軍病院
「オニユリか。」老人が、感動したように言った。「なるほど。あの子が――」
「さあ。」
オニユリの槍の穂先が、じわりと男に迫った。
「そこに立てかけてある剣を取って抜きなよ。あたしの槍の穂先が、見かけほど鋭くないことを祈りながらね。それが間違いだってことは、このあたしが、すぐに教えてやるけどね。」
「おい。」
それまで黙っていた、金の髪の男が口を開いた。
「そろそろ、兵舎に戻る時間だ。」
「そうか。」
紫の髪の男は、隠しきれず、ほっとしたような表情を浮かべた。
「では行こう。こんな奴らに構ってはおれん。」
「おい、おい、逃げるのか?」
オニユリが挑発するように言ったが、紫の髪の男はさっさとリングを出てしまった。
「その男を、さっさと軍病院にでも連れていくんだな。」
そう言い捨てて、男たちは森の中の道を去っていった。
「何だ、あの野郎! 勇気もないくせに、偉そうにしやがって!」
オニユリは激しく地団駄を踏んで叫び、男たちの去った方に向かってなおも乱暴な言葉を投げつけていたが、急にぴたっと口を閉じたかと思うと、その鋭い目を星の娘と老人に向けた。
「誰だい、あんたたちは!」
「わしらは、ただの旅人ですじゃ。」
星の娘が何か答えようとするよりも早く、老人が彼一流のゆったりとした調子で言った。
「森の中を歩いておったら、人の争うような声が聞こえてきましたのでな。何事かと思い、様子を見に来たという次第ですじゃ。」
「ふうん。そうか。」
それだけの説明で疑念を捨てたのか、少女はあっさりと槍を下げ、
「ほら、お前! いつまでめそめそしてんだ。起きろよ!」
うずくまったままだった黒髪の男の腕を掴んで、強引に引き起こそうとした。
だが、男は苦しげに呻き、すぐにまた地面に突っ伏してしまった。
「まったく! 今日はまた、ずいぶんひどくやられたらしいな。
仕方ない。あんたたち、悪いけど、手伝ってくれないか。」
急にオニユリがそう言ったので、星の娘は面食らった。
「手伝う、というのは?」
「こいつを、軍病院に担ぎ込む。風の足は草原にいるから、あいつを呼ぶより、あたしたちで運んじまったほうが早いんだ。あたしのところで治療してやってもいいけど、川を渡らなきゃならないし。」
オニユリの言葉のうち、星の娘が意味をはっきりと理解することができたのは最初の一文だけだったが、彼女はすぐさま頷いた。
「よろしいわ。――おじいさま、手伝ってくださいます? オニユリさんよりも、あたくしたちふたりのほうが、背丈が近いですもの。この男の方を、両側から支えてさしあげましょう。
オニユリさんには、道案内をお願いしたいのですけれど。あたくしたち、この森に来るのは初めてで、土地勘がありませんの。」
「ありがたいよ。」
オニユリは片手をすばやく動かして複雑な手ぶりをした。
どうやらそれが、彼女の一族の感謝の表現であるらしかった。
「ほら、お前も、何とかがんばって、自力で立てよ!」
それから、男を軍病院に担ぎ込むのは、思った以上に大変な仕事になった。
男はすっかりぐったりとして、自分の足で歩くどころか、立つこともできないような有様だったからだ。
星の娘と老人は、男に両側から肩を貸し、ふうふう言いながら、森の中の細い道をオニユリの後について進んだ。
オニユリはしきりに振り向いては「もう少しだ。」「根性を出せ。」と、担がれている男に気合いを入れながら、先頭を進んだ。
やがて、一同は森の中の開けたところに出た。
そこにはちょっとした広場のようになっていて、小川が流れており、それを越えたところに、白っぽい壁に赤い屋根の、二階建ての建物が建っていた。
一同が小川にかけられた橋を渡るか渡らないかのうちに、赤いひさしのついた建物の入り口から、ひとりの女性があらわれた。
「病人ですか?」
きびきびとそう問い掛けてきた女性の姿を見て、星の娘はもう少しであっと声をあげるところだった。
その女性は白い服を着て、白い帽子で髪を覆っていたが、その顔も、手も、服の白がくすんで見えるほど白く輝いていた。
その両の目はルビーのように赤く、きらきらと光を放っていた。
「怪我人です!」
オニユリが答えた。
