彼女と悪魔の秘密の契約
僕は高校生一年生の頃に重い病気にかかった。医師から余命宣告をされたのは高校生三年生になった春の事だ。
暖かな陽射しの中に舞い散る桜の花弁は、新しい門出を祝う象徴として認識されているが、僕はそんな気分にはなれなかった。
ある程度覚悟していた事だが、いざ宣告を受けると想像を遥かに凌駕する絶望感に押し潰される。
死を司る悪魔のような病気に冒されると、ほんの少しの生きる可能性にすがるしかない。動物の本能だろうか? 『生きたい』『死にたくない』どちらにせよ『生』への渇望だ。
しかしそのわずかな希望は医師の一言で、いとも簡単に断たれてしまう。
現実の医師の言葉は、時として神や悪魔の言葉よりも重たくのしかかる。
自暴自棄になった僕を、両親は励ましてくれるが心には響かない。どんな言葉を聞かされても身体は不自由になる一方だ。
苦しい、痛い、悲しい、死への恐怖、あらゆる負の感情が僕を支配する。
この病気に冒されてからも、少しの時間だけ病気の事を忘れさせる存在があった。
幼馴染の早瀬千依菜だ。同級生が殆どお見舞いにやって来なくなっても、彼女だけは定期的に訪れる。
僕は彼女の事が好きだった。しかしこの気持ちを彼女に告白する事はない。そう遠くない未来に墓まで持って行くつもりだ。
僕の気持ちは、彼女を困らせるだけのモノだからだ。
宣告を受けてからは、彼女の面会を断り続けている。
きっと今の僕は、彼女にひどい言葉浴びせるだろう。冷たい態度を取ったり、我儘を言うだろう。
これ以上彼女の事を好きなりたくなかった。彼女に同情されたくもなかった。彼女にすがりたくなかった。
「調子はどう? 秀司君。またカーテン閉め切って。今日はすごくいい天気よ、外に散歩に行ったらどうかな」
看護師の高崎さんが病室にやって来た。苦笑いをしながら高崎さんがカーテンを開けると、病室に日差しが差し込み明るくなった。
いつものように体温と血圧を測り、点滴の残りを確認する。優しく気遣ってくれるのに、最近は素っ気ない態度を取ってしまう。
「そうですね……いい天気ですけど、散歩はしたくありません」
少し悲しそうな顔をしたのが見えた。高崎さんに悪気が無いのは承知している。
高崎さんは思い出したかのように怪訝な表情をして口を開く。
「そういえば今日も千依菜ちゃん来てたよ。会ってあげないの?」
またか……どうしろというのか。もうどうにもならないじゃないか!
また僕の中の悪魔が顔を見せる。僕はつい高崎さんに少し語気を強めて言い放ってしまった。
「もういいんです。彼女を傷付けたくありませんから」
高崎さんは目を伏せて言葉に詰まる。まだ僕にどう接していくか決めかねているのだろう。
僕はそんな周囲の優しさに甘えているだけだ。自殺を考えた事もあるが、情けない事に僕にはそんな勇気もなかった。
そんな風に貴重な『生きている時間』を無駄に過ごしていた。
ある日を境に親戚がやたらとお見舞いに来るようになった。僕の死が近くなってきた証拠だ。
それから同級生、あまり話した事もない奴等もだ。
僕は寄せ書きを貰った。内容は『頑張れ』など励ます言葉と『絶対治るから信じろ』といった希望的観測のような感情論ばかりだ。
寄せ書きと言っても、みんなからの最後の手紙なのだ。それを見て涙が止まらなかった。もちろん嬉しいからじゃない、自分がもうすぐ死ぬという現実を形にした物に他ならないからだ。
それをまざまざと見せつけられた訳だ。
心までもが病気冒されていく毎日の中、ある日突然病室に彼女が乗り込んで来た。
彼女の面会は全て断ってもらうようにお願いしていたはずだ。恐らく高崎さんが良かれと思って、勝手に彼女をこの病室に招いたのだろう。
