと言えない)
相手は王子様。私は教育係。心を強く持って、愛情深く優しく接しなければ。
気を取り直そうと軽く咳払いしていると、アルバート様に一冊の本を差し出された。
「俺、勉強は事足りてるから、年端もいかない女の助けなんかまったく必要としていない。だけど実は寝る時に本の読み聞かせをしてもらわないと、うまく眠れないんだ……」
三歳下のくせに十六歳のレディを「年端のいかない女」扱いしてきた。何か言い返してやろうかと息巻いてから、私は王子様に初めて頼られすがられている事実に気付いてしまった。
「読み聞かせしないと眠れない?」
そう、とアルバート様は頷く。
私は、差し出してきた本を受け取った。読んで欲しい本なのかな? と。
【アーヴィン夫人の情事】
(こ、これは私も題名しか聞いたことがない、全編ほぼ濡れ場の官能小説……!)
頬がかっと赤くなるのを感じながら顔を上げると、アルバート様は実に麗々しく微笑みながら、甘えるように言って来た。
「読んで?」
* * *
紳士下着(使用済み)と官能小説を持たされて、家庭教師の仕事はまったくさせてもらえぬまま、部屋から追い出されました。
敗・北・感。
ずうぅんと空気が淀むほどに暗く沈んで歩きながら、私は溜息をついた。
年下の男の子なんか、弟のコニーみたいなものだと思っていた。
(コニーは可愛かったな~~。お姉ちゃんのことだーい好きだったし)
ひきかえアルバート様は、自分とさほど年齢の違わぬ相手を教師として認める気はさらさらなく、それどころかセクハラとパワハラのコンボを決めてきた。
慎ましく生きて来たエリザベス・コプカット十六歳。官能小説の実物を手にしたのは今日が初めて。
(セクハラだと思うの。中身は想像もつかないけれど、淑女が口にしてはいけない言葉の数々がしたためられているはず)
ましてやそれを、年下の御主人様の閨にはべって声に出して読み上げろ、だなんて。
超弩級のセクハラだと思う。
打ちひしがれて使用人控室に戻ると、何かと気にかけてくれる執事のミスター・カワードとばったり顔を合わせた。
「リジ―お嬢さん、アルバート様とはうまくやっていけそうですか?」
謹厳実直そうなこの道五十年の老紳士を前に、私は答えに窮する。
(正直に言ったら解雇かな? まだなんの役にも立っていないの)
家庭教師の仕事をさせてもらえないばかりか、嫌がらせを受けている。使用人は立場が低いとはいえ、いじめられた側が職も失うなんて理不尽だ。
「そのご様子ですと、手を焼いていらっしゃるようで」
ミスター・カワードに見透かされたように苦笑されて、私はため息交じりに答えた。
「年が近いのが気に入らないのかもしれません。明日は別の作戦を考えます」
小娘だからセクハラされるのかな? 正直に言いたいのを、ぐっと堪えて。
代わりに、情報収集してみることにした。
「参考までにお伺いしたのですけれど、今までの方はどういう理由でお辞めになっています? 自分からお暇を願い出ていますか、それともクビですか」
あの悪行に耐え切れなかったのか、或いは役立たずの烙印を押されて放免か。
「アルバート様が、手の付けられないやんちゃになったのは、最近のことでございます。今までは年の近い姉君のロジーナ様と仲良くなさっていたのですが、嫁がれてからはふさぎこんでしまって」
わお、シスコン。
(そのお姉さまと年齢の近いはずの私には散々嫌がらせですか。同じこと、お姉さまが嫁ぎ先でされていたらどうします?)
たしか、ロジーナ姫といえば異国に華々しく嫁がれたはず。言葉が通じなくても、心細くても、逃げ出すことが許されないのは、今の自分と重なる。
知り合いもいない場所に、弱い立場で一人きり。
御主人様からは手ひどく扱われる。
それでも、おめおめと実家に帰るわけにはいかない。うまく勤め上げれば次の仕事にも繋がるだろうけれど、「解雇された」となればそれも難しいのだから。
「ロジーナ様は本のお好きな方で、文字を読むことのできないアルバート様に、毎夜様々な本を読んで差し上げていらっしゃいました。嫁がれてからは、別の者が読み聞かせを申し出ましたが、すべて気に入らないと三行も読むことなく追い払われてしまいまして」
私は耳を疑って、尋ねた。
「文字を読めない? 王子様なのに?」
今まで、それなりの教育を受けてきているのではないの?
