薔薇の女神と王国の戦士
星の娘と謎の老人は、オニユリがひっかけていった茂みの葉の揺れがおさまるまでのあいだ、感心したようにそれを眺めていたが、やがて、彼女と同じ方へゆっくりと歩きはじめた。
「どうやら、大樹の方にまでは、行かずじまいになりそうじゃのう。」
老人が言った。
「あの樹は、このロスコーの森のもっと奥のほうにある。オニユリさんの店とは、ほとんど正反対の方向じゃ。今から寄っていたのでは、オニユリさんの招きに間に合わん。」
「ねえ、おじいさま。」
一方で、星の娘は別のことを考えていた。
「先程、あたくしをお止めになりましたわね。――ほら、あの男の方がやられているとき。おじいさまは、オニユリさんが助けにいらっしゃることを、予期してらっしゃいましたの?」
「いいや、そうではない。」
老人は言った。
「わしは、オニユリさんのことは知っておった。じゃが、彼女がここに来ることは知らなかった。
わしがあんたを止めたのは、別の理由からじゃ。わしらがここでの出来事に介入することで、物語の時空の未来を歪めてしまうことを恐れたからじゃよ。」
「物語の時空の未来を?」
星の娘は、驚いていった。
「では、あの男の方も、何か大きな物語に関わっていると仰るの?」
「全ての者が、それぞれの物語を持っておるのじゃ。起こる出来事の大小に関わらず、な。」
老人はゆっくりと歩きながら言った。
「ただ、わしは、特にあの若者の物語については、アウローラさんから聞いて知っておったというだけのことじゃ。」
「それは、どんな物語ですの。」
祖父にお話をせがむ少女のように星の娘が言うと、老人は、声の調子を整えて、おもむろに語り始めた。
「黒髪の若者は王国の兵士だったが、勇気がないというので、皆に馬鹿にされておった。特に、彼が属する隊の隊長とその仲間には、訓練と称して事あるごとに痛めつけられ、足腰が立たぬようになるまでやられることもしばしばだった。
隣に住む少女のオニユリは、折にふれて彼を庇い、叱咤激励したが、あまりその効果はなく、むしろ『女に情けをかけられた』と彼への更なる侮りを招く結果になってしまうのだった。
さて、ある年、薔薇の女神の住まう、薔薇の城の花が開いた――」
「薔薇の城の花が開いた、って、どういう意味ですの?」
思わず話を遮って、星の娘が訊ねた。
「薔薇の城というのは、つまり、一本の巨大な薔薇の木なんじゃ。そのてっぺんに、十年に一度、わずかなあいだだけ大きな花が咲いて、薔薇の女神はそこから王国のありさまを眺め渡す。――分かったかな?」
「よく分かりましたわ。」
星の娘は深々と頷いた。
「そう、それで――ええと、どこまで話したんじゃったかな? ああ、そうじゃ。薔薇の城の花が開いた、と。
その年のある朝、黒髪の若者のもとに、隊長とその仲間がやってきて、彼を家から引きずり出し、いつものようにさんざん殴りつけてから、これは旅立ちの景気づけのようなものだと言った――」
「ええ、そう、さっさとどこへでも行っていただきたいですわね。そして永遠に戻っていただかなくて結構。――それで?」
「彼らは、薔薇の女神の姿の美しさを噂に聞き、その玉座へ赴き、女神を娶ろうと考えたのじゃ。それに、女神の夫となれば、この王国を支配することも夢ではないと考えたのじゃな。」
「どこまでも下劣な考えですわね。――それで?」
「彼らは去った。その朝、オニユリは狩りに出ていて留守だった。黒髪の若者は、傷の痛みに耐えながらしばらく地面に横たわっていたが、やがて、ふらふらと立ち上がって言った。『もう、このままではだめだ。』とな。」
「それで?」
いまや、星の娘は、老人の語ることに完全に引き込まれていた。
「黒髪の若者はこれまで、人と争うことを避け、どんな屈辱的な扱いにも耐えてきたが、そんなあり方を最もいとわしく思っていたのは、彼自身だった。その朝、彼の心の器にこれまでずっと溜めこまれてきたものが、ちょうど満杯になり、溢れ出したのじゃ。
そこへ、オニユリが帰ってきた。彼女は黒髪の若者が傷だらけになっているのを見ると、いつものように悪態をつき、お茶屋に置いてある薬草を出してきて手当てをした。
『俺は、行かなくては。』
若者がそう呟くと、彼女は頭でもやられたのかという顔をしたが、続く彼の言葉を聞いて面を改めた。
『俺は、どうしても、あいつらに勝たなくては。俺は薔薇の城へ行き、あいつらよりも先に、薔薇の女神様を見つける。』
オニユリは事態を完全に飲み込んだわけではなかったが、彼の突然の奮起を喜び、彼の背中を叩いて励まし、食糧と、自分の愛用の槍を彼に与えた。
『何だか知らないが、がんばれよ。』と彼女は言った。『気をつけて行け!』
そして彼は旅立った。
鎧を着た獣たちのうろつく影の森を抜け、秘密の湖の妖精たちの助けを受け、鷲たちの襲いかかる切り立つ峰に登り、その頂上で、薔薇の城の鉄壁の守りである大蛇と戦った――」
「それで!?」
星の娘は、子供のように勢い込んで言った。
