★9★ どこを目指してんだコイツ。
狩人にとって狩りやすい動物というものはあまり存在しない。草食獣はすばしっこいものが多く的となる身体も小さいせいで狩りにくいし、肉食獣というのは草食獣よりも大きくて的にしやすいが、代わりに知恵が働くので狩りにくい。
さらに魔獣というのは普通の獣よりも格段に狡猾で狩りにくく、魔素を吸収するせいか大型化しやすいために、時として討伐する冒険者ですら返り討ちにされてしまうことがある。狩るか狩られるか。命がある以上、弱肉強食の理からは逆立ちしても逃れられない。
まぁ、そんな当然のことが今更何だという話ではあるんだが――……。
目の前でギッと強く引き絞った弓弦の音に、通常規格でさえ手を焼く熊の魔獣が気づいて立ち上がった。まだこちらに背中を向けてはいるが、奴等は意外と鼻が利く。こっちが隠れている茂みがバレるまで時間の問題だ。
六メートル近いかという上背に相応しい横幅からくり出される一撃は、人の身体で受ければひとたまりもない。しかし無謀としか言いようのない巨体にある魔石の大きさは、気ままな一人旅であれば半年は働かないで済む。それにこちらには最近手に入れた切り札がある。
キョロキョロと周囲を警戒する巨大熊はこちらに気づいていない。悩んだ末に結局開いていた身体を一度閉じて、一日に三度しか放てない呪いを施した弓につがえ直し、ついでにアカネ手製の飴を一粒口に含む。
指先に触れた自分の髪に飴によって増幅された魔力を流し込み、狩りの合図が出されるのをしばし待つと、少し離れた茂みがチカリと光った。アカネの手鏡だ。
それと同時に鏡の光に反応した熊の魔獣が、がたいに似合わぬ速さで茂みを振り返って四つん這いになる。背中の毛が逆立ち、低く呻り声を上げる魔獣が地を蹴って飛び出すかというその一瞬。
四つん這いになった魔獣の腹の下に猫ほどの大きさの影が潜り込み、奴の後ろ脚を強襲した。まさか自分が獲物と認識した個体が、体格の違いに臆することなく自ら向かってくるとは考えていなかったのだろう。
身体の下に潜り込んだ獲物を殺そうと、怒りの咆哮を上げて立ち上がった熊の魔獣は完全に頭に血が上った様子で、さっきまでのように周囲に気を配ることも忘れたようだ。
小さな影はさらにもう一方の脚に食らいつき、出てきた方の茂みとは逆の方向にある茂みに逃げ込む。二度に渡る攻撃に完全に冷静さを失った魔獣は荒い呼吸を繰り返し、口の端から涎を垂らしながら四つん這いになって、小さな影が逃げ込んだ茂みに突進をかけようと身を屈めかける。
的にするには小さいが、一撃で仕留めるにはうってつけ。身体に不釣り合いに見えるその小さな頭が、中腰になった体制で無防備に横を向いた。普通に狙ったところで固すぎて弾かれる頭骨の中で、狙うは眼窩にはまった赤い目だ。
横顔を向けた隙を逃さず、一気に髪を媒体に魔力を注いだ矢を指先から離す。放たれた弓矢は仄かに鱗粉のような火の粉を纏い、寸分違わず巨大熊の赤い目に食らいつき――……ボンッと破裂音を上げて肩口から頭を消し飛ばした。
「あらら、せっかく目を狙ったってのに。ま、でもそういや関係ねぇわな」
炭化した肩口からは鮮血が噴き出すことはなく、代わりにタンパク質の焦げる臭いと、熊の後ろにあったはずの茂みを一部焼失させて道を作る。頭を失った巨体は二歩ほど無様にたたらを踏んで、大きな音と振動を残してその場に倒れ込んだ。
土煙の収まる頃に茂みを出て、ただの肉塊になった魔獣のなれ果てへと近づき、腰から狩猟ナイフを手に見下ろす。一応この状態になっても筋肉の状態によっては動くので、様子見をかねて痙攣が止まるまでジッと待つ。
興奮状態で膨れ上がっていた筋肉が徐々に萎み始め、立っていた毛が寝始めたところでナイフを鞘から引き抜いてしゃがみ、全体重をかけて一息に心臓の上に刃を突き立てた。最初は少しずつ裂けた傷口から滲み出していた血液は、次第にゴボゴボと押し出されるように溢れて俺の手を汚す。
ぬめつく手触りを気にせず固い毛と分厚い脂肪の手応えにさらに力を込め、柄の滑り止めまで押し込んだところで、切っ先にカツンと肉とは違う硬さのものが触れた。そこで切っ先が止まった周囲の肉を掻き回して異物の大きさを確かめる。
「へぇ……これはこれは、随分珍しいのに当たったもんだ」