「腹とか、その他あちこち殴られて、ぼろぼろになってるんです。どうか、一刻もはやく手当てをしてやってください。」
女性はぐったりとした患者の様子を手早く、注意深く調べ、頷いた。
「その方を、こちらに運び込んでいただけますか。」
星の娘と老人は、女性の後に続いて軍病院の中に入った。
オニユリは一番後からついてきた。
一同は、両側にいくつもの扉のある清潔な板張りの廊下を通り過ぎ、大部屋に入った。
大部屋は思ったよりも明るく、居心地が良さそうで、開け放されたいくつもの窓のかたわらには花が飾ってあった。
たくさんの寝台が並び、そのいくつかには足や腕に包帯を巻かれた兵士たちが横になり、静かに休んでいた。
「そこの寝台へ。」
男は、空いていた寝台に横たえられ、たちまち集まってきた――驚いたことに、みな、最初の女性と同じように輝く姿をした――女性たちによって、傷を拭ったり、湿布を貼ったりといった手当てを施された。
「それじゃあ、後はよろしくお願いします。」
黒髪の男がてきぱきと世話される様子を見届けると、オニユリはそう言って頭を下げ、さっさと踵を返して大部屋を出ていった。
星の娘と老人も、少し慌てて頭を下げ、オニユリの後を追った。
「いや、助かったよ。ありがとう。」
軍病院の外で待っていたオニユリが、出てきたふたりを見て、そう言った。
「いいえ、そんなこと、ちっともですわ。――あの、」と、星の娘は、好奇心を抑え切れなくなって訊ねた。「今の女性たちのことですけれど。あの方たちは、吸血鬼ですの?」
「しいっ!」
オニユリは、初めて慌てた様子を見せ、口を押さえる真似をした。
「とんでもない! あんた、あの人たちに聞かれたら、それこそとんでもないことになるよ。あの人たちは、そりゃあもう誇り高い一族なんだから。」
「では、そうではないのね、やはり。」
星の娘は、さもありなんと頷いた。
白い肌に赤い目という特徴こそ、吸血鬼の姿と似通っているが、うっすらと輝きを帯びた、どことなく高貴なたたずまいは、化け物の類には見えなかったからだ。
「もちろんだよ。あの人たちは、炎喰いの一族。その名の通り、火を食べて生きていて、普通の食べ物も水も口にしない。
あの人たちが衛生兵をやってるのは、あの人たちの身体は毒も、他の者には命取りになるような病気も、一切寄せ付けないからだ。身体の中に、大昔からの炎が燃えていて、毒や病気を焼き尽くしちゃうんだよ。」
「まあ!」
星の娘は、驚いて言った。
そんな奇妙な人々のことは、聞いたこともなかった。
「夜に、あの人たちを見たら、もっと驚くよ。薄い布をかけたランプみたいに、身体がぼうっと光ってるんだからね。」
旅人の驚きを面白がるようにそこまで言ったオニユリは、不意に、あっという顔になって手を叩いた。
「そうだ! 失礼なことをした。あたしは、人のことばかり言って、自分の名前も名乗ってなかった。
遅くなったけど、あたしの名前は、オニユリ。川の向こうの崖の上で、お茶屋をやってる。」
「オニユリさん。」
老人は、にこにこしながら言った。
「あなたのお名前は、存じておりましたぞ。槍使いのオニユリ! その腕前には男たちも及ばぬと、噂も高い達人じゃ。」
「いいや――そんなの――ちっとも。」
オニユリは、先程の星の娘とそっくりな調子で謙遜したが、その頬は少しばかり赤くなった。
「ああ、そうだ。あんたたち、旅の途中なんだろ? よかったら、あたしのお茶屋に寄っていかないか。あいつを運ぶのを手伝ってくれたお礼をしたいんだ。」
「まあ、ご親切にどうも。」
星の娘は心からそう言ったが、一方では、今日はいろいろな方にお茶をごちそうになる日だわ、と思って、おもしろい気もした。
「ところで、あの、不躾でなければ、うかがいたいのですけれど。さっきの男の方は、オニユリさんのお友達ですの? ほんとに、災難でしたわね。」
「いや。友達ってわけじゃないな。」
オニユリは槍を担いで、鼻の横をこすった。
「家が隣同士なんだ。いや、家というか――まあ、後で、見れば分かるけど。
とにかく、意気地のない奴でさ! あの野郎どもに、しょっちゅういじめられてるんだ。一発、がつんとかましてやればいいのに、いつもやられっぱなしでさ。仕方がないから、あたしがかわりに、あの野郎どもに文句を言ってやってるんだ。
