第84話 毒とコーヒーと自由の楽園
ジュリアは西の国、ワーレンのはずれにあるカフェにいた。
ジュリアがしばらく待っていると、ひとりの男が音もなく現れた。
いつもどおり、無表情な男。
そこにいる気配すらも、感じられない。
「ちょっと!どういうことなのよ?どうして、ロミーがいない間に、魔法石の鉱山が襲われたのよ?」
ジュリアは怒った口調で詰め寄る。
「別に・・・。いつもどおりのことだ。お前が細かい作戦の内容まで、知る必要はない」
男の表情は全く変わらない。
「そんなことを言っても・・・。おかげで私が疑われて、ロミーにももう会えなくなったわよ。これからどうればいいのよ?」
「どうすればいい?お前の任務は、ロミーに近づくこと。近づいて、思い通りに動かせるようにすること。それだけだ」
「だから、それが出来なくなったんだって。あなたたちのおかげで・・・」
「それでもなんとかする方法を考えるのが、お前の任務だろう」
全くお話にならない。
ジュリアは首を振った。
それにしても、今日はどこか表情がいつもと違う気がする。
何かをたくらんでいる態度に思えた。
そのとき、ウェイターがコーヒーを持ってきて、2人の前に置いていった。
「ちょっと失礼する」
それと同時に、男は席を立った。
残されたジュリアとテーブルとコーヒー2つ。
ジュリアはそのコーヒーを見つめながら、しばらく考えていた。
ほかに客はいなかった。
今なら誰も見ていない。
自分の分と男の分。
ジュリアは置かれたコーヒーを、そのままそっと入れ替えた。
念のためだ。
相手がなにかをたくらんでいるのだとすれば、どんなに慎重になってもなりすぎるということはないだろう。
すぐに男は戻ってきた。
目の前に座った男は、なんの疑いもなく、コーヒーに口を付けた。
それを確認してから、ジュリアも目の前のコーヒーに口を付ける。
2人ともしばらく無言だった。
やがて男がゆっくりと話し始める。
「明後日。2日後に、タナシスへの総攻撃が行われる。お前の任務は、その日にロミーを連れ出すこと。それがすべてだ」
「ちょっと待って!だから、それが出来なくなったんだってば。あなたたちのせいで、その方法がなくなったのよ」
男は不思議そうな顔をした。
「それぐらいのことで、お前がロミーを連れ出せなくなる?そんなはずはないだろう。お前ほどの経験と実力があれば、今からでも簡単にロミーの心をつかんで、どこへだって引っ張り出せるはず」
「・・・・・・」
図星だった。
屋敷に忍び込んででも、手紙かなにかで呼び出してもいい。
なんとか会う方法さえ作れば、ロミーを呼び出すことは難しくない。
ジュリアには分かっていた。
でも・・・。
今のジュリアは、そんなことをしたくなかった。
いや、出来なかった。
「そんな簡単に言わないで。2日後なんて急すぎる。無理よ」
あえてとりつく島もなく断ったジュリア。
男は再び考え込んだ。
「そうか・・・。これはお前にとって、チャンスだと思っていたんだが。お前にとっても、いいことだと思っていたんだが」
「なにがチャンスよ?私がロミーを呼び出して、その間に盗賊になりすまして、町を襲撃する。恨まれるのは、私だけじゃない!」
「だから、お前はそのまま逃げればいい。ロミーと一緒に、誰も知らないところまで逃げて、そこで一緒に暮らせばいい」
「えっ?」
ジュリアにとって、それは意外な提案だった。
ロミーと一緒に、誰も知らない場所で、2人で一緒に暮らす?
思いもよらない提案。
「それは・・・私に諜報員をやめろということ?どうして?」
「諜報員なんていつまでも続けられるものじゃない。有名になってしまえば、仕事はやりにくくなる一方だ。いつかは、やめる日が来ると思っていた」
「本当に?」
「ああ・・・本当だ。それに、お前には、この仕事は向いていない。やめるのなら、早い方がいい」
思ってもいない言葉。
諜報員失格。
ジュリアにとっては、その言葉も少しショックだ。
だが、それ以上に大きな言葉。
「ロミーと一緒に、誰も知らないところまで逃げて、そこで一緒に暮らす」
そんなことが出来るのだろうか?
男は本気なのだろうか?
まるでジュリアの考えを先回りしたかのように、男が続ける。
「ああ、俺は本気だよ。お前は明後日、ロミーと一緒に町を抜け出す。そのまま、誰も知らない場所まで逃げて、そこで一緒に暮らせばいいんだ。もっともお前とロミーがそうしたいと、言うのならばだが」
それは魅力的な話に思えた。
ロミーと2人で、全く新しい人生を作り直す。
それは楽しい未来に思えた。
でも・・・。
ジュリアにその話を飲むことは出来なかった。
なぜなら、それはタナシスが襲われて、敵に奪われることを意味するから。
ロミーの生まれ育った町が襲われて、占領されてしまうことを意味するから。
だから、ジュリアは精一杯強がった。
「バカバカしい。私が男と2人で逃げて、どこかの町で普通の暮らしをする?そんなこと、まったく興味ないわよ。私は生まれついての諜報員なんだから。ぜーんぶ演技。私は女優。私は人をだましてこれまで生きてきたし、これからも生きていくんだから」
男は意外そうな顔をしていた。
「そうか・・・まあいい。好きにするんだな。でも、総攻撃は2日後。これは動かせない。お前の任務は、その日にロミーを連れ出すこと」
「だから無理だって。そんな急には出来ないの、時間をちょうだい」
男は黙って首を振った。
「お前には出来る。そして残念ながら、お前に拒否する権利はない」
そう言って、男は小さな瓶を取り出した。
瓶に入った透明な液体を、男が飲み干す。
「これは解毒剤だ。さっきのコーヒーには毒が入っていた。もちろん、俺のコーヒーだけではない。2人とものコーヒーにだ」
ジュリアはめまいを覚えた。
慎重になって、念のため2人のコーヒーを取り替えたはずだった。
でも、そのどちらにも、毒が入っていたのだ。
「そのままだと、お前は3日で死ぬ。それまでに解毒剤を飲む必要がある。だから、お前は2日後に、ロミーを連れて、西の国ワーレンの城下の町まで来るんだ。そこで解毒剤を渡そう。そのあとは、そのまま逃げるなり、俺の元に残るなり好きにすればいい」
それから男は、ジュリアに小さな瓶を渡した。
茶色い液体の入った瓶。
「それはお前が飲んだのと同じ毒だ。飲んで、3日後に死ぬ。使い方はおまえにまかせた。ロミーを連れてくるのに使えるかもしれないだろう」
話し終えると、男は静かに消えていた。
いなくなる気配すら感じさせない。
まったくいつものとおりだ。
ジュリアは唖然として、その場に座ったまま、しばらく動けなかった。
あまりにもいろいろな話や出来事が、短い時間に起こりすぎた。
頭が整理されなくて、ついていかない。
男の話はすべて本当なのだろうか?
彼は本当に、私とロミーを自由にするつもりなのだろうか?
ジュリアと男のつき合いは長い。
もちろん、この職業にて、相手の言うことをなんでも信じることは厳禁だ。
でも、男はたぶん本当のことを言っている。
ジュリアの直感はそう告げていた。
無表情で、気配がないその男。
みんなに虚無のシーラと呼ばれる、レオネシアで一番有名な諜報員。
彼はこんな場面で、わざわざジュリアをだますような男ではない。
ジュリアはそう思った。