崖の上のお茶屋
「ああ、お願い!」
星の娘はぎゅっと目をつぶったまま、思わず叫んだ。
「助けて、助けて! あの方、流されてしまうわ――」
「アストライアくん! 落ち着きなさい。目を開けるんじゃ。」
耳慣れた声に呼びかけられ、星の娘は、おそるおそる目を開けた。
はじめに目に入ったのは、白髪からぼとぼとと水の雫を垂らしている老人の顔だった。
彼女たちはみな、ごうごうと流れる川のほとりにおり、全身ずぶ濡れだったが、確かに地面の上にいた。
母親が、娘と、戻ってきた息子を抱きしめて、安堵のあまり泣いていた。
星の娘ははっとして、口の中でお礼の言葉を呟きながら、身をもがいてケンタウロスの逞しい腕の中から抜け出した。
「あの方は!? あの、旅人さん――」
「大丈夫だ。」
鎧ごとずぶ濡れになった騎士が、星の娘の背後を指差した。
振り向くと、そこにぬめぬめとした薄茶色の巨大な太鼓腹があった。
慌てて後ずさった星の娘の目の前に、べっ、と旅人の身体が吐き出された。
迫りくる水から見事に旅人を救い出した大がえるのゲールは、のっそりと身体の向きを変え、川の方を向いて座ると、目を閉じて、再びただの大岩のように動かなくなった。
不意に大きな拍手の音が聞こえ、一瞬、安堵のあまり呆然となっていた全員が、はっとしてそちらを見た。
「すごいじゃないか、あんたたち!」
拍手の主は、オニユリだった。
最初、星の娘はオニユリがどこから現れたのか分からなかったのだが、彼女たちはいまや〈流れたり流れなかったりする川〉の西岸におり、すぐ横手に切り立った崖の上に、オニユリのお茶屋があるはずなのだった。
「迎えに来てみたら、いきなり鐘が鳴り出して、何事かと思ったよ。あれでよく、全員が助かったもんだ! 兄貴が〈稲妻〉を呼び戻したとっさの判断、さすがだったな。」
「いや。」と騎士が重々しく応じた。
オニユリが突然「兄貴」と呼んだので星の娘は驚いたが、騎士とオニユリの顔立ちはちっとも似ておらず、歳も相当離れているから、おそらくは親しい知り合いであって、きょうだいではなかろうと思われた。
「だが、今のは俺の手柄ではない。そちらの旅の方の手柄だ。あの子を助け出すことができたのは、その方が素早くロープを用意して裂け目に下りてくださったからだし、他の皆が助かったのも、水が迫る中で、その方がただ一人、残ってくださったからだ。」
旅人は起き上がり、川の水やゲールのよだれでずぶ濡れになった服をできる限りしぼろうとしていたが、騎士の言葉を聞いてこちらに向き直った。
騎士は姿勢を正すと、旅人に頭を下げた。
「あなたの力と勇気に敬意を表す。そして、あなたを置いて先に水から逃げたことは、申し訳なかった。」
「いや。あれでよかった。」
旅人は何でもなさそうな調子で言った。
「子供と、娘さんと、お年寄りが先に決まっている。ケンタウロスたちがふたり運んで、残りはひとり。そして、俺では、あんたの馬に一緒に誰かを乗せて走らせるなんて芸当はできなかった。
俺は慌てていなかったよ。大がえるが来てくれると分かっていたからな。」
「その豪胆さ、落ち着き、若いのに見事なものだ。」
旅人の態度にすっかり感銘を受けた様子で、騎士は呟いた。
やっと落ち着きを取り戻した母親が、何度もお礼を言いながら、まわりの皆に頭を下げて回った。
星の娘と老人も、あらためてケンタウロスたちに礼を述べた。
ケンタウロスたちは唇を反り返らせて笑うと、がらがらした大声で何か言って、風のように走り去ってしまった。
「お礼なんかいいってさ。あのふたり、これから、ケンタウロス族の長老に会いに行くんだって。」
当たり前のようにオニユリがそう言い、「さあ、そっちの子は、手当てがいるんじゃないのかい?」と言った。
「落ちた時に、右足を挫いたようだ。」
旅人が静かに言った。
「おそらく折れてはいないと思うが。ちょっと診ただけだから、分からない。」
「おっかさんたち、これからどこへ行くんだい? ――ああ、その村なら、ちょうどあたしの店が通り道じゃないか。店で、その子の手当てをしてやるよ。手当ては、ただだからさ、心配いらない。兄貴、背負ってやってよ。」
「分かっている。」
そう言って、騎士は男の子を軽々と背中におぶった。
「あの、そちらの馬さん――〈稲妻〉さんに、乗せて行ったほうがいいんじゃないかしら。そうしたほうが、疲れないでしょう。」
「いや、それは無理だ。」
遠慮がちに言った星の娘に、オニユリがあっさりと手を振った。
「ここから崖の上までは、石段を上がっていくんだけど、狭くて、馬は通れない。〈稲妻〉には、いつもみたいに、自分であっち側の斜面を上がってきてもらわなきゃ。」
「俺たちは何度もオニユリの店に来たことがある。稲妻も、道は心得ているから、心配はいらない。」
