オニユリ
ふたりは出発した。
魔女の飲み物は確かにその足取りを軽やかにしており、ふたりはあっという間にいくつもの丘をのぼりくだり、花咲く丘陵地帯を越えた。
やがて、ふたりの目の前に、表面のざらざらとした灰色の岩壁がほとんど垂直に立ち塞がった。
いくつかの小さな出っぱりや割れ目の他には、手がかりになりそうなものはほとんど見られず、もしもこの崖を登り切る者があるとすれば、それはトカゲかヤモリか、あるいは伝説に謳われるほどの忍びの者に違いない。
「階段は、どこにありますの?」
「アウローラくんの話によれば、その入口は厳重に隠されておる。万が一にも、望ましからざる者が、この崖を越えて侵入することがないようにな。
なぜならば、この崖の上に広がるロスコーの森の中には、王国の病院があるからじゃよ。」
「病院ですって?」星の娘は驚いて言った。「この国でも、病気にかかるということがありますの? こんなにも空気が澄んでいるのに。」
「正確には、軍病院だそうじゃ。」老人は、片手で注意深く岩の表面を撫でて歩きながら言った。「病気よりも、怪我のためにやってくる者が多いと聞いておる。戦いや訓練で傷を負った兵士たちが、治療を受けるために来るのじゃ。――それ、あったぞ!」
急にそう叫び、老人は立ち止まって岩壁の一点を指し示した。
そこには、意図して探していたのでなければ確実に見落としてしまったであろう、小さな茶色の石がぽつりと飛び出ていた。
「少し下がっていなされ、念のためにな。」
星の娘が数歩、後ろに下がると、老人は頷き、茶色の小石を思い切り親指で押し込んで、自分もすばやくそこを離れた。
たちまち、崖の奥で何か重いものがゆっくりと動く音が響きはじめ――「今、ギアが噛み合うような音がしましたわ。」と、星の娘は言った――その後、ごろごろと鈍い響きが一分ほども続いたかと思うと、ずんと地面が震えるような感覚があって、ふたりの目の前の岩壁にすうっと一本の亀裂が入った。
ただのひび割れではない、明らかに人の手になる真っ直ぐな一本の亀裂は、石のこすれ合う音を立てながらどんどん広がり、奥に細い階段と、さらにその奥の真っ暗な闇をあらわにした。
「さあ、急いで入るんじゃ!」老人が叫んだ。「気をつけて! もう、閉まり始めておる。」
星の娘が先に飛び込み、続いて老人が入った。
それからものの五秒と経たないうちに、石の隠し扉は再び地響きを立ててぴったりと閉じ、一筋の光すらも射さない、完璧な闇が訪れた。
「おじいさま。」星の娘は、暗闇の中で、ほとんど吐息のような声で呼びかけた。「そこに、いらっしゃる?」
「無論じゃよ。」老人の声がすぐ側で答えたが、どちらも、相手の姿を目で見ることはできていなかった。
「爪先で足元を探りながら、階段をのぼっていけるかな、どうじゃ?」
「ええ。大丈夫――多分、大丈夫ですわ。ここに段があります。また、次。
こんなふうに階段の幅が狭くて、かえって助かりましたわ。両側の壁に手をついて進めば、転ばずに済みますもの!
さあ、ついていらしてね。のぼっていきますわよ!」
「頭上に注意しなされ!」
老人が言った。
「岩で頭を打たぬようにな! 幅がこれほど狭いならば、高さもそれほどはないと考えたほうがよいじゃろう。ここではまだ背中を伸ばして立つこともできるが、途中で、急に低くなるところがあるかもしれんからの。」
星の娘は右のてのひらを壁につけ、左手を前方の闇の上のほうにさしだしながら、慎重に階段をのぼりはじめた。
二十段ばかり真っ直ぐにのぼったところで、階段は急に左手に折れ、それから数段で、また左に折れた。
「この階段、螺旋構造になっているようですわね。――あら!」
星の娘が思わず叫んだのは、左に曲がったとたんに、一筋の細い光が階段に射しこんでいるのが見えたからだった。
岩壁に、縦に細長い隙間があいていて、そこから空が見えた。
星の娘はその隙間に近寄り、覗き込んでみたが、岩の厚みは片腕を伸ばしても外に届かないほどで、空以外の何も見えなかった。
「ここが通風孔になっておるのじゃな。」
老人は感心したように言った。
「これだけの岩盤を掘り抜くのは、さぞや大変な仕事じゃったろう。さあ、先人たちの仕事のあとを、どんどんのぼっていこう! わしの勘では、あともう三、四度曲がれば、上に着くという気がするぞ。」
ふたりがどんどんのぼっていくと、ほんのわずかな割れ目のようなものから、煙突を思わせる四角いものまで、さまざまな通風孔が次々と表れた。
それらの通風孔が新鮮な空気だけでなく足元を照らすあかりをもたらしてくれたおかげで、そこから先は、あっという間だったような気がした。
「出口ですわ!」
星の娘は叫び、ひととび跳んで、かたい岩盤の上から、ふんわりとした腐葉土の上へと着地した。
ふたりは並んで立ち、自分たちが今や、王国の民がロスコーの森と呼ぶ巨大な森林の中に立っていることを見出した。