ミスター・カワードは髪と同じ銀色の眉をひそめて、神妙な顔で頷いた。
「噂になっては困りますので、一部の者しか知りません。アルバート様は、一度見聞きしたことはお忘れにならない抜群の記憶力をお持ちでいらっしゃいますし、視力にも問題はないようですが、どういうわけか紙に書かれた文字や図形を認識できないとのことです。ですので、一度耳にした本の内容を忘れることはなく、諳んじることすらおできになりますが、『文字を読んでいるわけではない』と」
「では、アルバート様のお部屋に立派な書架があるのは……」
「『読めないものは仕方ない、世界中の本を耳で聞いてしまえば当面は事足りる』とのことで」
そこまで聞いて、私はようやく自分が勘違いしていたことに気付いた。
(アルバート様は、文字が読めない。【アーヴィン夫人の情事】は、題名も内容も知らなかったんだわ。どなたかが書架の最上段、他の方の目のつきにくいところに置いていった本で、姉姫のロジーナ様にも読んでもらったことがない本だったんだ……!)
嫌がらせされたと決めつけていたけれど、もしかしたらアルバート様がようやく私を家庭教師として適任か、試してみようとしていたのかもしれない。
「ミスター・カワード。私、アルバート様ともう一度お話してきます!」
歩み寄る機会を不意にするわけにはいかないと、私は急いで来た道を引き返した。
* * *
「本を読みに来ました」
アルバート様の私室に戻ると、不機嫌な顔をした王子様はカウチソファに片肘をついてぼんやりしていた。
「怒っていなかったか?」
私の手の中にある【アーヴィン夫人の情事】に物憂げな視線を投げて、ぼそりと言う。
「ちょっとした勘違いです。私の仕事は『本を読むこと』なのだと理解しました。アルバート様がお望みの分だけ、本を読んで差し上げます。とても記憶力が良いとお聞きしましたので、お勉強はそれで十分なのですよね」
ミスター・カワードから「文字が読めない」と聞いたことは、直接言わなかった。あまり人には知られたくないことかもしれないから。
少し間を置いてから、アルバート様はぶっきらぼうな調子で独り言みたいに呟いた。
「その本はまだ聞いたことが、いや、読んだことがない」
だから読んでほしい。
内容を知らないから、知りたい。
自分の部屋にあった以上、知っていなければまずい内容が書いてあるかもしれない。
たった一言から、アルバート様の焦りが伝わってくる。
(ご自分のお考えを、素直に言葉にすることができない方なんだ)
拗ねたような目をして、じっと見つめてきている。
「わかりました。お読みします」
たとえ未婚女性が口にするのはいささか憚られるような内容であろうと。
ましてや、見目麗しい年下王子様の面前であろうと。
(これが、私の仕事なのだから……! クビになったらここまで育ててくれた両親に、美味しいものを食べさせることもできない! お給料……!)
決意して、うつくしく金文字の押された表紙をめくり、タイトルを見つめる。
一枚、二枚、ページをめくってみて、無言で文字を目で追った。
「……………………」
無言になった私に、アルバート様が冷ややかに言い放った。
「読めないのか?」
(読めてはいるんです……! いるんですけど、これを音読するのは無理があります!)
ぱらぱらとページをめくってみる。全編濡れ場という触れ込みに誇張なし!
──からだが熱くなってきましたわ
――あッ……おやめください
――そんな、いきなり激しい
――こ、こんなところで、誰かが来たらどうしますの
――き、気持ちいい、もっと……! そこ、あんっ
(そこってどこですかーー!?)