星の娘を安心させるように、騎士がそう言い、稲妻は分かったというようにいなないて、さっさと自分だけで歩いていった。
「さあ、みんな、ついてきておくれ!」
先頭に立ち、オニユリが叫んだ。
「今日は特別大サービスで、お茶もただにしておくよ。みんなが無事に助かった記念ってことでさ。――みんな、ずぶ濡れで、寒いだろ。かまどの火であたたまって、服も乾かすといい。そうだ、小屋の横で、焚火もおこそう!」
オニユリの言う〈石段〉は、そこから歩いてすぐにあった。
秘密の階段があった崖とは違い、こちら側の崖は、色や質感の違う巨大な板状の石が何枚も重なり合ってできていた。
その石の重なり具合が、ちょうどうまい具合にずれて、まるで階段のようになっているのだ。
〈石段〉は最初は崖の表面を上がっていき、途中からは、崖の中へと消えていた。
「さあ、気をつけて!」
先に行ったオニユリが手を伸ばし、星の娘の腕を掴んで引っ張り上げてくれた。
板状の石は、一段ずつの高さが大人の腰ほどもあり、登るのにはなかなか骨が折れた。
旅人が老人を、老人が母親を、母親が娘を引っ張り上げ、男の子を担いだ騎士は、自分の腕力だけで登ってきた。
「ここからは穴の道だ。狭くなるよ! 後ろを蹴飛ばすことになるかもしれないから、あいだをあけて、一人ずつ、ついてきておくれ。」
崖に開いた四角い穴に入り込んだオニユリの声だけが聞こえた。
〈石段〉は、崖の穴の中に入り込んでもまだ続き、どちらを向いても、まるで地層や岩石の標本のような景色になった。
平たい積木を少しずつずらして、いくつも重ねたように、石の板のあいだには細い隙間があいており、そこから外の光が漏れてくるので、穴の道の中は少しも暗くはなかった。
そして、さらにひと登りすると、とうとう崖の上に出た。
星の娘は地面にあいた穴から這い出し、手や衣服のほこりをはたいてから、興味深く辺りの様子を眺めた。
そこはもう崖の上で、ふちに近いあたりだった。
あたり一面が畑になっており、土は黒く、ふかふかに耕され、様々な野菜が植えられていた。
「これは全部、あたしのとこの畑だ。店はこっちだよ。」
オニユリはそう言って、崖のふちと反対の方向に星の娘たちを案内した。
そちらは林になっていて、桃色の花が咲き、つややかな葉を茂らせた木々が並んでいた。
林の中にはよく光が届いて明るく、地面はすっかりクローバーに覆われていた。
いつの間にか、別の坂を登ってきた〈稲妻〉が一向に合流し、当たり前のような顔をして一緒に歩いていた。
「あれが、あたしのお茶屋だよ。」
誇らしげに言って、オニユリが林の奥を指差した。
そこは林の中のちょっとした広場のようになっていて、黒っぽい板で造られた四角い建物が見えた。
板でこしらえた大きな箱の壁の一面だけを取り払ったというような、簡素な造りの建物だったが、その天井からは無数の乾かした薬草や干肉がぶら下げられ、壁の内側にはずらりと調理器具がかけられ、それらはすべてぴかぴかに磨かれて光っていた。
棚には、ジャムや果実酒や薬を詰めた瓶がぎっしりと並び、それらにはすべて丁寧に絵をつけたラベルが貼られていた。
隅には大きなかまどがあり、人ひとりがすっぽり入ることができそうな水がめもあった。
そして店の前には丸太でこしらえた長椅子と、大きなテーブルが並べられていた。
「オニユリのお茶屋にようこそ! 今、火をおこすからね。みんな、そこの椅子に座って。とりあえず水をどうぞ。奥の井戸の水に、薬草を浸したものだよ。
坊や、あんたはこっちにおいで。あたしが診てあげるよ。そんな顔をしなさんな、これでも名医なんだよ、あたしは! 痛くはしないさ。
うん、うん、これなら、湿布をして安静にしておけば大丈夫だね――」
自分の店に戻ったオニユリは、そう喋りながらあちらこちらへと飛び回り、かまどの火種をかきおこして燃え立たせるやら、男の子の足に生の薬草をすり潰した湿布をあてるやら、干肉や干果物をナイフで切ってテーブルに並べるやら、壺から人数分のお茶っ葉をつかみ取ってやかんに入れるやらと、お客たちが出された水に口をつけるかつけないかのうちに、まさしく八面六臂の活躍を見せた。
「さあ、こっちで焚火を起こすよ。濡れものはこっち!」
薪ひと束と木っ端とを抱え、火種――かまどから取った、端が燃えている長い枝――を歯でくわえたまま、オニユリが器用にそう喋った。
彼女の焚火をつくる技は驚くべきもので、炎はあっという間に大きくなり、あかあかと燃え上がった。
そのあいだに旅人が黙って立ち上がり、そこらに落ちていた、しっかりした木の枝を何本か地面に突き刺し、組み合わせて、簡単な物干し場を作った。
「どうも、お客さん。悪いね、働かせちゃって。」
「いや。」
旅人は言って、ずぶ濡れになった服を無造作に脱ぎ始めた。