第87話 もしも私があなたに負けることがあるとしたら、理由はたったひとつ。それはあなたが…
次の日の朝。
宿屋「カプレア」にて。
ほとんど旅立つ準備を終えたジュリアがいた。
ガランとした食堂。
それが懐かしい場所にさえ思えた。
ロミーはもちろん、レニーやラーサやセシルがいた日々。
それは、ひたすらにぎやかな日々だった。
でも、ジュリアは意外と楽しかったのだ。
どうしてだろう?
ジュリアにとって、少しもいいことなんてなかった。
そのはずなのに、思い出すと、どうしてこんなに切なくなるんだろう?
少し感傷的になってしまっているようね・・・。
ジュリアはゆっくりと首を振って、荷物を手にした。
あとはこの町を出て行くのみ。
そのときだった。
不意にひとりの女が、宿屋に入ってきた。
「あら?これから逃げ出すところだったのかしら?しっぽを巻いて退散、というところかしらね」
ラーサだった。
ラーサは昨日の夜、ジュリアとロミーの会話を陰から聞いていた。
そして、今日の朝になって、ここに現れたのだった。
「誰がしっぽを巻いて退散よ。あなたはいつもいつも私のジャマばかり。今回も、結局あんたのせいで・・・」
ジュリアは言いかけて、気づいた。
ラーサに出くわしたのは、これが初めてではない。
このレオネシア大陸のいろいろな場所で、ジュリアとラーサは、いつも誰かしら男をめぐって、張り合ったりしていた。
そしてラーサには、これまでいつも大事な場面で、ジャマされてばかりだったのだ。
でも、今回は?
たしかにラーサは、横からロミーを誘惑しては、ジュリアの仕事をやりにくくした。
でも、本気でジュリアをピンチにするようなことはしなかったのだ。
どうして?
なによりも、ラーサは私が「死神のジュリア」と呼ばれる諜報員であることを知っているはず。
それなのに、今回のラーサは、それをほかの誰にも言わなかったのだ。
「そういえば、どうして?あなたは私の正体を知っていたはず。それなのに、どうして何も言わなかったの?なぜ誰にも言わずに、黙っていたのよ?」
不思議に思ったジュリアが聞いた。
「だって、今回のあなたは違うと思ったから。今回のあなたは、本気だったんでしょう?」
心まで見透かすような、ラーサの視線。
それが恐ろしくなって、ジュリアはラーサから目をそらした。
ラーサはかまわずに続ける。
「だって、私が本気になったら、男なんてみんな私に夢中になるものなのよ。ジュリア?あなたが相手になるわけないじゃない。ペタンコの胸に、無駄に高いプライドに、ひねくれた性格。男だったら、みんな私を選ぶわよ。事実、これまでもみんな私を選んできたでしょう」
唇をかむジュリア。
悔しいけれど、否定できない・・・。
「でも、今回は違った。ロミーは私がどんなに誘惑しても、あなたしか見ていなかった。私がどんなに近づこうとしても、あなたにかなわなかった。そんなことはありえない。男だったら、みんな私を選ぶに決まっているんだから」
「とことん失礼な言い方ね。私にだって、あなたにはない魅力があるんだからね」
「いいえ。女として、あなたが私に勝てるところなんて、なにひとつないわよ。断言する。あなたは私に勝てないはずだった。それなのに、ロミーには、あなたしか見えていなかった。どうして・・・?その答えはたったひとつ。あなたがロミーのことを本気で好きだったから。あなたが本当に、ロミーのことを好きになってしまったから。それ以外にはありえない」
「・・・・・・」
「さすがに私がどんなにいい女で、どれほど優れた恋愛テクニックを持っていたとしても、本気の恋にはかなわない。本気で好きになられたら、私にだって手が出せないわよ」
さすがに数々の男を手玉に取ってきたラーサだ。
恐ろしいほど、男の気持ちを、そして恋する女の気持ちをよく分かっている。
脱帽だった。
悔しいけれど、何も言い返せない。
ジュリアはラーサの顔を見た。
意外と穏やかで、優しい表情をしていた。
それがますます悔しくて、ジュリアの心をかき乱した。
「でも・・・。これが初めてじゃないんだからね。あなたじゃなくて、私を選んでくれた男は、これまでにもいたんだからね」
精一杯のジュリアの抵抗。
「知っているわよ。たしかアイザック・・・とかいう名前だったかしら?ここと同じような小さな町の町長さんだったわね。彼も、私というものがそばにいながら、最後はあなたを選んだ。知っているわよ。あのときも、あなたは本気だったんでしょう?あのときも、あなたは本気であの町長さんに、恋をしていたんでしょう?」
ラーサはこともなげに答えた。
図星だった。
まだ何も分からない少女の頃の記憶。
そのときのことを思い出して、ジュリアの胸が痛んだ。
「せっかくだから、いいことを教えてあげる」
ラーサはそう言って、ジュリアの耳のそばまで口を近づけた。
ささやいたラーサの話。
それはジュリアにとって衝撃的な話だった。
そんな・・・どうして?やっぱり!
ジュリアは混乱していた。
「ウソよ!ウソ!」
思わず大きな声が出た。
でもラーサは落ち着いて答えた。
「間違いないわよ。わざわざ本人が、私に伝えてから、出ていったんだから。あの人は、どんなことをしてもあなたを守ろうとした。あなたを救い出したかったのよ」
ショックで何も考えられなくなるジュリア。
その場に立っていることさえ出来なくて、いすに寄りかかって、やがて座り込んだ。
「でも、まだまだ通算では、私の方が圧倒的に勝っているんだからね。8勝2敗。普通の男なら、絶対にあなたよりも私を選ぶんだから」
最後のラーサの言葉さえ、ジュリアの耳には届かなかった。
いろんなことが、ジュリアの頭の中を、グルグルと回っていた。
そんなことが・・・。
そんなこと、あるはずない。
どのくらいそうしていたのだろう?
気がつけば、長い時間がたっていた。
いつの間にか、ラーサはいなくなっていた。
よろよろと立ち上がるジュリア。
いったい私は、これまで何をしていたのだろうか?
青白い顔のままで、荷物を抱えたジュリア。
彼女はそのままよろよろと歩き出した。
宿屋のドアを開けて、外へと出た。
外は悲しいくらいの快晴で、太陽がまぶしかった。