ぱたん。
耐え切れなくて、本を閉じた。
アルバート様は、顔が真っ赤になってしまった私を不審に思ったか、立ち上がってすたすたと近づいてきた。
「どうした? 何が書いてある?」
「ええと……その……」
ここで読まなければ、まず間違いなく「仕事ができない」とクビにされる。
かと言って、花も恥じらう十六歳が、十三歳の王子様に読み聞かせるには、内容が。
あまりにも。
「リジ―先生?」
軽く身をかがめて、顔をのぞきこんでくる。
青宝玉みたいな瞳に見つめられて、私は腹をくくることにした。
「アルバート様、長くなりますので、どうぞおかけになってください」
椅子をすすめて、私は本を開きながら部屋を歩き始める。床に落ちていたブーツにつまずき、バランスを崩しつつもなんとか威厳に満ちた表情を保とうとする。
ヘレン先生のように。
(私はヘレン先生に推薦を頂いて、王子様の家庭教師としてここに来たんですもの。相応の知識と教養があると見込まれて。ならば、そのすべてを使っていまこの場で語ってきかせてあげましょう)
私から、気難しい御主人様へ。
アルバート様のためだけの物語を。
* * *
――むかしむかしあるところに、貴族とは名ばかりの、貧乏な令嬢がおりました。
――まるでお前のことのようだ。
――黙って聞いてください。その名は……ダイアナ。三人姉弟の長女で、物心ついたときから家計の足しになる仕事を見つけてはこれ幸いと請け負っていました。
――その本はつまり、ダイアナについて書かれた本なんだな?
――はい、そうです。タイトルは【ダイアナ一代記】貧乏貴族の娘に生まれたダイアナが、色々な事業に手を出し、財を成し、一代で大富豪となるまでのサクセスストーリーです。
――なるほど。実に興味深い。俺はゆくゆくは事業で財を成したいと考えている。ダイアナがどんな手順で成り上っていくのか、じっくり聞かせてもらおう。
――わかりました。とはいっても、最初のうちはダイアナも子どもですので、教会の煙突掃除やストーブ磨きで小銭稼ぎを始めるんです。
――貴族でもそんなことをするのか。
――お洗濯や繕い物も請け負っています。アルバート様の下着だって誰かが洗っているんですよ? 下準備として、いつも家の屋根から落ちる雨水を樽に集めておき、それをバケツに汲んで洗濯用ボイラーに運んでコークスをくべて熱するんです。その熱いお湯を木の洗い桶にうつして、石鹸で丁寧に手洗いをします。それから……。
――まるで見て来たかのように具体的だ。その本にはそこまで書かれているのか?
(見て来たことだし、自分でやってきたことですからね!)
だけどそんなこと、素直に言えない。
【アーヴィン夫人の情事】を読み上げるわけにはいかないから、今この場で私が【ダイアナ一代記】という架空の本の内容を語ってきかせているだなんて。
絶対に、気付かれてはならない。
――はい。前半部分は、ダイアナがいかにして最初の仕事を得るかまでの幼少時代が書かれています。できれば飛ばさないで聞いて頂きたいのですけど……。
余裕がないのを気取られないように、私は神妙に言った。
アルバート様は、教会の天井画に書かれた大天使様のような麗しい顔で、何事か考え込んでいたものの、「わかった」と言って小さく頷いた。
――その本にかけては、毎日少しずつ時間をかけて読んでもらうことにしよう。他にも本はたくさんある。
アルバート様の机の上には勉強用の本がうず高く積まれていた。
(文字を認識できないということは、書くことも苦手なのかしら。だとすれば、勉強はすべて読み上げが基本なのね)
あれだけの本があれば、時間いっぱい読み続けても、当面はしのげるはず。
ほっと胸をなでおろしている私に、アルバート様は不意に屈託なく笑いかけてきた。
――勉強が全部終わってから、特別に時間をとる。夕食の後、夜寝る前に読み聞かせてくれ。どうもその本は俺が質問したいことがたくさん書いてあるようだ。
アルバート様の笑顔を見てドキッとしたのは、(バレているのかな?)と思ったせいだ。
だけど助かった。
隙間時間を見つけて、毎日少しずつ【ダイアナ一代記】を書き進めよう。
(三人姉弟の長女、貧乏貴族のダイアナが事業主として成功を収めていく過程を、とことん勉強してお話して聞かせて差し上げましょう)
約束通り。
この日から、アルバート様はきちんと勉強に身を入れるようになりました。
