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庭の王国への旅  作者: キュノスーラ
庭の王国
8/28

流れたり流れなかったりする川

 二頭の馬たちは、星の娘と老人が立っているところまで来て立ち止まり、長いたてがみを揺らしてお辞儀をした。

 かれらは手綱も鞍も鐙もつけておらず、誇り高い野生の姿で、智恵の深そうなその眼差しをじっとふたりの人間に注いでいた。


「どうも、初めまして。」


 星の娘は丁重に礼を返してから、ちらと不安げに老人を見た。

 彼女は、これまでに馬に乗ったことはおろか、本物の馬を見たことさえもなかった。


「あなたがたは、オニユリさんのきょうだい、〈風の足〉どののご友人ですな。」


 老人が進み出て、礼を尽くした調子で話しかけた。


「わしらを渡し場まで送ってくださるとのこと、まことにかたじけない。拝見したところ、あなたがたの足は非常に速く、その駆けるさまは疾風のごとしとお見受けした。」


 馬たちは老人の言葉を聞いて、誇らしげにいなないた。


「しかし。」と、老人は丁重に続けた。「その背中に光栄にも乗せていただくわしらの方は、あなたがたの疾駆に耐え得るほど、乗り慣れてはおらぬのです。

 分かっていただけますかな。この年寄りと娘が、あなたがたの背中から転げ落ちて首の骨を折ることがないように、できるだけ、ゆっくり進んでいただければありがたい。」


 馬たちは顔を見合わせ、やがて、分かったというように長い首を振った。


「乗りなさい、と言ってるのかしら?」


 いかにも自信なさそうに星の娘は言い、おそるおそる手を伸ばして、灰色の馬の横腹を撫でた。


「オニユリさんの紹介じゃ、間違いはないじゃろう。ほれ、アストライアくん、わしがこうやって立っておいてあげるから、わしの膝と、肩を踏み台にして、かれの背中に登るんじゃ。うまく乗ったら、じたばたせずに、しゃんと背筋を伸ばしてつりあいを取るようにな。よいか、かれの横腹に、かかとをぶつけるんじゃないぞ!」


 よじ登ったり、ずり落ちたりとしばらくじたばたした挙句、どうにか星の娘は灰色の馬の背中におさまり、まるで厳しい祖父母の家に連れてこられた孫娘のように、じっと座って目だけをきょろきょろ動かしていた。


「やれやれ。」


 たくさん足形のついた茶色のマントを払い、老人はあっと驚くような身ごなしで金茶色の馬の背に飛び乗った。


「これでよしと。――お待たせしましたな。それでは、よろしくお願いいたしますぞ。」


 ふたりを乗せた馬たちは、足取りも軽やかに進み始めた。

 かれらの足運びにはむらがなく、草原の旅路は非常に快適なものになった。

 つややかな緑の草の上に、道らしきものはまったくなかったが、馬たちは迷いなくただひとつの方角に向かって進んだ。

 オニユリの言葉によるならば、そこに「渡し場」があるのだ。


「水の音が、だんだん近くなってきましたわ。」


 やがて、灰色の馬の背から身を乗り出すようにして、星の娘は言った。

 彼女たちの行く手には、川が横たわっていた。

 その流れを左手の川下のほうへとたどっていくと、やがて、霧のような水しぶきに包まれた〈滝壺〉へと行きつくのだった。


「あの〈滝壺〉の下は、地下の黄泉の国へと通じておるそうじゃ。」老人が言った。


「川を渡るときに、決して、流されてはいかんよ! 庭の王国の黄泉の国をしろしめすのは、夜の王じゃ。そのひとに捕まったら最後、陽のあたる世界には、二度と戻ってくることができんという話じゃからのう。」