彼女の姿を目にした瞬間、僕は身体が硬直し言葉が出なくなった。久しぶりに見た彼女はやっぱり綺麗だった。パッチリとした二重に、少し垂れた目が印象的だ。光が当たると少し茶色く見える、美しい髪の毛は肩にかかるくらいで整えてある。
彼女は、病室のベッドに横たわり痩せ細った僕を見て作り笑いを見せた。しかしすぐに目から涙がポロポロとこぼれ落ち、せっかくしたメイクも崩れだす。
「秀司どうしてなの……そんなに私の事が嫌いなの? ……私だって辛いんだよ。もっとお話したいんだよ?」
それが彼女の第一声だった。メイクは早くも涙でぐちゃぐちゃになっていたが、何故かいつもより愛おしく感じた。
僕は泣きそうな顔を見せないように、外を向きながら答える。
「そんなんじゃないよ。ちーなに見せたくなかったんだ」
「何を……?」
彼女は僕の言葉の意図が分からず聞き返す。僕は苦笑いをしながら答えを告げる。
「死ぬとこ」
彼女はそれを聞いて、涙を拭いて口を開いた。
「私は見たいよ。秀司が……死ぬとこ」
そう言って無理矢理笑顔を作り彼女は笑った。
「サイコパスかよ……」
彼女の思いもよらない答えを聞いて、僕は久しぶりに笑った。病気も死も忘れて。反対に忘れていた笑顔の作り方を思い出した。
僕の笑顔を見て彼女も泣きながら笑った。僕は彼女のこういう所が好きなんだ。
やっと彼女の本当の笑顔が見れた。
それから彼女は毎日お見舞いにやって来た。僕の体調が良くない日でも御構いなしだ。彼女の図々しさに何故か救われた。
天気がいい、風が気持ちいい。そんな当たり前の事を幸せだと感じられるようになった。これは死を受け入れた者に訪れる感情らしい。
僕はやっと穏やかに死を迎えられるのだ。
そしてその日を迎える事になった。僕は発作を起こすと、高崎さんが医師を呼ぶ。病院に寝泊まりしていた家族が駆け付けて僕の手を握る。両親には随分ひどい言葉を投げつけて来た。その事に謝罪をしたくともうまく喋れない。
母親は泣き崩れた。それを見て涙が溢れる。
奇跡のようなタイミングで、ちょうど彼女もお見舞いにやって来ていた。
僕の様子を見て涙を浮かべている、いつもの彼女らしくない。
僕は傲慢なのだろうか? 最期の時、彼女はもっと泣くものだと思っていた。
「大丈夫だよ、私が助けてあげる」
彼女は小さく呟き笑顔を見せる。彼女の笑顔を見た僕は、まるで本当に救われたような気がした。
その笑顔を見て、ついに僕は彼女に言ってしまった。本当に僕は悪い奴だ、人間のクズだ。ずっと言わないつもりだったが、最期の最期で甘えてしまった。
「ちーな……ずっと好きだった。ありがとう」
そのまま目の前が真っ暗になって意識が薄れていく。僕は彼女の反応を見る事なく死を迎えられるのだ。
自分だけは傷付つきたくないと言う身勝手な思いで、全てを彼女に押し付けた。
地獄行きだなこりゃ……。
僕は意識を失った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
気付いたら真っ暗闇の中に立っていた。
「えっ天国と地獄って本当にあんの?」
始めは夢を見ているのではないかと思ったが、夢とは思えない程意識はハッキリしている。
眼の前に誰かいる……姿形はわからないが確かにいる。
「よぉ……人間。秀司だっけか」
「誰だ? 閻魔様って奴か」
「誰だっていいじゃねぇか、そんな事はよ。俺は仕事に来ただけだ」
「仕事? どういう事か説明してくれないと困るな」
「勘違いするなよ? 早瀬千依菜って嬢ちゃんの依頼だ」
「お前の病気を治して、生き返らせてやるんだ。感謝しろよ」
「えっ……ちーなが? 治るのか、病気が。生き返れるのか……?」