* * *
(もしかしたら、文字の読み書きの秘密について、今までの先生との間で何か嫌な思いをしたのかもしれない。たまたま、私が知らないふりをしたから、お側に残るのを許してくださったのかも)
おそらく姉姫のロジーナ様が勉強をカバーしてくれていたのだろうけれど、異国に嫁がれて、アルバート様はまったく手詰まりになってしまったに違いない。それでも勉強しないわけにはいかないので、伝手を辿ってヘレン先生に相談が持ち込まれ、姉姫に年の近かった私が抜擢された。
心を入れ替えてからのアルバート様は、徐々に紳士としての振舞いも身に着けていき、部屋を散らかしたり、従僕たちの手を煩わせることもなくなっていった。
一年が過ぎる頃にはすっかり私にも折り目正しく接するようになっていて、その距離感は淑女と紳士のそれとして、一定に保たれていた。
就寝前の【ダイアナ一代記】問答もずっと続いている。
冬の冷える夜はココアを用意して待ってくれていた。
(ずいぶんとお優しく、気が利くようになられて)
――廊下、寒かっただろ。移動の手間をかけさせるのは申し訳ないけれど、淑女の部屋に押し掛けるわけにもいかないし、俺の部屋はそれなりに広いから、二人きりでも気詰まりでもないと思って。
ココアはいつも熱々で、見計らったように部屋に運んでくれる従僕がいるのだと思っていたら、ミスター・カワードに「アルバート様が手ずからご用意してらっしゃいますよ」と打ち明けられた。
それだけでなく、本読みが終わると、アルバート様はいつも部屋まで送ってくれるようになった。
ただの使用人にそこまでしてくださらなくても、と思ってはいたのだけれど。
ドアを閉める間際の微笑みと「おやすみ」があまりにも優しくて、私はずるずるとこの習慣に甘えてしまいました。
……さらに時が流れ、アルバート様はこの国の王族のしきたり通り海軍兵学校に進み、ほどなくして戦争に従軍。
別れの前、最後の夜の【ダイアナ一代記】読み聞かせの時。
アルバート様は、私にとてもあらたまった、厳粛な顔で質問をされました。
「ダイアナはいつも家族への仕送りのことを気にかけているようだが。その、本人は結婚はしないのだろうか?」
私も居住まいを正して、真面目にお答えしました。
「考えたこともないと思います。ダイアナは、仕事のことしか考えていません」
だけど。
(ずっとお側で見守ってきた王子様の無事を、心より、願っております)
* * *
戦争が終わりました。
「勝った国」「負けた国」があり、私の住むこの国もそのいずれかには属していましたが、どちらにせよどこの国も疲弊しきり、貧しくなっていました。
王子様付き家庭教師の任を解かれていた私は、一度実家に帰っていたものの、終戦を機に、再び都に上がって職を求めようと決意していました。
(王宮でお仕事頂ける機会なんかもうないと思うけれど、おかげさまで職歴はどこに出しても恥ずかしくないはず)
晴天の下、依頼の洗濯物を干しながら決意を固めていた私の元に。
「こんにちは。リジ―先生はこちらかな?」
物干し竿にはためくリネンの影から、私はおそるおそる声のした方へと顔を出してみました。
そこには、あの出会いの日から随分と成長なさったアルバート様のお姿が。
「ご無事でしたか」
「うん。それでね、早速だけど、僕は貧乏暇なし王族の端くれとして、手始めに事業に着手することになり、そのパートナーを迎えに来たところなんだ。どうだろう。一緒に【リジ―とアルバート一代記】を紡いでくれないだろうか?」
輝くばかりの笑顔で言ったアルバート様に、私は驚きの余りしばらく声がでませんでしたが、我に返ってようやく言いました。
「ちょうど仕事を探そうと思っていたところなんです。私でよければ喜んで」
素直さに欠けた私に、アルバート様はにっこりと微笑んでから跪き「よろしくお願いします」と言いました。
後日。
私の「パートナー」となったアルバート様に、面白そうに打ち明けられました。
「お守り替わりに【ダイアナ一代記】を軍に持って行ったら、風紀を乱すだの、よくやっただの周りに散々言われて取り上げられそうになったよ。死守したけどね。ところであれ、本当は【ダイアナ一代記】という本ではないみたいだね」
真相には気付いていらっしゃるご様子でしたが、私は固く口を閉ざして素知らぬふりを通しました。