周囲にはいろいろな種類の木々がまじりあって生えていたが、どれも大きく枝をはり、葉は青々と、樹皮はいきいきとしていた。
清々しく、また湿り気をおびた森のにおいを胸いっぱいに吸い込むと、石の階段をここまでのぼってきた足の疲れさえも吹き飛ぶような気がした。
頭上から鳥のさえずりが聞こえ、星の娘は頭を傾けて耳を澄ました。
「まあ、きれいな鳴き声! 何羽かいますわね。一羽が鳴くと、他の鳥が後について真似をしていますわ。まるで、さえずり方を習っているよう――」
と、そこで不意に星の娘は言葉を切り、眉をひそめた。
「おじいさま、聞こえて?」と、彼女は囁いた。「今、何か――」
ふたりは口を閉じ、耳を澄ました。
森の奥から、人の争うような声がかすかに耳に届いた。
ふたりは顔を見合わせて頷き、同時に、そちらに向かって駆け出した。
「けんかかしら――それとも、王国の敵が入り込んで、戦いになったのかしら?」
星の娘は、木々のあいだをぬって走りながら顔をしかめた。
「ここは、大戦争以前の時空のはず。平和だと思っていましたのに。」
「争いは、常に、そして、どこにでもある。」老人は答えた。「幼い子供が生み出す物語の中にも、じゃ。そこには、美しいもの、善なるものが存在するのと同じように、醜いものも、悪も存在する。
じゃが、な、アストライアくん。争いというものが、いつでも――」
老人は、そこまでで急に言葉を切った。
森の中に、ちょっとした広場のようになった場所があり、そこに、拳闘のリングが設えられているのが見えた。
四本の丸太を地面の四隅に打ち込み、そのあいだに太いロープを張り渡したもので、床は、地面に板を敷き、その上になめした革を敷いてあった。
そこで、ふたりの男が戦っていた。
一方は、金の縁取りのある黒い軍服を着た男で、髪は風変わりに紫色、拳に革のベルトを巻いていた。
もう一方は、粗末な服を着た黒髪の男で、拳に布を巻いていた。
そしてもうひとり、金の縁取りのある赤い軍服を着た、金色の髪の男がリングの外にいて、腕組みをしてふたりの様子を眺めていた。
「まあ、ひどい。やめさせましょう!」
星の娘は、憤って言った。
黒髪の男の足元はよろよろとおぼつかず、必死に腕をあげて身を庇おうとしているが、その動きは、もはや役に立つほどの速度を持っていなかった。
粗末な服は、胸元や袖が引き裂かれてずたずたになっていた。
紫の髪の男のほうは、服装も整い、すこしも痛手を受けた様子がなかった。
彼は黒髪の男の腹に拳を打ち込むと、機敏に下がって、相手がうずくまって苦悶するのを眺め、金色の髪の男に向かって拳を掲げてみせた。
金色の髪の男はにやっと笑って、何か言い返した。
「やめさせましょう!」
星の娘はもう一度鋭く言い、自ら行動を起こすべく、腰の後ろの武器に手を伸ばした。
「待ちなされ!」
老人が、その肩を掴んで止めたが、星の娘はそれを振り払った。
「待ちませんわ。あんなもの、正々堂々の戦いではないわ、弱い者をいたぶっているだけじゃないの!」
そして彼女は木々のあいだから飛び出していこうとしたが、それよりも早く、叫び声を上げながら広場に駆け込んできた者があった。
「お前ら! 下がれ、この!」
星の娘は、思わず、つんのめるように足を止めた。
駆け込んできたのは、星の娘よりもだいぶ年下と見える、黒髪の少女だった。
彼女は、びっしりと一面に草花模様の刺繍をほどこした、オニユリの花の色の服を着ていた。
そして、木の柄に石の穂先をつけた槍を手にしていた。
少女は走る勢いをまったく緩めぬまま、リングのまわりに張られたロープに片手をかけただけで、ひらりとそれを跳びこした。
そして猛然と槍を振り回し、うずくまっている男の側から、紫の髪の男を追い払った。
「また、こいつをいじめてんのか、お前ら! いい加減にしないと、ただじゃおかないからな!」
「ただじゃおかない、だと!」
紫の髪の男が、せせら笑うように言った。
「では、どうするというのかな、お嬢さん。それに、いじめてるとは人聞きの悪いことを言う。俺たちはこいつを鍛えてやっているだけだ。こんな弱い男がいるなど、王国軍の恥さらしだからな。」
「お前らこそ、王国軍の恥さらしだ。」
少女は槍の穂先を紫の髪の男に向けて、顔を歪めた。
「そうじゃないというなら、あんた、あたしと、一対一で戦ってみな!」
紫の髪の男は、気に入らないという顔をした。
「この俺と、一対一で戦うだと!」
露骨に馬鹿にするような調子で男は言ったが、星の娘は、その表情にちらっとよぎった不安の色を見逃さなかった。
「ばかばかしい。小娘を相手に勝ったところで、何の自慢にもならん。」
「そうそう、弱い者いじめは何の自慢にもならないよ、隊長さん。」
少女は鋭く言った。
「あいにく、あたしは弱虫じゃないけどね。じっさい、あたしを倒せば、あんた、ちょっとした噂の的になるよ。このオニユリを倒す自信があるなら、かかってきな!」