★29★ 次から次へと。
パチパチとはぜる暖炉の火の音を聞き、カーテンを僅かに開けて窓の外の雪明かりを眺めているうちに、ついウトウトと船を漕いでしまったときだった。
その姿を見られたのかどうか、フゥーと、深い溜息のような音を聞いて慌てて居住まいを正す。
しかし予想していたような呪いの言葉が吐き出されることはなく、室内には変わらぬ静けさだけが横たわっていた。普段ならそこで安心してまた様子を見つめるだけだが、母にかけた毛布の上を掠める雪明かりをぼんやりと眺めているうちにふと異変に気づく。
それでも最初の数分は自分の目の錯覚だと思って息を潜めた。だが異変は己の疲労を言い訳にしても誤魔化せない。目を凝らしたところで毛布を持ち上げる弱々しい起伏は、もうなかった。
椅子から立ち上がりベッドに近づいて「母上」と声をかけるが、返事が返ることはないと冷静に捉えている自分がいた。
つい今し方この耳にしたのは、死に瀕した動物が、最後のときに肉体に食い込んだ魂ごと吐き出すための深い深い溜息だ。枯れ枝のようになった手に触れるも、振り解かれる気配はない。
「……子供の頃でもこんな風に母上に触れることはなかった。もう、あれほど毛嫌いしたわたしの手を、振り解くこともできませんか」
返る答えなどありはしないのに。分かっていても女々しい言葉しか浮かんでこないのは、長年のしがらみがそうさせるのか。
「母上、貴女の人生を狂わせた不甲斐ないこのわたしが、これから先も生きることをお許し下さい」
ほんの僅かな時間だけ、まだ魔力がほとんどないことを認めきれずに、この出来損ないを愛そうとした貴女を、俺だけは憶えている。おずおずと手を伸ばして『ウルリックは、人より少し成長が遅いだけよね?』と、抱き締めてくれた貴女の記憶を、俺だけは忘れずに墓の下まで持って行く。
硬直が始まる前に手を組ませ、水差しの下にあった布巾で縛る。部屋を出る背に『ウルリック』と。随分若い頃の母の声が聞こえた気がしたが、それを振り切るように部屋を出た俺を、ドアの前で待機していたシュテンが心配そうに見上げる。
「ああ。待たせたな、シュテン。明日はようやくオマエの主人を迎えに行けるぞ」
今は記憶の中に煙る母の戸惑う声よりも、暢気でお気楽なアイツの声が聞きたいと思ってしまうのは、最後の親不孝になるんだろう。
***
あのあとは眠らず早朝に教会の人間を呼んで、身内だけの葬儀の準備を整えた。とはいえ書類上の息子としては、ウィルバートが長男として記載されている。俺にできるのは手配をして、嫌がる義弟に形だけの葬儀の喪主を務めさせるだけだ。
昼のアカネから届くベントウを食ったら、直接屋敷の使用人のふりをして王城に出向き、約束通りアカネを取り返して終わりだと。そう思っていたのに――。
「城の自室からアカネが居なくなったわ」
昼にはまだだいぶ早い時間に城からやってきた馬車の中から飛び出してきたイドニアは、開口一番そう言った。
現実味のないその言葉に「は?」と胡乱な声が口をついて出たが、手も借りずに降りたイドニアを追いかける形で下車してきたガーランドも、こちらを見て小さく頷く。知らず喉が鳴り、ビリリと膝が震えた。
「昨夜から今朝方にかけて行方をくらましたらしい。オレ達は今朝早く王城に呼び出されて、こちらで匿っているのではないかと陛下から直接訊ねられたのだ」
「おまけにこちらが行方を訊いても“知らないならば余計な詮索はするな”ですって。陛下とはいえあんまり腹が立ったものだから、泣き真似をして“親友として心配するのは当然のことでございます、陛下。どうか恩情を”って言ってアカネの使っていた部屋に通してもらったのよ」
「見事な泣き真似すぎて、一瞬陛下をお恨みしてしまうところだった」
「まぁ……不敬だけれど嬉しいわ、ガーランド」
目の前で突然始まったやりとりを無視して部屋に引き返し、旅の装束に着替えて武器を帯び、シュテンを連れて城へと向かおうとしたところで、ガーランド達にその行く手を阻まれた。
「そこをどけ。ウィルバートに会いに行く」
「駄目だ。そんなに殺気立っている相手を前にどけるわけがないだろう。城に入る前に衛兵に取り押さえられるのがオチだ。少し冷静になれ」
「――射抜かれたいのか?」
苛立ちに思わず矢をつがえた弓を向けると、俺とガーランドの間に滑り込んだイドニアが「話は最後まで聞くべきだわ」と、むしろ以前俺がイドニアに向けて言いたい気持ちにかられた言葉を吐く。
苛立ちで吐き気を感じるほどだったものの、何とか感情を押し殺して弓を下げると、イドニアは「いいわ。そのまま待っていなさい」と言って一旦馬車へと引き返した。
再び戻ってきたその手にあるのは、アカネが愛用しているオリーブグリーンのくたびれた鞄だ。
「この鞄を持ち出すだけでもかなり苦労したのよ。何か失踪の手がかりになるものがあるかもしれないから、アカネには悪いけれど中身を探ってみましょう」
その言葉で目の前にいる我儘女の言わんとすることを理解し、頭がやや冷静さを取り戻したと同時に、疑問も浮かび上がった。
「確かに試す価値はあるかもだが……どうやってこんな目立つ大きさのもんを、客室とはいえ王城の一室から盗んできたんだよ?」
「それはその――イドニアがしばらく部屋に一人にしてくれと言うから、そうしただけだ」
「足止めしておいて見え透いた嘘はつくな。一気にこの鞄がアカネのものかどうかの信憑性がなくなる」
またも臨戦態勢に入りかけたところで、イドニアが溜息をつきながら自身のドレスのスカート部分を指差した。
「一人になった隙にクローゼットを物色して、鞄を見つけたから持ち出すために足に挟んで、スカートの中に隠しただけだわ。あとは貧血になったふりをして、ガーランドに抱き上げられて退場したのよ」
胸を張ってそう種明かしをする姿に、出会ったばかりの頃の貴族らしさはなりを潜め、冒険者らしい強かさがだいぶ幅をきかせている。これで令嬢生活に戻れんのかと思っていたら、ガーランドが苦い表情をしていた。ざまあみろ。
だが張りつめていた空気が急激に軟化したところで、イドニアの持っていた鞄に変化が起こり始めた。淡く雨の前夜の月にかかった靄に似た光を放つ鞄を、咄嗟にイドニアの手から取り上げたその瞬間。天地がぐるりとひっくり返った。