「肝に銘じますわ。」


 星の娘は小さく身震いをして言った。


「あたくし、渡し舟の上で、船縁には、絶対に近付かないようにしますわ。」


「渡し舟じゃと?」老人は言って、ああ、と手を打った。「また、言い忘れておった。あの川を渡るのに、舟は使わんよ。」


「でも――あたくしたちは、今、渡し場に向かっているのでしょう?」


 星の娘は、わけが分からないという顔で老人を見た。


「渡し場があるのに、渡し舟がないなんて、不思議な話ですわね。いったいどうやって、川を渡るんですの?」


「あの川には、名前がついておってな。その名を〈流れたり流れなかったりする川〉という。」


「――それは、正式名称ですの?」


「れっきとした正式名称じゃ。つまり、わしが何を言いたいかというと、あの川は、今のように水が流れておるときと、流れておらんときとがあるということなんじゃ。

 水が流れておるときは、その流れがあまりに速く激しいので、どんなに泳ぎの達者な者でも、また、どんな優秀な漕ぎ手を乗せた舟であっても、その流れを横切って渡ることはできん。

 川を渡りたい者は、水が完全に引くのを待って、川底が現れたら、一気に向こう岸まで走るんじゃ。次に水が来るのが、いつになるかは分からんから、全速力で渡り切らなければ、途中で水に呑まれることにもなりかねん。」


「ずいぶんと、スリルのある川ですのね。」


 星の娘はそう呟いて、表情を引き締めた。

〈流れたり流れなかったりする川〉の岸辺に至るまでに、地形はいったん低くなり、それからまたゆるやかに盛り上がっていった。

 その丘の最も高いところまで登りつめたとき、ふたりは、幅の広い川の水面がほとんど目の前に広がっているのを見下ろした。

 川のほとりには、板葺きの小さな小屋が建っており、その周りに、ちょっとした人だかりができていた。

 小屋のすぐ隣には、茶色っぽい巨大な岩がひとつあって、小屋よりも、その岩のほうが大きいくらいだった。


「あれが、渡し場じゃな。」


 老人が言って、馬たちに「遠いところをお送りいただき、ありがとうございました。ここまでで結構です。」と告げた。

 馬たちはすみやかに立ち止まり、ふたりが草の上にすべり下りるまで、じっと立って待っていた。


「お世話になりました。本当にありがとう。」


 星の娘はそう言って灰色の馬の首を撫でた。

 馬たちはお辞儀をするように首を下げると、一声いななき、風のように走り去っていった。

 ふたりは感心してその後ろ姿を見送り、馬たちの姿が再び砂粒のように小さくなるまでその場に立っていたが、やがて川の方に向き直って、渡し場へとおりていった。


 小屋の周りに集まった人々は、てんでばらばらな顔ぶれだった。

 馬に乗った騎士がいるかと思えば、子供をふたり連れた母親がおり、茶色がかった緑色の服を着てつば広の帽子をかぶった、旅人らしい男もいた。

 さらには、ケンタウロス族の男もふたりいた。

 馬の胴体に人間の上半身を持つ種族であるケンタウロスたちは、がらがらと鐘を鳴らすような彼ら独特の声でしきりに何かを話し合っていたが、何を言っているのかはまったく聞きとれなかった。