「もちろんただで依頼を受ける程、俺はお人好しじゃあねぇな。条件があるぜ」
僕は理解した、こいつは悪魔だ。昔から悪魔は人の弱みに付け込んで、取り引きを持ちかけるモノだと決まっている。
しかしあまりに魅力的な提案だった。
「何だ、言ってみてくれよ」
「記憶だ。お前の嬢ちゃんに関する記憶を全て頂く、もちろんお前の周囲の人間の記憶もだ。嬢ちゃんとお前を結びつける物は無くなる。嬢ちゃんには、この取り引きの一切を誰にも明かさないで、すべての人間関係を絶ってもらうのが条件だ」
「じゃあちーなは、みんなから忘れられても、みんなの事は覚えて生きて行くのか……それを誰にも話せずに」
「そうだな、嬢ちゃんの記憶は奪わない。でも今まで関わった全ての人間に忘れ去られる訳だ。もちろん両親にもな」
「もし……ちーなが契約を破ったらどうなる?」
「そんなもん相場は決まってる……今まで関係を持ってた人間と接触して、再び関係を持てば……嬢ちゃんが死ぬだけだぜ」
僕は言葉が出なかった。病気が治って生き返れるなら何を犠牲にしてもと思っていたが、彼女を失うのも彼女のこれからの人生も、僕には耐え難い。……しかし。
しかし悪魔は続けて話しだした。
「おいおい、何を考えてるんだ? この取り引きは、嬢ちゃんとしたモノだ。お前に選択権はねぇよ。俺はただお前に伝えに来ただけだ、じゃあな」
「ちょっと待ってくれ!」
秀司は大声を出して、悪魔を引き止めたが悪魔はいなくなった。存在を感じなくなった。
だんだん意識が遠のいていく……。
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目が覚めると病室にいた。何やら騒がしい、高崎さんが大声を出しているようだ。
「――先生! 秀司君が目を覚ましました!」
あれ、僕は死んだはずじゃ……まだ死んでなかったのか?
助からないと言われていたのに、どんどん体調が良くなっていった。
一ヶ月後には病気は完治して退院を迎える事になった。
奇跡は起きた。幸せだ、両親も涙を流して喜んでくれた。
しかし、心にはポッカリと大きな穴が空いているような気がする。何か大切な事を忘れているような、そんな気がする。
僕は、高校に復学して留年しながらも晴れて卒業を迎える事になった。
そしてすぐに僕が去年大嫌いだった春がやって来た。今も好きじゃない……病気を思い出すからだ。しかし春は新しい門出を祝うのが普通なんだと実感していた。少しずつ健康な心を取り戻して来た。
それでも心に空いている穴は塞がる事は無かった。
僕は東京の大学に進学した。理由は単純だ、家を出て東京で暮らしてみたかったからだ。母親は病気の再発を心配して反対していたが『せっかく命拾いしたんだ、後悔しないよう生きた方がいい』と父親が説得してくれた。
今日も講義を受ける為に家を出る。鞄に課題のノートを詰め込んで、玄関で靴を履き扉を開ける。
今日は天気がいい――天気など昔はあまり気にしなかった、死の淵に立ってから思うようになった。これは多分幸せな事だと思う。
大学へ向かういつもの道を歩いていると、少し前を歩いてる女性が突然転んだ。それを見て僕は小走りで助けに向かう。
女性は落とした荷物を拾い集めている。見兼ねた僕は手を貸そうとした。
「大丈夫ですか?」
「すみません、慣れないヒールは履くものじゃないですね」
彼女は笑って見せ、振り返って僕の顔を見ると、まるで時が止まったかのように微動だにせず僕の顔を見つめている。
僕と彼女の視線が混じり合い、僕も何も言葉が出てこなかった
そして何故か、彼女のパッチリとした目から涙がポロポロと溢れ出す。
そんなに痛かったのだろうか?
