★32★ 七年前の真実。
もうずいぶん前に経年劣化で崩れ始めてから使われなくなった、王城の脱出路にあたる地下室の一室からウィルバート達を助け出してから一週間。
すっかり衰弱していたウィルバートに飲ませたあのリキュールは、アカネの錬成した氷砂糖を大量に使っていたせいか、魔力の高い人間には相当効き目があったらしい。
よくも悪くも意欲的になったウィルバートは、アカネの貴族制度を無視した提案を早速実現させるために、すぐにも城へ戻ると馬鹿なことを言い出した。ただ勿論そんな無謀な話はなしだ。
ひとまずその日の朝に母が亡くなったことを告げ、まずは自分の屋敷に戻るようにと諭し、誘拐犯の二人は俺と一緒に住人がいなくなったばかりの母の終の棲家に案内した。客人らしい客人など誰も訪れることのなかった母の別邸は、思わぬところで役に立った。
ウィルバートは最後まで渋ったものの、深夜の人気がなくなる時間帯に送ってやれば素直に戻り、その夜から二日間、家人達に比喩でも何でもなくベッドに縛り付けられたらしい。一応ベッドの中で城にいる陛下への手紙を作成する程度は許されたようだ。
今回の失踪事件は陛下の信頼する臣下だけで動いていたため、ウィルバートの失踪はただの風邪での療養ということで、騒ぎにもなっていなかった。この一件の騒ぎに対しての報告と、犯罪をそそのかした主犯者への処分と実行犯達の処遇を決めるため、三日目には仕事に戻った。
それからウィルバートはゴタゴタとした手続きや何かに追われ、実行犯二人の処遇が決まり、奴等は二度とアクティアに足を踏み入れることはできないという処分が下され、俺はそんな二人をアトアリア国のノーゼットの街まで送り届ける護衛任務をウィルバートから依頼された。
またアカネと離れるのは不安要素ではあったものの、この仕事をこなせばこれ以上足止めをしないと事前に書面で契約を交わしてある。だからこそ安心してアイツをウィルバートに任せ、隣国への護衛を請けることもできた。
今夜はその報告のために七年ぶりに生まれ育った屋敷を訪ねてきたのだが、幸いにも当時の使用人はあまりおらず、新しく雇用されたのだろう人間が目立ち、安堵のような落胆のような微妙な感覚を味わう。
かつて自分の私室であった部屋で、どこか他人の屋敷に上がり込んだような居心地の悪さを味わいながら、まったく当時と本の並びの変わっていない書棚に手を伸ばし、適当にくたびれた背表紙を一冊抜き取る。
ここにある本の内容は今でもそらんじることができるほど、当時の俺は必死に読み込んでいた。一頁ごとの隙間に書き殴られた余裕のない文字の羅列が、いっそ馬鹿らしくて。ウィルバートの帰宅を待つ間に家老に用意された酒を片手に、当時の自分のマヌケさを嗤った。
当時まだ俺に仕える気でいてくれた老執事は、すっかり様変わりした俺の姿を見て、肩を震わせながら『お帰りなさいませ』と。家を捨てた不甲斐ない長男を迎え入れた。
ぼんやりと本の頁を読むでもなく眺めていると、どうやらこの部屋の現主である人物が帰ってきたのか、廊下が騒がしくなる。しばらくしてノックもなしに部屋のドアが開き、現れたウィルバートは「お戻りでしたか」と薄く笑った。
本を膝に置いたままグラスを片手に「先にやってる」と言えば、ウィルバートは「ほどほどに」と肩をすくめつつ、トレイに載った未使用のグラスに酒を注いでこちらにやってくる。
実家の自室で、当時あれほど持て余していた義弟と酒を飲んでいるという非現実的な空間は、けれど、あの当時よりずっとしっくりと馴染んだ。
最初は無言で一杯。二杯目はお互いに注ぎあって無言であおり、三杯目で任務の完了を告げて、四杯目でようやく本題に入った。
「今度は陛下がアカネを手離すことを渋っているらしいじゃないか」
「おや、耳が早いですね。誰に聞いたんですか?」
「ガーランドだ。アイツとイドニアはユタになればラブロに赴任して、向こうで式を挙げるんだろ?」
「そう聞いています。幸いお二人とも家督は継げませんから。ラブロの監視官夫婦として向こうで着任してもらう手筈です」
さらっとこちらの話の矛先を微妙にずらす義弟に苦笑すれば、ウィルバートは薄く笑う。幼い頃ほんの気まぐれにコイツが見せた笑みは、未だに変わらない。
皮肉気なのか、泣き出しそうなのか、純粋に嬉しいのか判断のつかない笑み。かつては苦手だったはずの表情を目にしても、今夜の心は穏やかだ。
「アカネさんのことは尤も陛下だけではなく私もですが。しかも困ったことに陛下の純粋に彼女を慕う想いとは違って、もっと汚い思惑を持ったお偉方もです。彼女は政治的な価値が高すぎました。彼女本人にはまったくその気がなくとも、こちらにしてみれば喉から手がでるほど欲しい人材です」
瞬間、面白がるような響きと本気の揺らぎが入り交じる。
だがどちらの方に本気の思いが混じっているかを鑑みてやれるほど、こちらも歳上ぶってやるつもりもない。
「それはまずいな。純粋だろうが不純であろうが、わたしにとって面白くないことには変わらん。悪いが諦めろ」
「昔と現在を混ぜるのは止めて下さい義兄上。貴男は当時の方が大人でしたよ。それに陛下と言えどもまだ教え子です。こう見えても私は義兄上よりは歳下の扱いが上手いんです」
それまでの何でもないような声の調子から、一瞬だけ低くなった声音に「あの夜のことは」と切り出せば、ウィルバートはこれから続けようとする言葉を拒絶するように首を横に振った。
「昔話に付き合うつもりはありません。義兄上はすでに私の出した罰を受け、過去の清算をした。それにやはり勘違いしておいでのようですが、別に私はそのことを詰りたかったわけではない」
ふいと逸らされた俺と同じ父から引き継いだ暗緑色の瞳が、書棚に並べられた魔導書の背表紙をジッと見据える。当時は何の知識もないまま屋敷に引き取られたウィルバートに先を越され、次第に手を伸ばすたびにやるせなさに押し潰されるようになった。
思えば忌々しい記憶しかないような書棚だが――。
「私は貴男を怒らせたかった。いつもいつも聖人面で、私を庇うときには声を荒げるのに、自身の怒りには無頓着だった義兄上と、たぶんですが……兄弟喧嘩がしてみたかったんですよ」
思いがけない発言に内心少し驚いたものの、案外そんなものかもしれないと。長くいがみ合った果ての終着にしては穏やかな感情が胸に広がる。
「その点は、昔の口調よりも今の義兄上の口調の方が、こちらも罵りやすくてちょうどいい。お似合いですよ」
似ているのなんてクソ親父から受け継いだ瞳の色くらいな俺達は、それでも。今も昔も変わることなく、鏡合わせのような義兄弟だった。