「彼は大蛇の試練をくぐり抜け、薔薇の城に登ることを許された。目も眩む高さと吹きつける烈風、無数の棘に苦しめられながらも、彼は登り続け、ついには女神の座所、薔薇の城の頂の、美しい花まで登りつめた。
果たして、そこに女神はおわした。女神は、金色のしべでできた玉座から立ち上がって、彼を迎えた。
幾多の試練をくぐり抜けた黒髪の若者は、いまや強さと、勇気と、忍耐を兼ね備えた立派な武人となっていた。彼は、己の弱さを振り払い、自分自身に誇りを取り戻すためにこの旅を始めたのだが、こうして女神と向かい合った今、その美しいことと典雅なことに驚き、一目で恋に落ちた――」
星の娘は、もう何も言わず、目を見開いて老人の話に聞き入っていた。
「彼は女神に心を告げ、自分の妻となってほしいと願った。だが、薔薇の女神は穏やかにかぶりを振って言った。
『私はあなたがた人間とは違う存在であり、この王国のすべてを見守り治めるつとめを負っています。私は人間の男の妻となることはできず、また、ただひとりのものとなって、女神としてのつとめを捨てることもできないのです。
とはいえ、私が目覚めてよりこのかたの永の年月で、私を訪ねるためにここまで来てくれた人間は、あなたが最初。そのあなたの心に応えられないことは、私も悲しい。
共には行けないけれど、それでもあなたがもしも私を愛してくれると言うのならば、その愛を、この王国の大地すべてに注いでください。この王国は、私そのもの。私の姿は見えなくとも、あらゆる場所に私はいます。一番小さな花の中にも、一番小さな虫の中にも、吹く風にも、水の音にも。あらゆる場所に――そして、あなたの側に。』
彼は嘆いたが、女神の目の中に彼に対する真心を見てとり、頭を下げて言った。
『あなたを愛するように、この国を愛し、あなたを守るように、この国を守りましょう。』
女神は金色のしべの一本を抜きとって、美しい剣に変え、口づけとともに彼に与えた。
彼は地上に戻り、やがて、王国を守る最強の戦士として名を馳せるに至った。後に、王国が外の世界の脅威にさらされ、大戦争が起こった時、彼は、槍使いのオニユリと共に、王国軍の先頭に立って戦うことになる――」
語り終えたとき、老人の横顔はいきいきと輝き、まるで若者のように見えた。
星の娘が目を瞬いて見たとき、彼は、もういつもの彼の顔で笑っていた。
「これが、黒髪の若者の物語じゃ。アウローラさんは遠い昔、この物語を妹さんに語り、また、大人になってから、わしにも語って聞かせた。
よいかな、あの若者は、いずれ時が満ちて自ら奮起し、その手で道を切り拓く運命にある。わしらの手出しは無用じゃ。」
「よく、分かりましたわ。」
星の娘は微笑んで言った。
「大戦争の話、あたくし、アウローラさんが話しているのを少しだけ聞いたことがありましたけれど――そんな出来事もありましたのね。」
話しているうちに、ふたりは森の中をずいぶん進んできた。
道は細かったが一度もとぎれることなく、少しずつ左手に曲がりながら続き、やがて二人は、森の木々が途切れるところまでやってきた。
「ああ、なんて――」
星の娘は叫び、その場所ではもうほとんど身長の半分ほどの高さになっていた崖から飛び下りて、目の前の光景に向けて両腕を開いた。
ふたりの目の前には、広大な草原が広がっていた。
最初に目にした丘陵地帯よりも、ずっと広く、ゆるやかに、北のはるか遠くまで緑の海原が続いている。
そのさらに先には、白い雪を頂いた槍のような峰々がつらなる山脈が見えた。
西の方に目を転ずれば、草原の向こうに雄大な大河のきらめきが見え、その向こう岸はそそり立つ崖になり、その上に、また別の森が広がっているのが見えた。
「あれが、オニユリさんのお茶屋があるという崖なのね。そして、あれが――」
「そう。」
老人が、眩しそうに目を細めながら言った。
「あれが、女神のおわす薔薇の城じゃ。」
崖の上の、西の森の奥深くから、雲よりも高くまでそびえる、巨大な薔薇の木の姿があった。
その頂点に、果たして花が咲いているのか、蕾なのか、それすらもここからは見て取ることができなかった。
「不思議ですわ。」と星の娘は言った。「あんなに高いのに、あたくしたちが最初にこの国に入ってきたときには、あのお城、ちっとも見えませんでしたわ!」
「女神の魔法が働いておるのじゃ。」老人が言った。「あの城は、王国の核心じゃ。外から来た者の目には、容易に触れぬようになっておる。」
「さっきの男の方が、いつかあれを登り切る日が来るなんて、とても信じられませんわ。あの頂を極めることができる者がいるとは、とても思えないほどの高さですもの。」
「高いだけではなく、とても遠い。」老人は言った。「ここから見えている以上にな。目に見えておる距離と、実際にあそこまで辿り着くためにたどらねばならぬ道のりとは違うからの。
――おお、あれが、オニユリさんが言っておった迎えかな?」
草原のはるか彼方で、きらっと光る砂粒のようなふたつの点が動いたと思うと、目を凝らしている間に、どんどんこちらへ近づいてきた。
それは素晴らしく美しい二頭の馬で、一頭は薄い灰色、もう一頭は、ほとんど金に近い茶色の毛並みを持っていた。