よく見ると少し膝を擦りむいているようだが、それが原因とは思えない。
僕も何も言えないまま彼女を見つめた。そんな僕を見て気を使ったのか、差し伸べた手を掴まずに彼女は自分で立ち上がりながら、洋服の裾で涙を拭いた。
「何でもないの、気にしないで。見なかった事にしといて」
彼女の『見なかった事にして』というお願いは『転んだという事が恥ずかしいから』と捉えるのが一般的だろう。
でも僕は彼女の涙がどうしても気になった。
「涙を……ですか?」
左右に首を振った彼女の目には、また涙が溜まっていく。
「気持ちがわかっちゃった。やっぱり私も見せたくなかったな……」
そう言った彼女の事を綺麗だと思った。その瞬間、僕は恋に落ちてしまっていたのだ。しかし、僕は彼女が何を言っているのかよくわからなかった。
「見せたくないって、一体何を……?」
そして彼女はまた笑顔を見せた。しかしその目からはまた涙が溢れ出している。
「死ぬとこ――」
――その瞬間突然トラックが彼女だけを跳ね飛ばした。
あまりにも不自然な動きだった。まるで彼女を狙っているかのようだった。
その光景は眼球を通して僕の脳にしっかりと焼き付いた。
僕は、跳ね飛ばされた彼女の元に駆け寄った。身体は血塗れで、まるで壊れた人形のようだった。
僕は彼女を抱きかかえて彼女の名前を呼んだ。
「ちーな……」
僕の目から涙が溢れてくる。止まる事なく溢れる。
「あれ? ちーな、何でだよ。何で忘れてたんだ。ちーな、ちーな……何でこんな大切な事……ちーな!!!! 嘘だ……嘘、だ」
人だかりが出来ていた。僕は泣き続けた、いつまでも。
救急車のサイレンが聴こえて来る……嫌な音だ。
ちーなが事故で死んで一カ月が経った。僕は今もあの時の光景が頭から離れない。
ベランダから空を見上げていると、僕はあの時の悪魔の事を思い出した……。
『今まで関係を持ってた人間と接触して、再び関係を持てば……嬢ちゃんが死ぬだけだぜ』
関係を持つ……恋をする事。
彼女は恐らく、僕と――いや誰とも会わないように東京で暮らしていたのだ。人が多い方が身を隠しやすいと聞いた事がある。
しかし偶然にも僕と会ってしまった。そして――――
――そうか……僕が、また好きになったからか。だとしたら、ちーなを殺したのは僕じゃないか!
しかしあの時、彼女は自分が死ぬ事をわかっているような言い方をした。
僕と偶然会ってしまっただけで、関係を持つ事になるのか? いや、もしそうならちーなはずっと僕の事を――そんな事を考えていたら、僕は突然意識を失った。
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気がつくと僕は真っ暗闇の中にいた。あの時と同じで、意識もハッキリとしている。
「よぉ人間……秀司だっけか」
「久しぶりだな、悪魔。お前がちーなを殺したのか!?」
「おいおい、契約違反したらしょうがねぇだろ? それが決まりだ。俺に文句言うのは御門違いだ」
僕は何も言えなかった、自分にも責任があるからだ。
「今日はお前と契約を結びたくてよ。どうだい? 話だけでも」
「何だよ……」
「そうこなくちゃな。お前あの嬢ちゃん、早瀬千依菜だっけか。生き返らせたくねぇか?」
「――出来るのか!?」
「ああ、もちろん条件はあるけどな。時間を戻――」
「――何でもいい! やってくれ!」
「分かったよ、契約成立だ。じゃあな」
僕は無我夢中で、条件もよく聞かず契約してしまった。それに気付いた時はもう遅かった。
だんだん意識が遠くなっていく――
目を覚ますと僕はあの病室のベッドにいた。身体中がだるい、あの時と同じ症状だ。腕も脚も痩せこけている。
もしかして、僕は夢を見ていたのだろうか……いや、あんなハッキリとした夢などある訳がない。
その時発作が起きた、僕に繋げられている医療機器がピコピコ鳴っている。看護師の高崎さんが駆け付け、医師を呼ぶ。
やがて両親が駆け付ける、僕は思った。あの時と同じだ。
そして僕は、あの時悪魔が言いかけた事を思い出した。
『時間を戻――』
そうか時間が戻ったのか……それなら、そろそろちーながお見舞いに来て――
――そうか! ちーなはあの時あまり涙を流さなかったのは、悪魔との契約で僕が助かる事を知っていたからか。
思った通り彼女はやって来た。しかし今度は目からポロポロと涙を流している、あの時と違う。
そして僕の手を優しく握り呟いた。
「ごめんね秀司……やっぱり私死にたくない」
彼女のその言葉で全てを理解した。
そうか……ちーなはあの悪魔との契約をしなかったのか。
僕も記憶を持ってるんだ。ちーなも記憶を持って戻るのは……そうか、それがあの悪魔の条件だったのか。
ちーなに、自分の命と僕の命を天秤にかけさせたのか……ひどい、事、す……る……。
僕はそこで力尽きて目を閉じた。