「あんたたちも、渡りたいのかい。」


 初めて見るケンタウロス族の姿に目を奪われていた星の娘は、急にそう声をかけられて、驚いてそちらを見た。

 そこに立っていたのは、ももの半ばほどの丈の貫頭衣をかぶり、ロープで腰をしめただけの簡素な服装をした少年だった。

 茶色の髪はぼさぼさで、これまでに櫛を通したことがあるようには見えなかった。


「ええ。」星の娘は、この子は何者だろうと思いながら答えた。「あなたは?」


「俺は、この渡し場の番人だ。渡るのは、あんたと、そっちのじいさんだな。前にここを渡ったことは?」


「ありませんわ。」


「そうかい。じゃ説明しておくから、よく聞いてくれ。」


 少年は目にかぶさる髪を手でかきのけると、すらすらと言った。


「水が引いてきても、俺がいいと言うまでは、絶対に川に入っちゃだめだ。浅いように見えても、急に深くなってるところがあって危ないからな。

 靴を見せて。じいさんも。――うん、まあ、いいだろう。急に流れが戻ってくることもあるから、いざとなったら、走らなきゃならないからな、踵が高い靴はだめだ。

 もし、渡ってる途中で水が戻ってきたら、俺が鐘を鳴らす。」


 少年は、小屋の軒先にぶら下がっている鐘を指差した。


「鐘の音が聞こえたら、とにかく、向こう岸まで走れ。こっちの岸に近いときだったら、全速力で引き返せ。もしものときは、俺とゲールができるかぎり助けるが、それでも助からないときは――」


「ゲールって誰ですの?」


 星の娘が思わず訊ねると、少年は「そこにいる。」と、小屋の向こうの大岩を指差した。

 大岩の上に誰かがいるのかと思って目を凝らした星の娘は、本当のことに気付いたとき、もう少しで叫びそうになった。

 小屋よりも大きい、茶色っぽい大岩に見えていたものは、生きている巨大なかえるだった。

 その証拠に、大きな目玉が一瞬だけ薄く開き、あたりを見回したかと思うと、またすぐに閉じてしまった。


「ゲールは今まで何人も助けてる、優秀な番人だ。川の真ん中あたりまで、たった二跳びでいける。助ける相手を、長い舌でべろっと巻いて、岸まで跳んで連れていくんだ。」


「まあ、そうですの――それは――それは、あたくし、絶対にご面倒をかけないようにしたいと思いますわ。」


 星の娘はいくらか引きつった顔でそう言ったが、少年は気にもせずに小屋のほうに戻り、壁に立てかけられたはしごをのぼって、屋根のうえに立って上流の方を見張り始めた。


「かえるですって! それも、あんなに大きな!」


 少年には聞こえないような声で、星の娘は呟いた。


「あたくし、かえるに飲み込まれるよりは、黄泉の国に流されるほうが、いくらかましだと思いますわ。」


「そのようなことを声に出して言うものではないぞ、アストライアくん。」


 老人が、いつになく真剣な顔で言った。

 彼は競技開始をひかえた運動選手よろしく、膝に手を当てて屈伸運動の最中だった。


「あの〈滝壺〉の下、黄泉の国をしろしめす夜の王の貪欲で無慈悲なことは、よく知られておるからのう。それに、かれの耳は聡いぞ。

 かれの近衛隊はみな、もとは地上の優れた戦士たちで、この川にさらわれ、〈滝壺〉に呑まれた者たちだそうじゃ。そしてかれの幾人もの妃たちも、もとはみな、太陽の下を歩く姫たちじゃった。今では、黒い衣に、鋼の飾りを身に着け、蒼白い顔をした夜の妃たちじゃ。」


「あたくし――」


 星の娘は顔色を悪くして、誰に言うともなく、少し大きな声で言った。


「とにかく、無事に川を渡りたいですわ。そして、やっぱり、いざとなったら、流されるよりは、かえるのほうがいいと思いますわ。」


「水が、引き始めたぞう!」


 屋根の上から少年が叫び、みなは一斉に上流の方を見た。

 はじめ、どうどうと流れる水面に変化が起きているようには見えなかったが、しばらく待つうちに、これまでは見えていなかった岩の先端があらわれ、川の流れが白く泡立ち始めた。

