礼拝
玄関を開けると俺より先に、影が家に入った。朝日を見ないように後ろてで扉を閉める。
昨夜は散々だった。賭けにも、幾分かの取り返しを狙った喧嘩にも負けた。
薄暗いワンルームには歳の離れた兄が既に起きていた。
「おう、ハキーム。これ着てみろよ。」
俺が一切顔を合わせていないのを気付いたのか手招きまでした。
「なんだよ、ねむてぇんだけど」
「そんな事言うな、折角18の祝いに奮発したってのによ。」
そう言って、テイラーカバーの掛かったままのハンガーを指差した。
遠まわしに仕事を探せと言いたいのだろうか?
「そんなに捻くれるなって。別に嫌味もなにもねぇよ。」
「んじゃなんで、わざわざブレザーなんか買ってんだよ。別に使わないじゃん。」
「まぁそんな固いこといわず、とりあえずあらためてみろよ。案外気に入るかもしれんぞ。」
手にとったそれは、初めて触れる感覚だった。厚く滑らかで軽い。
「明りは付けるな。そのまま着てみろよ、手伝うぜ。」
兄にされるがままに着せられ、深緑のタイまで絞められた。
「いいね。お前の広い肩幅に合うのを探すのは大変だったんだぞ?」
「兄貴、何がしてぇんだ?こんなもん買う金どこから?」
「黙っとけって、その格好で教会行くぞ。」
兄も掛けてあった明るい紺のブレザーを身にまとった。
「お前の靴も用意してるさ。迎えの手配も終わってる。お前に逃げ道なんてないんだよ。」
普段から陽気な兄だが今日は一段と何を考えているのか分からない。
「いやだぜ俺は、なんでこんな派手な格好で出歩かないといけねぇんだ?」
「今日はそういう日だからだよ。」
「誰かの結婚式か?」
兄は手早く身を固めると、玄関に俺の背を押し込んだ。
固く締め付けられるような感覚の革靴を履かされると
兄のにやけ顔が不快に感じるほどになってきた。
「ビックリするぞ。」
兄は俺の横をすり抜けて扉を押し開けた。先ほど俺を部屋に押し込んだそれは
今度は俺を世界に引きずり出した。
兄に着せられたグレーのサテンは朝日を露の様に弾いた。
「早く乗り込め。皆を待たせてるからよ。」
中古のミニバスには同じように着飾った男たちが乗っていた。
兄は俺を窓際の席に押し込むと自分が通路側に座った。
兄に見えないようにネクタイを少しだけ緩めた。
「おう、ジャバニ。横のデカいのは新入りか?」
「俺の弟さ。今回が初めてだがまぁ関係ないだろ。」
出発してすぐに後ろに座るライトグリーンのブレザーにエンジのスカーフをした男が兄に声を掛けてきた。
「拉致みたいなことするなよ。エレガントじゃない。」
きしむエンジン音の中でもよく通る声だ。
「そんなこと言うなよ。ビックリさせてやりたいだけだよ。」
「言いたいことは分かるさ。弟、名前は何ていうんだ?」
やっぱり話を振ってきやがった。
「ランドリー。連れにはドリーって呼ばれてる。」
少し威圧気味に名乗ったつもりだが緑の男の迷いない握手につい応えてしまう。
それから、バスに揺られる2時間ほど、緑の男はジョナサンと名乗った。
彼は明るく自信の身の上のことをずっと話していた。
「これからドリーは新しい世界に行くんだよ。今着てるそのブレザーはパスポートみたいなもんさ。
分かってる。普段のお前ならこんな一方的に話しかけてくる面倒なやつがいたら、
その太い腕で殴りつけてただろう。でも、お前は今その気が全く起きないんじゃないか?少なくとも
おれが初めてこのクラブの招待をもらった時はそうだったよ。」
バスが町の入り口に止まると大通りにはカラフルなブレザー姿の男たちが20人ばかり既に集まっていた。
シルクハットを被る者、パイプや葉巻を持つ者。磨き抜かれた革靴で子気味良いステップを踏むもの
「ドリー行くぞ。俺らのボスのところに挨拶だ。」
兄とジョナサンはすれ違う男たちと軽く抱擁しながら道端に不自然に置かれたソファーを目指した。
そこには紺のブレザーに黒いネクタイの小柄な老人がいた。
「サップお久しぶりです。紹介します。ジャバニの弟で今回から参加するドリーです。
出発前に少し話してやって下さいませんか?」
ジョナサンがサップと呼んだ老人はまだ火を付けていない葉巻を灰皿に戻して私を見た。
老人は顔や手先に多くの傷跡があるも柔らかい笑顔で自分の隣に座るように手招いた。
ソファーの端に座ると、老人が口を開いた。
「今日はなんでそんな上等なブレザーを着て着たんだい?」
この老人の前では不思議と素直に言葉が出てきた。
「朝家に帰ると兄が買ってきてたんだ。これ着て教会に行くぞって。結婚式かとおもったよ。」
老人は深くうなずいて俺の拳の上に掌を被せた。
「普段はどんな生活をしているんだい?」
「賭場に出入りしてる。こんな格好したのも初めてだよ。」
「では結婚式で喧嘩が起きない理由は分かるかい?」
「祝いの席だ。そんな失礼な事は出来ない。」
そうだ。わかってるじゃないか。と老人は呟いた。
「皆が祝いの日を大切にしているだろう?」
「そうだ、新郎新婦にとっては人生でも一度の日だ。大切じゃない訳がない。」
被された掌に少し力が籠った。
「お前にとって昨日はどんな日だった?」
「最悪な日だった。賭けにも喧嘩にも負けた。」
「今日はどんな日だい?」
私はは少し迷った。今日の事を表す言葉が分からない。
「よく分からない。でもいい日になりそうな気はしている。」
老人はマリファナを吸った後のように顔を綻ばせた。
「そうさ、お前の今日は普段とは違う日だ。変化のある日には希望がある。」
今朝から胸の内に合ったいいえぬ感情が静まって行くのを感じた。
「毎日は当たり前のようにあるわけではない。なら毎日を特別な日の様に振舞ってみようじゃないか。」
老人は立ち上がった。その後姿は農家特有の分厚さがあった。
「礼拝の時間だ。行こう。」
サップが立ち上がると集まっていた男たちが一斉に歩く向きを合わせた。