思わず唇の端がつり上がり、そんな言葉が口から零れた。きっと今の自分の顔を見たらアカネの奴は怯えるだろう。そう考えたら少しばかり大物に出会えた興奮も収まって、無機質にその異物を取り出すために胸を開く作業へと移れた。
中から現れたのは、この巨体を動かすに相応しい大きさをした紫色の魔石。魔獣の中でも特に大型化して強くなったものは、体内でも一番力を必要とする部位に魔素を溜めてこれを作る。上機嫌で心臓の中から引きずり出していたら近くの茂みが揺れて。
そこから這い出してきたアカネは俺の捌いた熊を前に、一瞬だけ顔を強ばらせてから「今回のは大物ですね」と言った。その垂れ目でとろくさそうな雰囲気からは予想し難いことに、コイツは意外と平気な顔でこういう場面を見る。
以前どうして平気なのかと尋ねたら『秘密ですよ』と、常なら暢気な表情を曇らせたので、それ以降は訊いていない。そんなアカネの横からひょっこりと、大型の猫ほどの大きさになった切り札が顔を出す。
「おう、今回のも大物だ。特に今回のは滅多に見ないやつだな。よくやったアカネにシュテン。オマエ達のおかげで割とあっさり片が付いた。明日は冒険者ギルドで今まで集めた魔石と調味料を売り払って、久々に宿で眠れるぞ」
そう二匹……いや、一人と一匹の頭を撫でかけ、手が血塗れだったことを思い出して口頭で褒めれば、アカネが「ふふふ、やったねシュテン、褒められたよ」と隣に声をかけ、まるで返事をするように「キューン」とシュテンが甘えた声を出す。
毛玉だった時は黒っぽかったが、今では少し紺色がかった色味になっている俺とコイツにだけ従順な子狼の名の由来は、アカネの国では有名な大盗賊の片割から名を拝借したものらしい。
最初にそれを聞いた時は名付けの趣味がどうかと思ったものの、大の酒好きだったということだから、親近感からきたのかもしれん。
ラブロの町を出てから昨日で二週間。その間ほぼ決まった辺りをグルグルと回って狩りをしていたのは、何もレシピを売る料理人兄弟から狩人兄弟に職業替えをしたのではなく、冒険者ギルドに張り出される依頼用紙が更新される時間を待ってのことだ。
あれが剥がされて次に同じものが張り出されなかったら、相手が飽きたか諦めた証拠。もしくは捜してはいても重要度が下がったというところだろう。何にしても不気味な存在には違いないが、潜伏期間中にシュテンがここまで育って使えるようになったのは嬉しい誤算だ。
あとは、アカネの獣使いとしての素養。これも嬉しい誤算には違いないが、恐らく今後役に立つことはないだろう。そもそもコイツのチグハグな能力は、役に立てそうな場所が本人にとって危険に思える。
ただ動物を飼った経験がないと言っていた通り躾は完璧に我流のようで、悪戦苦闘する様を毎日面白く見ていた。が、問題はコイツがシュテンに与える餌だ。
魔獣は魔力を含んだ毒の餌を好んで食し、体内でより強力な魔素を生み出して身体を変化させていく。したがって本来自然環境下なら少しずつしか摂取できないものなのだが、これが与えられる食事から魔力を三食効率良く摂れるとしたら――。
時には金を凌ぐ高額な調味料を錬成する能力に、獣使いとしての素養、魔力を増幅させる料理、そこに魔素を好んで毒餌を食べる魔獣。本当にどこを目指してんだコイツはと思わなくもない、と。
突然その華奢な身体から“オロロロ゛ロロ”という気色の悪い音がして、顔を真っ赤にしたアカネが「取りあえず大物も倒せて収入源も得られましたし、ウルリックさんもお疲れっぽい気がしますから、そろそろお昼ご飯にしましょう!」と、誤魔化すように言った。
この緊張感のなさと全身胃袋なのではないかという食欲。人が誰のために頭を悩ませているのか、コイツはまったく考えつかないらしい。
しかし手を血塗れにしている男を前にしての台詞選びとしてどうかと思う一方で、フッと気が抜けるこの瞬間は一種、非道な行為が常態化した自分への救いだと感じる時もある。
「ほーぅ、それは妙だな。俺の中では食事をした記憶が割と新しいぞ」
「それはウルリックさんの記憶違いですよ。ねぇ、そうだよねシュテン?」
急に話を振られたシュテンが「フューン」とささ鳴きを返すと、アカネは「ほらね、シュテンもそう言ってます」と都合の良い翻訳を押しつけて、心底楽しそうに笑いやがった。