 今や、渡し場に集まった客たちは、ずらりと横一列に並んで、今か今かと合図を待つ走者のように少年の方を見ていた。

 水位はぐんぐん下がり、これまでは水に浸かっていた川底が見えてきた。

 激しい流れのために、砂や泥はほとんど積もっておらず、全体に黒っぽく、ごつごつとした岩ばかりで、足場はかなり悪そうだった。


「裂け目のように、急に落ち込んでいるところがあるからな、気をつけて――」


「渡れーっ!」


 老人の言葉をかき消すほどの大声で少年が叫び、客たちは、一斉に水のなくなった川を渡り始めた。

 星の娘と老人も、夢中で走った。

 途中、塀を乗り越えるようによじ登ったり、跳びこえたりしなければならないところもあり、思ったよりも時間がかかりそうだった。

 ケンタウロスたちが雄叫びをあげながら、崖の山羊のように巧みに岩を蹴って渡ってゆく。

 騎士は馬から降り、馬だけをケンタウロスたちと共に先に行かせて、自分は走って渡っていた。


「あっ!」と突然、声があがり、振り向いた星の娘の目の前で、小さな男の子が深い裂け目にすっぽりと落ち込んだ。

 ふたりの子供のうち、幼い娘のほうを抱いて渡っていた母親が悲鳴をあげた。

 彼女は泣いている息子のところへ行こうと、自分も裂け目に飛び降りようとした。


「いかん!」


 後ろから走ってきた騎士が母親の肩を押さえ、口笛を吹いて愛馬を呼び寄せた。

 ほとんど向こう岸に達しかけていたケンタウルスたちも、何事かと踵を返して戻ってきた。


「あんたの息子は、我々が助けてあげる。あんたは、小さい娘さんと、先に渡りなさい!」騎士が叫んだ。「おのおのがた、申し訳ないが、ご婦人と娘さんを向こう岸へ! ――〈稲妻〉よ、お前も行け!」


 騎士の馬が、主人の言葉を低いいななきに訳してケンタウルスたちに伝えると、彼らはまたたく間に、叫ぶ母親と娘をそれぞれ横抱きにし、向こう岸へと走り去っていった。


「大丈夫なの!?」


「足が痛い。」


 星の娘が裂け目のふちから問い掛けると、男の子は泣き声を必死に我慢しているような声で言った。

 裂け目の幅はそれほどでもなかったが、深さは大人の身長の倍ほどもあり、ふちがつるつるしていて、簡単には降りて登ってこられそうもなかった。


「これを!」


 突然ぱっと投げかけられたロープを、星の娘は何事かと思う間もなく反射的に受け取った。

 同時に、茶色っぽい緑の服を着た旅人が、ロープの片端を手に、何のためらいもなく裂け目の底へと飛び降りていった。

 驚いたことに、彼は帽子を押さえて猫のように裂け目の底に着地すると、すばやく男の子の身体にロープの一端を巻き付けてしまった。


「引っ張れ!」


 騎士と星の娘と老人が、力を合わせてロープを引っ張り、下から旅人が押し上げて、男の子はあっという間に裂け目の底から救出された。

 旅人は驚くべき身のこなしで裂け目の両側の壁に手足をつき、わずかな出っ張りを手掛かりにして、あっという間に登ってきた。

 同時、奇妙な震動が地面から伝わってきた。

 カーンカーンカーンと小屋の鐘が打ち鳴らされ始めた。


「水が戻ってくるぞ! 水が戻ってくるぞーっ!」


「急げ!」


 騎士は男の子を抱きあげ、夢中で口笛を吹き鳴らした。

 かれの愛馬の〈稲妻〉が再び駆け戻り、騎士と男の子を乗せた。

 ケンタウルスふたりも疾風のように戻ってきて、星の娘と老人の身体を、粉袋でも扱うように軽々と持ち上げた。


「あなたは!?」


 星の娘は首をひねって叫んだ。

 もう、上流から迫る水しぶきが見えていた。

 旅人は、巻きとったロープを肩に引っ掛け、岩の上に悠然と突っ立っていた。

 ケンタウロスが雄叫びをあげて走り出し、星の娘は思わず目をつぶってその腕にしがみついた。

 身体じゅうに冷たい水がかかった。

 黄泉の国を支配するという夜の王の蒼白い暗い顔と、手招きをする手が見えたような気がした。



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