あんな連中が隊長だなんて、王国軍もどうなってるんだろうな。ちょっとばかり剣の腕が立つっていっても、根性が腐ってたんじゃ、立派な軍人とは言えないよ。そうだろ?」
「本当に、その通りですわね。」
星の娘が深く頷いて同意を示すと、オニユリは満足そうに笑い、
「それじゃ、あたしは先にお茶屋に戻って、もてなしの準備をしておくよ。あんたたちは、後からゆっくり来ておくれ。」
と言って、さっさと元来た方へ歩いていこうとした。
軍病院を出るときもそうだった通り、このオニユリという少女は、まるで突風のような性分であるらしい。
「待って!」
星の娘は慌てて呼び止めた。
「その、川の向こうには、ここからどうやって行けばよろしいの? あたくしたち、今日、この国に着いたばかりで、少しも土地勘がありませんの。」
「そうだった! そのことをすっかり忘れてた。」と、オニユリは額を叩いて叫んだ。「あんたたちは、このロスコーの森にどうやって入った?」
「あちらから、登ってきました。」と、階段があったほうをさりげなく手で示しながら、老人が答えた。
「なるほど、あっちからか。」
オニユリも、妙に漠然とした言い方をした。
秘密の階段のことは、それをよく知る者同士のあいだでも、あからさまに口にしてはいけないことになっているのだ。
「もう一度、あっちから降りるとなると、あたしのお茶屋までは、ひどく険しい道を行かなきゃならないな。
まず、川の東側の渡し場に向かう道がある。〈滝壺〉のふちにへばりついたみたいな細道で、しょっちゅう地崩れを起こしてるから、あそこは通らないほうがいい。
〈滝壺〉を避けて西に回り込む道だと、丘を越えて、崖の南の端の森から登ってくることになる。でも、あそこの森は、侵入者を防ぐために罠だらけになってるから、道をよく知ってる者じゃなければ、まず生きては通り抜けられないよ。」
「他に、もっと安全な道はありませんの?」
顔をしかめて訊ねながら、星の娘は、そんな危ない道を通ってお茶屋にやってくる客が果たしているのだろうか、と疑問に思わずにはいられなかった。
「あるよ。」
オニユリはあっさりと言い、自分が歩いていこうとした方を指差した。
「このロスコーの森を北東に抜けていくと、だんだん地面が低くなってきて、最後には、草原に出られる。あんたたちが登ってきた灰色の崖は、東へ、こう、まわり込むにつれて、だんだん小さくなって、森と草原が出会うところでおしまいになるってわけ。
そこから、草原を西に突っ切って渡し場に行き、川を渡って、石段を登って崖の上に来るのが一番安全だ。
渡し場までは、あたしは〈風の足〉に乗っていくけど、あんたたちは〈風の足〉の友だちに乗せてもらうといいよ。呼んでおくからさ。
渡し場に着いたら、そこにいる番人が、川を渡る方法を教えてくれる。あんたたちが川を渡る頃には、あたしが、その辺りまで迎えに行けると思うよ。」
オニユリはよどみなく説明したが、星の娘には、その半分も理解できなかった。
彼女は、ようやく聞きとれた事柄のうち、最も疑問に思ったことを口に出した。
「〈風の足〉に乗っていく――ですって?」
「ああ! 〈風の足〉ってのは、馬の名前だよ。あたしのきょうだいなんだ。若くて、すごく足が速い。
あんたたちのために、友だちを二頭、迎えに来させるようにって、〈風の足〉に頼んでおくからね。」
「あなたは――馬と、話せるんですの?」
星の娘は、ほとんど信じられないというように言った。
「そりゃそうだよ!」オニユリは、何を言ってるんだという調子で笑った。「植物や鉱物はともかく、動物たちや鳥たちの言葉くらい話せなきゃ、一人前とは言えないよ、あたしたちの一族ではね。
まあ、蛇やトカゲとなると、少し難しい。あいつら、しゅうしゅうって、独特の言葉遣いをするからさ。
虫たちは――あいつら、声が小さくて、何言ってるかあんまり聞き取れないんだ、ここだけの話。」
そして、彼女は急にひらっと手を振ると、
「じゃ、待ってるから、ゆっくり来ておくれ!」
と叫んで、オニユリの花の色のスカートをぱっとひるがえしたかと思うと、次の瞬間には木立の中に駆け込んで、姿を消した。




